第8話 搭乗

  羽田空港内のMSWはかなり複雑に入り組んでいて、一歩間違えれば二度と同じ場所には戻ってこれないような恐ろしさがあった。初めての空港の広さと混雑具合に圧倒されたマナカの手を引いて、ジュンは慣れた様子で分岐をこなしていった。



「はい、お疲れ」



 手荷物検査を済ませて待合スペースに着いたのは、搭乗ゲートが開く三十分前だった。マナカは手渡されたコーヒーを素直に受け取り、ぐったりと椅子に座る。その隣に腰を下ろしたジュンは、「トイレは行っとけよ」と言って、自分のサーベントで予定を確認し始めた。



 マナカはコーヒーを片手に、ガラス張りの壁から見える飛行機の離陸風景を見つめた。重量のある機体が、長い滑走路のとある地点でふわっと浮き上がる。何度見ても不思議な心地がした。



 車や電車は自動運転が導入されて久しいが、飛行機の操縦桿はAIによるアシストを頼りに、未だに人間が握っている。万が一にでもAIによる制御が不能になった場合、あまりにも多くの命が失われてしまうからだ。人類にとって空を飛ぶということは、いつまでも憧れであり、恐怖でもある。



 マナカは頭の中で、今後の予定を整理した。まずはロンドンのヒースロー空港まで十二時間。次の日に『世話係』との面談をして、実際にスペインに向けて旅立つのは明後日の朝だ。その後バルセロナからマラガという都市まで飛行機に乗り、そこからはバスを使って、依頼人が住むソルブランコへ向かう。



 多民族共生専攻に限らず国際交流の多い桜庭高校は、世界中の主要都市に支部がある。そこには『世話役』と呼ばれる、諸々の事務手続きやメンタルケアを行う職員がいて、定期的に生徒と面談をしたり、現地に様子を見にきたりするらしい。



「行くぞ」



 ぽん、と肩を叩かれて、マナカは慌てて立ち上がった。先ほどまで閉まっていたゲートが開いて、機械のアナウンスが搭乗時刻になったことを告げていた。



 ゲート付近に、同じ機体に乗る人たちがどんどん集まってくる。マナカもジュンの後ろからその列に加わって、見様見真似でゲート脇の読み取り端末にサーベントをかざした。ピッと軽快な電子音が鳴って、機体への入場許可が降りる。



 チューブのような通路を通って機内までたどり着き、ずらりと並んだ座席から自分の席を探した。マナカの航空券は横三列の内の真ん中だったが、ジュンが窓際の席を変わってくれた。



「うわあ、これ、ほんとに飛ぶんですか?」



 窓から眼下に広がる滑走路を見ながらマナカが言うと、ジュンは物珍しそうな顔で笑った。



「乗ったことないの? 今時珍しいね」

「はい。うち、ばあちゃんと二人暮らしで、旅行とは縁遠くて」



 マナカの周りでも、一度は海外に行ったことがあるという同級生が多い。特に日本から直行便が出ているアメリカやイギリスは、家族旅行の行先として定番になっている。サーベントによる支払いが世界中で可能になったことや、AIの導入によって便が増え、航空券が安くなったこと、労働時間が減って余暇が取りやすくなったなどが背景にあるが、マナカの祖母から旅行の話が出たことは一度もなかった。



 テレビで海外旅行の特集を見るたびに、マナカは少しだけ劣等感を抱く。自分が知りたくても知りえない世界を当たり前のように経験している人間が、この世にはごまんといるのだ。



「じゃあ今日はきっと楽しいよ」



 ジュンはそう言うと、目を閉じて休み始めてしまった。残されたマナカは若干の不安を感じつつも、期待に胸を膨らませて離陸を待った。

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