第6話 花盛り

 映画を観終え、上野公園の桜を見上げながら、ジュンは眩しそうに瞳を細めた。つられて顔を上げると、昼と夜のあわいに溶けるようにして、白っぽい花びらの帯が視界いっぱいにけぶっていた。



「俺も桜庭高校の出身だけど、一年の時はほとんど学校に行かなかったんだ」



 桜祭りをやっているようで、公園内はめかし込んだ男女や家族連れでにぎわっていた。MSWが設置されていないので所々に人だまりができ、それを避ける人の流れと、つられて立ち止まる人の流れとが複雑に入り乱れている。



「本は読んでいたけど学校の勉強はさっぱりでね。当然出席日数も留年ぎりぎりだったから、余りものの多文化共生専攻に入れられた」



 桜庭高校では、二年次からの専攻は成績優秀者から希望が通るのだ。したがって人気の高い専攻には優秀な人間が集まり、不人気の専攻には落ちこぼれや変わり者が詰め込まれる。



「俺は結構タチが悪いと判断されてたんだろうね。外部の人じゃなくて、イタル先生が直々に指南役になってくれたんだよ」

「そんなことあるんですか?」

「うーん、思うにそうするしかなかったんじゃないかな。俺、本当に、笑っちゃうくらい学校行かなかったから」



 マナカは「どうしてですか?」とは尋ねなかった。学校生活には些細なことばかり気にしなければやっていけないような空虚な忙しなさがつき物だし、ジュンはそういう滑稽さを感じた時、自分のようにとりあえず周りに合わせておこう、というタイプでもないのだろうと思った。



「顔合わせ初日に『生徒と先生じゃなくて、君と僕でやっていこう。自分のことはイタルって呼んでくれ』なんて言うんだ。キザすぎて癪に触ったから、あの人のことだけは絶対に呼び捨てにしない」



 俺は別に癪に触ったわけじゃないですよ、と弁明しておく。「わかってるよ」と軽く笑って、紺野は自分のショルダーバッグからカメラを取り出した。



「触ってみる?」



 ぽんと渡された機体の表面を撫でながら、ぐるりと一周させて観察する。カメラが登場する機会なんて、入学式や卒業式の全体写真くらいだ。業者の人が使っているのを遠目に見たことがある程度で、こうして直に触るのは初めてだった。



 ここは電源、ここはファインダー、というように、ジュンが覗き込むようにしながら各部分の名前や役割を説明してくれた。人通りの少ない脇に避けて頭上に向かってシャッターを切ると、陰気で薄暗い桜の写真が撮れた。



「貸して」



 マナカと同じアングルからジュンがカメラを構える。背面のボタンやレンズ周りを少しいじって何かを調節し、素早くシャッターを切ると、顔を上げて撮れた画像を見せてくれた。ぼんやりと映り込む宵の空をバックに一振りの枝が伸びている。花びらの一枚一枚、その筋まで克明に記録されている様子に、マナカは思わず息をのんだ。桜で華やぐ季節特有の高揚感と心臓を掴まれるような痛烈な寂しさが、たった一枚の画から立ち上ってくる。



「すごい」



 思わず素直な賞賛が唇からこぼれて、マナカははっと口元を押さえた。「仕事だからね」と、満更でもなさそうな顔でジュンが答えた。



「撮ってあげようか」



 ジュンはマナカを桜の樹の前に立たせ、顔の横に張り出した枝を見つめるように指示した。右手はそっと花に添え、視線は少し下向きで、と次々に注文が飛んでくる。通行人にちらちらと横目で見られて、マナカは自分の耳が熱くなるのを感じた。



「ジュンさん、恥ずかしいです」

「大丈夫だよ。綺麗だから」



 今度は違う意味で体温が上がるのを感じ、マナカは観念してポージングに徹した。少し顔を枝に寄せると、はんなりと柔らかい香りが鼻腔をくすぐった。



 パシャっとシャッター音がして、マナカは小さく飛び上がった。完全に無防備な姿を撮られたような気がして、焦ってジュンの方を見やる。



「うん。いい感じ」



 真剣な眼差しで液晶モニターを覗き込んでいたジュンは、突然ぱっと顔を上げた。はなやいだ屈託のない瞳がこちらを見つめた。



「ほら」



 たじろぐマナカに体を近づけて、ジュンは撮影したばかりの画像を見せた。そこに写っていた感じ入るような表情の自分は、鼻や唇のライン、まぶたや頬、首筋や鎖骨まで全くの別人のようで、でも確かに自分だと納得せざるを得ないような、不思議な姿形をしていた。



 ジュンはマナカの手を引いて近くのベンチに腰掛け、ショルダーバッグから手のひらサイズの四角い機器を取り出して、カメラと交互にいじり始めた。どうやらそれは小型の印刷機だったらしい。少し待つと、白い光沢のある紙に印刷された先ほどの画像が、横長の排出口からゆっくりと姿を現した。



「はい。あげる」



 おもむろに差し出されて、マナカはその写真を反射的に受け取ってしまった。自分で自分の写真を持っているなんて気恥ずかしくて、次の瞬間には突き返したい気持ちに駆られたが、機嫌よさそうに片付けをするジュンを見ると声をかけることもできず、マナカはズボンのポケットに丁寧に写真をしまった。



「何か食べたいものはあった?」

「いえ、特に」

「じゃあ少し歩いたら帰ろうか」



 陽が落ちて暗くなった公園内を歩き、再び電車に乗って高校近くの桜庭駅で降りた。駅前のファストフード店でハンバーガーを食べ、ジュンと別れる頃には十九時になろうとしていた。



 食事や写真のお礼を言って、マナカは自宅方面に歩いた。よく晴れた空には明るい月が上っていて、ぬるい風が心地いい。歩道をたらたらと歩くにはあまりにもちょうどいい気温だったので、足は自然と回り道を選択していた。



 大通りから外れて、入り組んだ路地を進む。木々の音が大きくなり、少し坂を上ったところに、ぽおっと黄色っぽい灯りが見えてくる。『空中庭園 ロホ』だ。



 マナカが最初にロホに来たのは、小学校一年生の夏休みだった。当時のマナカはクラスメイトが夢中になっているゲームになかなかはまれず、休み中はずっと一人で家の周りを探索していた。



 お盆前のある日、外に遊びに出たっきり帰り道がわからなくなったことがあった。細い路地を渡り歩いているうちに、大通りに戻れなくなってしまったのだ。いつの間にか小高い丘のようなところに来ていて、ゆるりと涼しい風が吹き、薄気味悪い気持ちがしたのを覚えている。



 手首に物が巻き付いているという感覚が嫌で、サーベントは居間のテーブルに置いてきていた。かろうじて残っていた方向感覚だけを頼りにマナカは道を下った。



 なぜか墓場の横道に出てしまい、半べそをかいていた時、道の先に温かい灯りが見えた。足早に近づくと、ガラス張りの壁越しに鬱蒼と茂る木々が見えた。



「こ、こんにちは」



 幼いマナカが体全体を使って両開きの扉を押し開けると、入り口付近に植え込まれた花が目に留まった。くっきりと赤い花弁が五枚集まって小さな花になり、それがいくつも集まって、黄色味を帯びた照明の下で咲き誇っている。



 強烈な引力を感じたマナカは、自分が迷子になっていることも忘れてその花の近くにしゃがみ込み、花弁の赤に見入った。突き抜けるように溌剌とした赤を見ていると、心の中に渦巻いていた記憶がないことに対する不安感や、クラスに馴染みきれないことへの苛立ちが、すーっと消えていくような気がした。



「いらっしゃいませ」



 しばらくそうしていると、特別怖くも優しくもない女性の声が頭上から降ってきた。はっと顔を上げると、気だるげな瞳と目が合った。



「僕、一人? 子どもは一人三百円」

「え? ええっと、俺、お金持ってなくて」

「ふうん。家は?」

「川向こう」

「そんなに遠くないね。今日はタダにしてあげるからまた来てちょうだい」



 案内されるがまま植物の森に足を踏み入れようとして、我に帰る。



「俺、迷子なんです。桜庭駅前の大通りってどう行けばいいんですか?」



 女性はきょとんと目を見開いてマナカを見つめ、やがてにんまりと唇を歪めた。幅広の二重がイタズラっぽく細められ、マナカの背筋はぶるりと震えた。



「一周して戻ってきたら教えてあげる」



 庭園内はそれほど広くない。が、小道の両脇から大振りの樹木が枝を伸ばしていたり、小さな川が再現されていたりして、ビルだらけの街中とは別世界のように感じられた。各植物の近くには植物の名前をカタカナで書いたプレートが添えられていて、マナカはそれを片端から読むことで、自分の不安感を紛らわせたのだった。



「ここの正面の小道に入った後は、とにかく今歩いている道よりも幅が広い方を選べば問題ない。そうしているうちに大きい通りに出るよ」



 一周して戻ってきたマナカに、女性は駅前の大通りまでの行き方を教えてくれた。大雑把なその説明は、幼いマナカにとっては返ってわかりやすかった。



 それをきっかけに、マナカはことあるごとにロホに通うようになった。別にいじめられているわけでも、友だちがいないわけでもないのに、教室にいるよりも植物に囲まれている方が満足した気持ちになるのは、子ども心に不思議だった。

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