第3話 紺野ジュン

 翌日の十一時、約束通りに真藤の研究室に行くと、隅のテーブルで二十代後半くらいの男性がティーカップを傾けていた。



「あれ?」



 入り口であたふたしながら、マナカはノックだけして返事も聞かずに入室した自分を後悔した。肝心の真藤が見当たらない。



「あの、真藤先生って今どこにいますか」



 男はすっと顔を上げ、感情の読めない瞳でマナカを見つめた。その薄い唇を見て、マナカは彼が自分の指南役・紺野純であると気づく。



「イタル先生は野暮用だって。生徒が来たら待たせておいてって言われた」

「そうですか。ありがとうございます」



 口では礼を言いつつ、心の中で頭を抱える。この沈黙の中、初対面の大人と二人きりは辛い。



「座ったら?」

「えっ? あ、はい。じゃあ、あの、失礼します」



 紺野の向かいの椅子が空いていたので、そっと近づいて腰を下ろす。先に自己紹介を済ませてしまおうか迷ったが、彼が真藤からどこまで話を聞いているのかわからない以上、切り出し方が難しい。



 マナカは左腕のサーベントを見るフリをして紺野の様子を伺った。前髪が短いせいか、事前に調べた時よりもさっぱりと健康的な印象だ。しっかりとした体つきで、肌も写真以上に日焼けしている。



「何か用?」



 ぼーっと窓の外に向けられていた切れ長の一重が、おもむろにマナカを捉えた。盗み見していたのがバレたらしい。慌てて「すみません」と謝ると、紺野は首を横に振った。



「別に。用がないならいいんだけど」

「用っていうか、えっと……紺野純さんですよね? メモリアライズ・コレクターの」

「そうだね」

「俺、草壁真中っていいます。今年から多民族共生を専攻しているんですけど、真藤先生から何か聞いてますか?」



 マナカの言葉に、紺野は不思議そうに首を傾げた。



「イタル先生とは昨日の夕方に少しメッセージのやり取りをしたっきりだよ。今、日本に居るかって聞かれて、午前中に帰ってきたって伝えたら、急に研究室に来いって言われた。君と関係があるの?」

「ええっと、多分、紺野さんに俺の指南役を」



 がちゃ、とドアが開く音がしたので、マナカは言いかけたまま入り口を見た。薄暗い廊下から右手に杖をついた真藤が入ってくるところだった。



「お帰りなさい、イタル先生」



 紺野はすっと席を立つと、真藤のためにドアを支えた。



「ありがとう。草壁君も急に来てもらって悪かったね」

「いえ、これからよろしくお願いします」



 立ち上がって頭を下げるマナカに「はい、はい」と相づちを打ちながら、真藤は自分のデスクの前に腰を下ろした。その様子を見届けた紺野が戸棚からティーカップを取り出して紅茶を淹れはじめたので、マナカは慌てて駆け寄った。



「俺やります」

「なんで?」

「俺が一番下っ端なので」



 高校に入ってからは面倒でやめてしまったが、中学生の時は地域の同年代が集まるテニスクラブに所属していたマナカである。そこで鍛えられた後輩根性のせいか、年上の人に雑務をやらせて自分だけ座っているというのがどうにも性に合わないのだ。



「君は君でしょ」



 答えた紺野の瞳に、初めて感情の揺らぎがにじんだ。



「俺はイタル先生とそこそこの付き合いがあって、この部屋のことをよく知っている。ここで紅茶を淹れたことも幾度となくある。それに比べれは、君はまだお客さんだ」



 不機嫌そうな表情を見てマナカはたじろぐ。差し出がましかった、ということだろうか。若干落ち込みつつ「すみません」と謝ると、デスクの方で真藤がのんきに笑った。



「ジュン、君は相変わらずだね。急にそんな言い方をしたら草壁君が気の毒だよ」

「……すみません。久しぶりにこういうの見かけたので」



 紺野は首を傾げながらじっとマナカを見つめた。「俺が言いたかったのは、」と前置きして、再び感情の読めない瞳に戻り、淡々と口を開く。



「気にせず座ってて、ってことだ。さっき君が来た時にも紅茶を淹れてあげればよかったね」



 ごめんね、と謝られ、なんと答えたらいいかわからず、マナカは頭を下げて先ほどまで座っていた席に戻った。独特のコミュニケーションに頭が追いつかないでいる間に、紺野が湯気のたつ紅茶を運んできた。



 ティーカップを持ち上げると、陶器の滑らかな触り心地がすっと手になじんだ。今時、家の外で人間が淹れた飲料を飲む機会はなかなかない。オフィスやカフェテリア、カジュアルレストラン、そしてマナカの祖母宅のような一部の例外を除いたほとんどの一般家庭にドリンクサーバーが普及しているからだ。



 ふと思い立って辺りを見回せば、真藤の研究室も、マナカの家に負けず劣らず古い設備が残っているようだった。そもそも入り口の扉からして自動ドアではない。奥の棚には紙の本もかなり所蔵されている。



「で、今日は何の用ですか? イタル先生」



 最後に自分の紅茶を淹れ直した紺野が席に着きながら尋ねると、「ああそうだった」とティーカップを置いて、真藤は話し始めた。



「ジュンに草壁君の指南役をお願いしたい」



 いきなり名前を出されてマナカはぴくりと肩を震わせた。そんなマナカを一瞥してから、紺野は表情を変えずに真藤を見返した。



「指南役って、彼が俺の仕事についてくるってことですか?」

「そうだねえ」

「そういう大きなことはもっと早く言ってください」

「他を当たっていたんだけど、直前に断られてしまってね」

「嘘ですね。普通に頼んだら俺が断ると思って、こうなるまで引き延ばしていたんでしょう。了承する前に生徒まで呼び出して」



 俺には『指南役が決まりました』と言っておいて、どうやら二人の間ではまだ話がついていなかったらしい。マナカは肩身が狭い思いをしつつ、ここで紺野が指南役を断ってしまったら、今後の学生生活はどうなってしまうのだろうかと自分の身を案じた。



 ちらりと紺野の顔色をうかがうと、深い闇の色をした瞳とばっちり目が合った。マナカの表情から何を読み取ったのかは定かではないが、紺野はしばらく沈黙した後、すっと目を細めて大きくため息をついた。



「わかりました。引き受けます」

「ありがとう」



 真藤が目尻の皺を深くしてにんまりと微笑む。その顔に絶対零度の視線を食らわせてから、紺野はマナカに向き合った。



「草壁、何君だっけ」

「マナカです。真ん中って書いてマナカ」

「マナカ。俺の次の仕事先はスペインだ。一週間後に発つけど準備はできる?」

「あ、はい」

「パスポートは?」

「大丈夫です」



 マナカはサーベントを操作して、パスポートの有効期限欄を紺野に見せた。進路が多民族共生専攻に決まった時に、今年の四月に合わせて手続きしたばかりのものだ。有効期限は、二二二四年四月一日から二二二九年三月三十一日までの五年間。



「いいね。ぴかぴかだ」



 紺野の薄い唇が三日月のような弧を描いた。よろしく、と差し出された手をそっと握り返す。その生ぬるい温度にまごつきながら、マナカは「お願いします」と頭を下げた。

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