第4話 準備


 家に帰ったマナカが一週間後のスペイン行を告げると、祖母は「そう」とうなずき、やがてそれだけでは素っ気なさすぎると感じたのか、気をつけて行きなさい、と思い出したように付け加えて、いつものバラエティ番組に戻っていった。



 この家に連れてこられたばかりの頃の幼いマナカにとっては、この放任主義が寂しく思えたのも事実だ。しかし今は、自由気ままにやらせてもらえるこの環境にとても感謝している。



 マナカはとりあえず、事前に配布されたパンフレットを元に、スペイン行きに必要なものを家中から集めてくることにした。とはいえ保険証やパスポートなど最低限必要な物はサーベントにまとまっているし、あとは家庭用のタブレット端末と付属のキーボード、更に着替えが数着くらいだろうか。紺野の仕事はいわば依頼人の密着取材のようなものなので、基本的に依頼人宅にホームステイをさせてもらうことになる。したがって、使い慣れた物にこだわらなければ、必要最低限の生活用品に困ることはない。



 マナカがスペインに着いていくと決まった直後、紺野は不意に席を立つと、自分のサーベントを使って電話をかけ始めた。突然のことに驚いたが、しばらくすると流暢なスペイン語が聞こえてきた。



 思うにあれは、依頼人に滞在人数が増える旨を伝えていたのではないか。申し訳ないような気がしたが、案外すぐに電話は切れ、特に揉めた様子もなかったので、マナカはほっと息をついた。



 紺野の話したスペイン語の、明るくおおらかな響きが脳裏をよぎる。国際電話には自動翻訳機能が標準装備されているはずなのだが、紺野はそれを使っていなかった。学校で学ぶ英語以外の外国語を間近で聞くのは初めてで、マナカは思わず耳をそばだてた。



 リュックサック一つにまとまった荷物を部屋の端に置いて、タブレット端末で『スペイン ソルブランコ』と検索する。一週間後から滞在することになる村だと、紺野が教えてくれた。真っ先に出てきたのは、青い空をバックに白い壁の家が立ち並ぶ、明るくて美しい街並みだった。透き通った海も石造りの街並みも、何もかもが東京とは違う。MSWもなければ自動ドアすら見当たらない。



 昔から観光地として機能していたこの村は、景観保護地区として指定されているらしい。最低限サーベントの利用に支障はないが、AIの導入はとてもゆるやかで、中には料理人の手料理が食べられる店も多いという。



 マナカはそのまま検索を続けて、スペインについての一般的な情報を集めた。スペインはヨーロッパでありながら、イスラム文化が色濃く残る地であることや、昔は牛と人間が戦うというなんとも信じ難い競技が行われていたこと、パエリアという郷土料理がとてもおいしそうなこと、など。



 特に興味を惹かれたのはフラメンコだった。たまたま出てきた動画の再生ボタンをタップした瞬間、力強さと悲哀を内包した男の声がマナカの鼓膜を震わせた。端末から流れてくるギターの音色と人々の手拍子に、一気に熱に浮かされたような心地になる。人々の興奮の真ん中では艶やかなドレスをまとった女性が腰を左右に動かして、靴底で激しいリズムを刻みながら踊っていた。



 マナカは最初、フラメンコ特有の扇状的な雰囲気に気圧されて、思わず動画から目を背けた。野蛮だとすら感じた。しかし心臓を突き上げるようなリズムに逆らえず、もう一度動画に目を戻せば、後は最後まで画面に釘付けだった。



 胸を締めつけるような活気がそこにはあった。なぜか懐かしい感じがして、それを間近で見てみたいという想いが腹の底から湧き上がってきて、居ても立ってもいられないような心地がした。

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