第2話 メッセージ

 手近なイタリアンチェーン店で昼食を済ませて、マナカは十四時には家に帰った。なんとなく、早めに風呂に入りたい気分だった。



「ばーちゃん、風呂沸かしていい?」



 居間のスクリーンで大音量でバラエティ番組を流している祖母に声をかける。



「ばーちゃん、おい、ばーちゃんってば」

「ええっ?」



 マナカはため息をついて、自分のサーベントからスクリーンを操作した。AIタレントの賑やかな笑い声がぶつりと途切れる。



「風呂、沸かしていい?」

「ああ、風呂? 好きにしい」



 マナカが再びため息をつきながら風呂場に向かうのと、祖母が自分のサーベントでスクリーンを操作するのは同時だった。舞い戻ってきた笑い声を背中で聞きながら、マナカは暗い廊下を進んだ。



 マナカの家は、というか正確には父方の祖母宅なのだが、とにかく色々と造りが古い。風呂の栓は自分で閉めに行かなければならないし、個人宅でもエレベーターが主流となったこの時代に、階段なんて代物が存在する。



 小学校一年生で初めて友だちの家に泊まりに行った時には、心底驚いたものだ。店でしか見たことがなかったエレベーターが玄関前に平然とあるし、廊下はMSWだし、サーベントからの操作一つで炊事洗濯掃除といった家事全般が全て完了した。もちろん、風呂の栓も自動で開閉する。



 生活していく上で人間がやらなければならないことといえば、調理AIが作った食事を食べることと、清掃AIが綺麗に整えたベッドで寝ることと、風呂、トイレ、歯磨きくらいだろうか。



 カーテンが自動で開閉することに感動して、いじりまくって壊してしまったのは、未だに苦い思い出である。



「よいしょっと」



 上半身を屈めて風呂の栓を閉める。隙間がないことを確認してサーベントを操作すると、しゃーっと音が聞こえてきて、すぐにお湯が溜まり始めた。二階の自室から着替えを持ってきて脱衣所に置いた所で、サーベントの画面が光った。



 メッセージの通知だ。送り主は『真藤至』。



 ついにきたか、と身構えて、マナカは通知をタップした。



『多民族共生専攻 二年 草壁真中君



 初めまして。多民族共生専攻担当教諭の真藤至です。進級おめでとう。これからよろしくお願いしますね。



 さて、さっそくですが、君の指南役が決まりました。メモリアライズ・コレクターの紺野純さんです。



急で申し訳ないのですが、明日の十一時に研究室まで来てもらえますか? 顔合わせをしたいと思います。



桜庭高等学校 多民族共生専攻担当 真藤至』



 マナカはメッセージに『了承』の回答を送り、そのままサーベントの検索機能を使って『紺野純』を調べた。約七センチ四方のディスプレイに本人の運営するSNSがヒットしたので開くと、ほどなくして、世界各地の風景や人々の写真がサムネイル表示される。一番上のプロフィール欄には『メモリアライズ・コレクターの紺野純です』というシンプルな自己紹介が載っていた。



 バベルによる世界情勢の安定と技術革新による生産力の向上に伴って、ここ半世紀、人々はかなり自由に仕事を選べるようになった。二十年ほど前にベーシック・インカムが導入されてからはその傾向に拍車がかかり、今まで採算が取りづらかったエンタメ業界が特に盛り上がりを見せるようになる。



 『メモリアライズ・コレクター』という職業も、そういう流れの中で生まれた。主な仕事は放っておいたら忘れ去られていってしまう人々の日常を作品という形で記録することであり、写真や音楽、小説、絵画など、手段は人によって異なる。



 芸術家との違いは、彼らが極めて職人的な仕事をする点だ。



 ほとんどのメモリアライズ・コレクターは一般の人から依頼を受け、現地に赴き、その人たち生き様を元に作品を創っていく。ちょうど、ノンフィクションとフィクションの中間をとっていくイメージだ。そのデフォルメ加減は、用いる手段と並んで作家自身の個性が出るポイントでもある。



 各投稿を見るに、紺野純は写真をメインに活動しているようだ。北欧、東南アジア、アメリカなど、ずいぶんと色々な国に行っている。作品も、一枚で魅せるものから何枚かの写真をコラージュしたもの、言葉を少し添えたり白黒写真があったりと幅広い。



 検索画面に戻ると、何かのインタビュー写真だろうか、白いソファーに腰掛けて口を開く紺野純本人の写真が目に留まった。うつむきがちな体勢と少し長めの前髪のせいで、目元はよく見えない。すっきりとした鼻筋と神経質そうな薄い唇はいかにも芸術家といった風貌だが、肌は小麦色に焼けている。

 あまり気の強そうな男ではないと見て、マナカはほっと一息ついた。



 『指南役』は多民族共生専攻特有のシステムだ。生徒一人ひとりに『指南役』として実際に世界中を飛び回る職業人が割り当てられ、共に旅をする。短くても一年、長くて二年の付き合いになるので、指南役は穏やかな人であるに越したことはない。



 ――それにしても急だな。



 脱衣所に戻って服を脱ぎながら、マナカは心の中でぼやく。



 他専攻の学生たちは今日の午後が懇親会になっているようだった。したがって、多民族共生専攻も何かしらの連絡が来るとは思ってはいたが、まさか明日いきなり指南役との顔合わせになるとは。



 この予定の立たなさも、多民族共生専攻の不人気の一端を担っているのだろう。事前にもらった予定表はほとんど空欄だったが、欄外に赤字で『今後二年間、キャンセルになって困る予定は入れないこと』とあった。基本的にそれぞれの指南役のスケジュールに合わせて行動するので、予定の立てようがないのだ。一週間休みのつもりでいても、指南役が急用で次の日に日本を発つとなれば、生徒は急いで荷物をまとめてついていく他ない。そんな環境に好き好んで身を置きたがる高校生なんて、よほどの暇人か、もともと国外に対してそれなりの思い入れがある人間くらいだろう。



風呂をすませた後は自室でひと眠りし、家庭用のタブレット端末で夕食までの間に漫画を読んだ。サーベントは小型で持ち運びには最適だが、スクリーン表示の見やすさに若干の難がある。



 昔は漫画や小説、教科書なども全て紙でできていた。授業のノートや日常のメモなども、紙に『ボールペン』や『鉛筆』を使って書いていたという。今や図書館や博物館でしか見かけないようなそれらが時々恋しくなるのは、マナカの幼少期が少し特殊だったせいだろう。



 他の多くの同世代の人間とは違って、マナカは本が溢れる空間で暮らしたことがある。カサカサと紙の上を走る鉛筆の、なんとなくくすぐったくて温かい音を知っている。それらと共に思い浮かぶのは亡き父の後ろ姿だ。



 マナカの父は、マナカが小学生になる年の三月に亡くなっている。



 仕事部屋で木製の椅子に腰かけ、前かがみで仕事をする父の周りには、紙の本が大量に積まれていた。デスクの上には鉛筆やボールペン、万年筆、ノートブックなど、百年以上昔の文房具が当たり前のように転がっていて、彼はそれらを巧みに使いこなし、絶えず書き物をしていた。そしてウェイル・ボイスが聞こえると、仕事の手を必ず手を止め、目を閉じて祈りをささげた。



 マナカにとって『祈り』とは、そんな父を追慕する時間でもあった。だから十年前に突如としてウェイル・ボイスが消え、人々の中で祈りの習慣が失われつつある今でも、毎日欠かさずに祈りをささげている。



 二二一四年の三月二十日に『鯨の声』が突然聞こえなくなった原因については、これまで様々な議論が交わされてきた。だがそもそも、『世界中に』『同時に』聞こえてくる音というのは、存在自体が異常なのである。したがって、むしろ最近は、「『鯨の声』は人類の集団幻聴だったのだ」と主張する声も少なくない。それが幻聴でないことは、第四次世界大戦の終結という歴史が証明しているのに、だ。



 幼少期に幾度となく聞いたウェイル・ボイスの神秘的な響きを、マナカは今でもはっきりと覚えている。どこに居ても何をしていても、するりと心に入ってくる澄んだ音色だった。ウェイル・ボイスを思い出す時、マナカの頭に浮かんでくるのは、一本の塔だ。高く青く澄んだ空を貫くように、白い一本の塔がどこまでもどこまでも伸びていく。それは不自然なほど鮮明な、ここではないどこかの景色だった。



 ただの空想か、あるいは。



 もし、そんな場所が地球上に存在するのならば。



 マナカには小学校入学以前の記憶がほとんどない。仕事をし、祈りをささげる父の背中を含めて、いくつかの断片的な映像が残っているだけだ。それがなぜなのか、記憶のブラックボックスに何があるのか、マナカはずっと考え続けてきた。そしていつからか、自分はあの白い塔を知っているのではないか、という漠然とした仮説を抱くようになっていた。

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