第9話 離陸

 十五分後にAIによるアナウンスが入り、飛行機が動き始めた。初めは白線で示されたコースをゆっくりと進んでいた機体は、滑走路に入るとぐんと加速し、勢いに乗って機首を持ち上げた次の瞬間にはあっという間に飛び立ってしまった。



 離陸時の内臓が引き上げられるような感覚が消えると、自分が宙に浮いているという実感が湧かなくて、マナカは窓の外を何度も確認した。地上はどんどん遠ざかり、機体はあっという間に雲の上に出る。もこもこと踏み心地の良さそうな白い絨毯の上に、青い空がどこまでも広がっていた。



 長いフライトの間、ジュンは変わらず目をつむっていた。備え付けのテレビやヘッドホンをいじる様子もなかったので、映画を観たり音楽を聴いたりしているわけでもなさそうだった。



「どうしてずっと寝てるんですか?」

「んー?」



 夕食として配られた弁当の唐揚げを咀嚼しながら、ジュンは少し考えて、口を開いた。



「まあ何度も乗ってるから新鮮味もないし、現地に着いたら着いたで忙しいからね。こんなにしっかり休める時間は地上にはないって、昔イタル先生が言ってたんだ」

「昔の真藤先生ってどんな感じだったんですか」

「……」



 ジュンはぐっと押し黙った。その顔がみるみる内に曇っていき、しばらく待つと、薄い唇から絞り出すような声が漏れ出た。



「怖かった。色んな意味で」

「と、言うと?」

「とにかく読めない。野生の猿を突然からかったり、ちょっと出かけたと思ったら笑顔でシロクマの肉をぶら下げて帰ってきたり、平気な顔で俺をサバンナに置き去りにしようとしたり……」

「ちょっと待ってください。真藤先生って、一体何をされてる人だったんですか?」

「動物カメラマン。でも元々は政府の諜報員だったんじゃないか、っていう噂もあった」



 ジュンはマナカの耳元でささやくと、「噂だけどね」と言って長い人差し指を唇の前で立てた。



「二十二世紀の前半は大戦が終わったばかりで、皆んな他国の身の振り方を必死に探っていたんだ。『自国は本当に武力を手放していいのか』『他国を出し抜いて優位に立とうとする国はいないだろうか』ってね。表立って言及されることはなかったけど、どの国も似たようなことをしていた。その傾向は戦後八十年頃を境に縮小されていったけど、諜報員という存在自体は二十三世紀初頭まで残っていたと言われてる」

「そんな話、聞いたこともなかった」

「まあ、噂がメインの都市伝説に近い話だからね。俺たちの世代はギリギリその名残を肌で感じながら幼少期を過ごしたけど、今の若い人たちには縁遠い話か」



 父親も母親もいない自分はなおさらだ、と、マナカは心の中で思った。政治的な話をする友だちもいないし、ゴシップネタを自分から調べにいくタイプでもない。唯一の肉親である祖母は、あまり昔のことを語りたがらない。



 自分の見てきた世界の狭さを改めて実感しながら、マナカは弁当と一緒についてきた味噌汁をすすった。薄茶色の液体はすっかり冷め切っていて、妙にしょっぱく感じられた。



 ロンドンのヒースロー空港には、現地時間で十四時三十分に到着した。眠気をもよおし始めた目に午後の日差しが痛い。機体を降りて通路を通りながら目をしょぼしょぼさせていると、ジュンがサングラスを貸してくれた。



「あげる」

「いいんですか?」

「うん。家に腐るほどあるし」



 羽田と同じかそれ以上に入り組んだMSWを乗りこなしながら、いつも忘れちゃうんだよね、と呟くジュンである。「俺に渡したら、また買わなきゃいけなくなりますよ」と声をかけると、飄々とした笑顔で振り返って、「それもまた一興」とうそぶく始末だ。



 ジュンは昔の真藤を読めないと言ったが、マナカからすれば、ジュンだって真藤に負けず劣らず読めない男だった。寡黙かと思えばよく喋り、親しげなようで、一線を引かれてるような感覚にもなる。



 ジュンのことは嫌いではない。ただ、彼と居ると常に自分の奥底を見透かされているような心地になって、落ち着かないのも事実だった。

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