第5話 問い
それから五日間、マナカは時折サーベントやタブレット端末でスペインの情報を覗きながら、残りわずかとなった日本での日常を満喫した。祖母の作った朝食を食べ、昼食までは本を読んだり散歩をしたりして過ごし、祈りと食事の後は昼寝をし、夕方少しだけゲームをいじって、早めに風呂に入り、夕食を食べ、少しくつろいで、そして寝た。まるで宿題のない夏休みのような、ただただのどかな五日間だった。
六日目、すなわち出発の前日は、もともと紺野から『最終チェック』という名目で学校近くのファミリーレストランに呼び出されていた。約束通り翌日の荷物を全て持って店に行くと、紺野はコーヒー片手にぼんやりと窓の外を眺めているところだった。
「お待たせしてすみません」
昼前のざわめきの中からなんとか紺野の姿を見つけ、駆け寄る。紺野は気にするなという風に首を振ると、席に備え付けられているタブレットでメニューを開き、どれがいいかとマナカに尋ねた。
「じゃあ、俺もコーヒーで」
「食べ物は?」
「いいです」
「遠慮するな。成長期なんだから何でも食え」
マナカは直感的に、きっとこの人は奢ってくれるつもりなのだろうと思って気を遣ったのだが、それも結局見透かされてしまっていた。諦めて一番食べたかったステーキセットをライス大盛りで注文すると、紺野は満足そうに瞳を細めた。
「リュック貸して」
対面から伸びてきた手に、大して物の詰まっていないリュックサックを手渡す。紺野は長い指でゆっくりとジッパーを開け、覗き込むようにして中身を点検し始めた。
「ん、オッケー。よくここまで減らせました」
紺野はまるで小学生を前にした時のような表情と声色でマナカをほめた。そしてすぐに、「この後はどうする?」と続けた。
「どこか行きたいところはある?」
「行きたいところって、紺野さんと一緒にですか?」
「うん。イタル先生がね、生徒とは現地に行く前にある程度交流を持っておいて、不安を和らげてやった方がいいって言うんだ。まあそれも、マナカが嫌じゃなければ、だけど」
「……映画とかでもいいですか」
マナカは気になる映画を一本観損ねていたのを思い出した。動画配信サービスの普及と家庭用スクリーンの性能向上・価格引き下げに伴って、映画館は二十一世紀末辺りから減少を続けている。今や都道府県内に一個あればいい方といった具合で、ここから一番近いのは上野だ。とはいえ、それももはや資料的価値の方が重要視されていて、新作は上映されず、いわゆる『古典』と呼ばれる二十世紀半ばから二十一世紀頃の作品が全国で順繰りに上映されているだけだ。
マナカが目をつけていたのはその中でもとりわけ古い、フィルム映画時代の作品をデジタル変換した洋画だ。この機会を逃したら大きなスクリーンでその映画を楽しむチャンスは二度とないだろうと思うと、急に焦る気持ちがわき上がってきた。
「もちろん」
紺野は快諾し、自分の昼食を頼んでいなかったと言ってサンドイッチを追加注文した。先にマナカのステーキセットが届き、サラダと交互に三分の一ほど食べたところで紺野のサンドイッチがやって来た。マナカは調理AIが完璧なミディアムレアに焼き上げた牛肉を頬張りながら、紺野の薄い唇が意外なほど豪快にパンやレタス、卵フィリングにかぶりつく様子を眺めた。
「なに?」
対面初日と同じような問いを投げかけられ、マナカは気恥ずかしさから首の辺りを何度かさすった。自分はちょっと紺野を見すぎだな、と反省する。多分、検索した写真から受けた彼の第一印象が、いかにも『線の細い文学青年』だったせいだ。
「思ったよりしっかり食べるんだな、と思って」
マナカが正直に答えると、紺野はくくっと喉を鳴らした。
「もしかして俺のことネットで調べた? あれって五年前の写真とか普通にトップに出てくるからね。気をつけた方がいい。今の時代調べればなんでもわかるけど、それが『わかったつもり』かもしれないってことは常々意識しておかないと」
特にマナカのこれからの二年間は、そういう経験の連続になるだろうからね、と。
とっつきづらかった第一印象とは反対によく喋る紺野は、紙ナプキンで丁寧に口元を拭いながら言った。
「紺野さんは、どうしてメモリアライズ・コレクターになったんですか?」
雰囲気も仕草も言葉も、今まで出会ってきた人間とは全く異なる紺野に、マナカは興味を抱いた。今の自分の認識が『わかったつもり』かもしれないと指摘されてしまえば、なおさらだった。
「写真が好きだったから、かな」
「それだけですか?」
「うん。がっかりさせてごめんね」
マナカは首を左右に振った。なるほど確かに、世界は思い込みでできているらしい。それは困難な現実だったが、同時に明確な希望でもあった。こうして他者との対話や経験を積み重ねていけば、自分はもっと身軽に、自由になっていけるという希望だ。
ピピっと左腕のサーベントが正午を告げる。青と白の強烈なコントラストがマナカの脳裏をかすめる。
紺野のサーベントも時を同じくして震え、二人は食事の手を止め、どこかへ消えてしまったウェイル・ボイスに祈りをささげた。
紺野と真藤が祈りを続けている側の人間だということは、前回学校で顔合わせをした時に既にわかっていた。話が一段落し、そろそろ帰ろうとマナカが席を立った瞬間に、三人のサーベントがピピっと同時に鳴ったのだ。そう来ればもはや三人の間に言葉は必要なく、各々が粛々と、目を閉じて祈った。
紺野が自分と同じ習慣を持っているとわかって、マナカは密かに安堵した。マナカの世代は祈りをする人としない人のちょうど過渡期にあたっていて、祈りの習慣がない人の中で自分だけが目をつむる時の、微妙に気まずい空気感を、マナカは時々味わってきた。
マナカには『自分があまり同世代の人間と交流するのが得意ではない』という自覚があるが、その原因の一端はこの瞬間にあると分析している。大勢の人に囲まれていながら自分だけが目をつむる時、そこにはいつも深い孤独があった。
マナカが原風景に別れを告げて目を開けると、紺野は既に食事を再開していた。最初に会った時と同じ、何を考えているのかわからない瞳に戻って、サンドイッチの最後のひとかけを口に放り込むところだった。
「この前も思ったんだけど、マナカは祈りをささげるんだね。最近の若い人はあまりやらないと聞いたけど」
もぐもぐと咀嚼を終え、途中で注文した二杯目のコーヒーに口をつけながら、紺野が言った。
「俺の周りには確かに、祈りの習慣がない人もいます。最近は特に……。でも俺にとっては生活の一部になっていて、やらないと落ち着かないんです」
「じゃあ俺と一緒だ」
首を傾げた紺野が含みのある視線でマナカを捉えた。
「ねえ、マナカは今、世界は豊かだと思う?」
唐突な質問に戸惑いつつ、マナカは皿に残った米をかき集めながら思考を巡らせる。食べ物は十分にある。AIが発達したお陰で、人間は辛い仕事から解放された。先進国と途上国の間には依然、格差のようなものが存在するが、その差はわずかな上に年々小さくなってきているらしい。少なくとも、どの国の子どもたちも、それなりの勉強と生活ができるようになった。戦争もなく、明日が当たり前にあるこの世界。
これを豊かと言わずして何と言おうか。
「豊かだと思います」
「そっか。じゃあ、世界中の犯罪率がこの十年で急激に増えてきていると言ったら、君はどうする?」
「それは……」
考えたこともなかった。目を丸くして固まるマナカに紺野は続けた。
「俺は仕事柄色々な地域に行って現地の人に会うけど、どの人も口をそろえて『最近は物騒だ』って言うんだよ。ウェイル・ボイスの喪失と共に人々の間から祈りが消えかけているように、戦後百余年の平和は静かに崩壊しつつあるのかもしれない。豊かであることは罪ではないけれど、そこに胡座をかくことはいつか身を亡ぼすと、俺は思っている」
君はどうしてこの専攻を選んだんだ、と。
射抜くような瞳が、マナカに問いかけた。
「俺は、」
青い空と白い塔が脳裏をよぎり、その鮮明さに改めて息を呑む。夢というにはあまりにも美しく、吸い込まれそうな空。おとぎ話と呼ぶには克明に記憶に刻まれた、白い塔の質感。
「幼い頃、恐らく日本ではないどこかにいました。断片的な記憶しか残っていませんが……。そしてそこで、一人の女性が殺されるのを見たんです」
ずっと、昔見た悪夢だと思っていた。
ぱんっと乾いた音が幼いマナカの鼓膜を震わせ、青く澄み渡った空に鮮血が吹き上がる。直後、目の前の地面に一人の女性が倒れ込んだ。亜麻色の長い髪が揺れていた。
世界宗教『バベル』が普及してから世界の犯罪率は大幅に下がり、殺人という言葉は今や旧時代の産物になった。だからマナカは、父の背中や白い塔と並んで幼い頃から自分の胸の内に残るこの映像を、実際に自分が見た光景だとは思いもしなかった。
しかし今、マナカは紺野に胸の内を語りながら、頭の中でああそうなのかと納得を重ねていた。口に出した途端、幻が現実の形を成したのだ。
塔は存在する。死んだ女性の記憶も本物だ。ではなぜ、自分はその他のほとんどの記憶を失ってしまったのか。幼少期を一緒に過ごしたはずの父は、なぜ死んでしまったのか。
「俺はもっと知りたいんです。自分のことも、世界のことも」
六歳の三月に日本で目覚めてから、マナカの人生はいつも透明な膜に包まれていた。過去も未来も、目の前の現実すら霞がかって朧げで、長い長い白昼夢の中にいるような十年間だった。しかしそれも、もう終わりにしたいのだ。誰かの言葉ではなく自分の耳で、写真ではなく自分の肌で、運命の声を聞き、世界を感じてみたい。
「そう」
紺野は深くは聞かず、代わりに薄く優しく微笑んで頷いた。
「あの、紺野さん」
「ジュンでいいよ」
「え?」
「俺は君を名前で呼ぶ。だからマナカも、俺のことはジュンでいい」
「ジュン、」
「うん」
「……さん」
「あはは」
俺もそうだったよ、と、ジュンは言った。
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