本編

 島根から上京して、入社式を終えた帰り道、青山通りをひとり歩いていると、サングラスをかけた男が、やわらかな声をかけてきたのです。

 こんにちは、いまお時間ありますか? と。

 タイプの顔でした。そして声、溶けかけの、アイスクリームみたいなとろとろの甘い声、その声が、耳の穴をくすぐって、なんだかくらくらしちゃって、もしかしてこれって運命的な出会いなのかも、と思いました。

 上京したてのわたしは生粋の処女で、男性との恋愛はお手て繋ぎの段階で終わっていたため、できればその先にいきたいと、すこし焦っていたのです。ですからそのとき、処女を捨てるチャンスが来た、と心がきゃっきゃとくるくる踊りました。(もちろんそんなこと、おくびにも出しませんでしたけれど。)

 こっちに来て、かれのうしろについていくと、駐車場に一台の白いトラックが停まっていました。それはよく見なくても、普通のトラックとはずいぶん違うものだと分かりました。キャンピングカーのようにも見えましたが、車体の片側が一面鏡張りになっていて、近づいてみると、なんとも間抜けな顔が映っていました。地味なスーツ姿で、美人とも言い難い、垢抜けない表情の、わたし。

 あんまり可愛くないのに、なんで声掛けられたんだろうと、疑問に思っていると、かれはこっち、と言ってわたしの手首をぎゅうと握り、一緒にステップをトントンあがると、そこにはアルミ製のドアがあり、かれに続いてなかにはいると、車内は思っていたよりも広く、壁や天井は青空に雲が浮いているファンシーな内装で、淡いレモン色の二人掛けソファのうえには『ペペ』とプリントされたローションの容器が数本置かれ、床にはブルーシートが敷かれていました。先ほど外から見た鏡張りのところには、薄桃色のカーテンがかかっていました。

 子どもが玩具を自慢するような表情で、かれがカーテンを一気にひらくと、外のあかるさがさっと差し込み、わたしは目をほそめました。

 ひとが行き交い、みどりの街路樹が風に揺れ、自転車に乗った高校生が視界を横切っていきました。鏡に映った自分の顔を思い出すと、いま見えているこの景色は、こちら側から見えているもので、あちら側は鏡だから、こちら側を見ることはできない、それは分かっているはずなのに、なんだかちょっと、どきどき、しました。

 わたしが興味深く、マジックミラーに触れたり、きょろきょろと視線をさまよわせていると、鏡張りの壁だと思っていたところの一部分がひらいて中からぞろぞろと、カメラや照明といった撮影機材を持った男たちが現れました。

 そこでわたしはやっとこれがアダルトビデオの撮影だということを知ったのです。(いま振り返ってみると、正直、かなり抜けていたと思います。でも、あのときのわたしは、まるで花の蜜に引き寄せられる狂った蝶のように、かれに惹かれていたのです。) 

 かれに出演交渉をされながら、わたしの頭は、かれと裸で抱き合う妄想でいっぱいでした。ギャラなんて、どうでもよかった、かれとひとつになることさえできたら、それだけでいいと思っていたから。でもかれは男優ではありませんでした、それであたまが真っ白に。かれは監督で、このマジッ○ミラー号の企画立案者でもありました。わたしの相手はできないと、すまなさそうに詫びました。わたしの相手は、プロの男優がしてくれるというのですが、それでは意味がないのです、ひとりで勝手にはしゃいでいた自分が恥ずかしく、泣きたくなりました。

 感情を素直に言葉にして伝えることは、難しいと同時にとても躊躇われることです、けれども、いま言わなければ、未来永劫わたしは誰かを愛することができない、そんな直感めいた閃きは涙に変わり、

「あなだが、いいのぅ」と、言葉はこぼれ、しぜんにぽろぽろ、涙も流れおちました。

 かれは驚いた様子で、わたしを見ていました。わたしは、涙と、べとべとの鼻水を垂らしながら、さらに声をしぼり出しました。

「あなたがいいの、あなたが好きなの、本当に、好きで好きでたまらないの、どうかしてるって思うかもしれないけれど、本当なの、だからお願い、わたし、あなたと……、あなたとセックスがしたいの」


 サングラスをとったかれの顔は、まだあどけない少年のようで、わたしは、この顔をどこか遠くの彼方で見たことがあるような、懐かしい気持ちがしました。どこかで会いましたか、と聞くと、かれは微笑みながら、ちいさく首をよこにふり、それから、わたしに優しく口づけをしてくれました。煙草の味がしました。いけないことをしている、そんなやわらかい罪悪感が心地よく、とろけるように、わたしはかれに身を任せる、外では、メガネをかけたサラリーマン風の中年男性が、興味深そうに、こちらを覗き込んでいました。

 わたしは、かれのボクサーブリーフをするりとおろしてぶるんと飛び出した、天井をまっすぐにむいた竿(それはあつく脈打つ生き物のようでした。)を、ひだりてで、上下にゆっくりと動かし、舌で舐め、だ液のたまった口にふくみ、また手でしごくと、顔を真っ赤にしたかれは、身体をびくっとふるわせて、勢いよくそれを出したあと、ソファにどかっと腰を落としました。ブルーシートのうえにおちたザーメンは、しろい照明のひかりをあびて、きらきらかがやいていました。

 わたしは、接吻して、かれの頭を抱きしめました。幼い旋毛つむじがみえました。かれに胸を揉まれ、吸われ、身体ぜんたいに、快楽の火花がばちばち激しく散り、わたしは、ソファにごろんと寝転ばされて、いままで誰にも触られたことのない、たらりたらりと蜜のしたたる穴の中へ、冷たい指先と、あたたかい舌を差し入れられて、甘ったるい声をあげて、とろとろになった頭で、ぼんやりと、幸せについて考えていると、かれが、入れるよと、やさしく囁いたその一言で、わたしのあたまのなかで、愛すべきかれの一物が、黒々とした醜悪なものへと姿を変え、それがわたしのなかに入ってくる、そのことが急に恐ろしく感じられたわたしは咄嗟にソファから起き上がり、駆け出したそのとき足の裏になにか冷たくてヌルッとしたものを踏み込んだわたしの視界は素早くきれいな青空に変わったかと思うと頭の中でものすごい音が響き渡り、気がつけば、わたしは部屋の片隅でぽつん、と立っていたのです。全裸で。

 マジッ〇ミラー号と同化したときに、そのときの映像が、わたしのなかに流れ込んできたのですが、きゅうに叫び声をあげて半狂乱で駆け出したわたしは、ザーメンをかかとで踏み込んで、つるん、と勢いよく半回転し、頭のうしろを床に置かれてあった撮影機材の固いところで強打して、そのまま動かなくなったのです。現場は騒然とし、わたしは担架に乗せられて、救急車で運ばれていきました。全裸で。(あのとき感じた恐怖心は、いったい、なんだったのか、いまでもはっきりしませんが、わたしのすくない語彙で例えるなら『我に返った』という感覚がとても近いです。)

 

 それからしばらくは、警察がきて写真を撮ったりして、かれも疲れたような表情でその場に立ち合っていました。

 誰かを怨むとか、そういった気持ちはありませんでした。ただ、田舎の老いた両親や高校生の弟、親戚友人知人には、このことはいったいどう伝わったのだろうかと、AVの撮影中に滑って頭を打って死んだなんて、恥ずかしくって、このときのことを思い返すだけで、いまでも死にたくなります。

 わたしが死んでから、二か月くらいたった頃、男たちがぞろぞろと入ってき、わたしのなかをきれいに掃除して、撮影の準備にとりかかりはじめました。かれも、カメラのチェックをしたり、照明の位置を指示したり、忙しそうに動きまわっていました。

 ドアが開いて、きれいな女性が入ってきました。かれが、スタッフにむけて紹介します。彼女は、キカタン(企画単体女優)でした。

 撮影は、まずはじめに黙祷からはじまりました。一本立ちした線香の煙が、空色の車内にゆらゆらと漂います。

 なにも知らない女優は、顔を真っ青にして、ねぇ、もしかして誰か死んだの?と、傍にいたカメラマンの男に小声で尋ねると、男は、わたしという素人女がとある事故で死んだのだ、と内容を濁して言いました。それを聞いた彼女の顔に、すこし血の色が戻り、悲しげな表情で、目を閉じました。

 わたしは不安になりました。もしかしたら、彼女は恐怖で現場を降りてしまうんじゃないかと、でも、流石は女優です。そこいらの素人とは、まるきり違いました。

 インタビューでは、しっかりとした受け答え、たびたび交えるあかるいユーモア、はにかんだときにみえる、ちいさな八重歯。大人の色気と少女のような爛漫らんまんさを身につけた女性でした。

 企画の説明が、かれ(監督)から行われます。女優は『成人男性の性調査』のアンケートと称して、街ゆく童貞らしき男たちに声をかけ、アンケートを記入してもらい、性体験の有無の欄で(無)にチェックを入れた童貞をここまで連れてきてもらって、マジッ〇ミラー号のなかで卒業させる、というものでした。

 彼女は、カメラのまわっていないところでかれに、えみさん(わたしの名前です。)の分まで頑張るね、と言って、監督を泣かせました。彼女はそんなかれの頭をくしゃっと撫で、じゃあいってくるよと意気込んで、晩夏のあかるい歌舞伎町にくり出していきました。

 しばらくすると、さくら通りで見つけてきたという、二十代後半くらいの、背が低くて毛深くて、肌が汚く、指紋のあとのついたメガネをかけた、いかにもな男性と一緒に帰ってきました。わたしだったら、絶対にセックスしたくない相手です。キスだって、死んでも嫌です。

 彼女は、童貞と軽く話をしたあとに、言葉巧みに童貞の服を、母親が幼児を風呂に入れるときみたいにするすると脱がせて、トランクス一枚にさせると、自らも服を脱ぎ始めました。ブラジャーのフックが外されると、つきたての餅のような、ふたつの乳房があらわになって、童貞は、その胸にいきなり吸い付きました、本能丸出し、という感じで、正直いって、見ていて気持ちのいいものではありませんでしたが、彼女は聖母のように微笑みながらそれを受け入れ、手慣れた様子で童貞のトランクスを脱がせて裸ん坊にさせると、彼の頭を膝のうえにのせました。ちょうど、赤ん坊にお乳をあげるようなかたちです。童貞は、必死に乳首を吸っていましたが、彼女のほそい指先が、童貞の竿に触れたとたん、彼は短い悲鳴と一緒に、役所に置いてある水飲み機くらいの勢いでザーメンを宙に放出して、果ててしまいました。

 ごめん、はじめてなのに、刺激強すぎたよね。

 そ、そんなことないです、ぼくの方こそ、す、すみません。

 童貞の挙動不審な態度が気になったのでしょうか、監督はカメラを止めて、すこしのあいだ休憩をとることにしました。彼女は、童貞のとなりに座り、語り聞かせるような口調で、

「実はね、すこし前に、ここでひとりの女の子が死んだの。その子はね、処女だったんだって、残念だよね、せっかく卒業できると思ったのに、死んじゃうなんてさ」彼女は本当に悲しげな目をして、言いました。童貞は、ただ黙って聞いていました。彼女は目で、監督に合図を送り、かれは撮影を再開しました。


「なにが言いたいかっていうと、天国で見ている彼女にも、見せてあげたいなって、セックスはね、相手がいるから成り立つひとつのドラマだよ、わたしとあなた、ふたりでひとつのドラマをつくるの。わたしたちはいまを生きている、だからこの瞬間だけは、わたしはあなたを世界でいちばん愛しているの、本当よ、わたしはいま本当に、あなたのすべてを愛しているの、あなたの顔も、毛深い身体も、手も足も、口の中の舌だって。これから君を知るのだし、そしたらもっと好きになる。だから君も、わたしを知って、わたしを愛して。世界でいちばん、わたしを愛して」

 彼女の黒々とした眼球に、俯いている童貞の姿が見えます。童貞は、顔を上げ、

 ぼく、頑張ります。

 うん、よく言った。改めてよろしく、わたし、あけみ、って名前なの。

 ねぇわたしの名前、言ってみて。

 あけみ、さん。

 ううん、あけみ、ほら、言って?

 あけみ。

 舌だして。

 べ、と出したぴんくの舌に、あけみさんは吸いついた、じゅるじゅるといやらしい音が部屋中に響き渡る。

 あけみさんと童貞は、まるで本物の恋人同士のように、お互いを愛しあい、求めあって絡まりひとつの生き物のように蠢動しゅんどうし、蒸れた体液が混じりあって、獣のような臭いが部屋じゅうに満ちていく、その光景を、わたしは部屋の隅に立って、どきどきしてみていました、あけみさんの言った通り、これは『本当のこと』だと感じました。

 ふたりは汗だくになりながら、身体を重ね合いました。生々しい結合部が見えるたびに、あけみさんの甘い声と、童貞(彼はもう、童貞ではないのですが)の荒い息遣いが、わたしの耳から入ってなかで響いて、意識がぐらりとふらついて、気がつくと、わたしは、あけみさんの意識と溶け合っていました、わたしのなかに、あつくてかたいものが、つよく奥まで差し込まれているのがわかり、それが、はげしく動いているのです。いままで経験したことのない快感の波が、何度も何度も押し寄せて、敏感な内側を刺激されて、ついに、わたしとあけみさんは、同時にオルガスムをむかえました。

 パチパチパチパチと、どこからともなく響いた拍手の音は、またたくまに、部屋中を満たしました。

 この日、ひとりの素人童貞が、立派に卒業をしたのです。元童貞は泣いていました。あけみさんも、涙目で、母親のように微笑んでいました。かれも、満足そうな表情でカメラの映像を見ていました。すべてがきらきらと輝いている、その光景をわたしは部屋の隅にひとりで立って、眺めていました。


 その日の晩、ドアが開いて入ってきたのは、かれでした。カーテンにされた月の光が車内を満たし、外では夜の虫が懸命に鳴いていました。虫は、異性を呼ぶために、ちいさなからだをすり減らして、驚くほどおおきな音を出す、わたしも喉から真っ赤な血がでるほど声を張り上げれば、かれにことばは届くのだろうか、そんなことを考えていると、かれはカーテンをあけた、きれいな三日月、わたしはかれの名前を思い切り、叫びました。

 正直、はじめて会った時ほどかれに惹かれているわけではありませんでした。でもかれとは、深いところでつながりあっている気がしたから、必ずことばは届くと信じた。名前を呼ばれたかれが、こちらを素早く振り返ったそのとき瞳と瞳が交差した、そんな気がした。虫が鳴いていた。


 ビデオは、飛ぶように売れた。童貞卒業企画だけではマンネリ化するため、OLをナンパしたり、高身長の女性と低身長の男性の絡みを撮影したり(意外と需要あるのか六作も撮りました。)、カップルNTR、逆ナンパなど、色々な企画が考えられました。また、趣向を変えるだけでなく、場所を変え、現地で素人女性をナンパすることも多く、北はカムチャッカ、南は石垣島まで、走って、走って、走りつくしました。

 かれは移動中、車内のソファに腰を下ろして、マジックミラー越しの景色を眺めながら、煙草のハイライトを吸うのが好きでした。わたしも、かれとおんなじ景色を見ていました。夕陽の沈むまえの、赤々と輝く不知火の海、青い風が駆け抜けて、きらきらとひかる阿蘇の草千里。田舎からほとんど出たことのなかったわたしにとって、それは新鮮な喜びでした。その土地のにおい、そこでしか出会えない人たちが、わたしのなかをものすごい勢いで通り過ぎていきました。

 そして、氷が水に溶け込むように、わたしという存在も、マジッ〇ミラー号のなかに溶けていくのでした。混じりあい、ひとつになって、記憶や感覚を共有することで、わたしの知らなかった出来事を、知ることができました。

 だからこれは、知らないはずなのに、覚えている、鮮やかに甦るわたしの記憶です。

 その日のかれは、これが俺の夢、俺はこの日のために生きてきた、などと、撮影スタッフたちに熱く語っていました。わたしの知っているかれは、静かで、穏やかなひとだったから、わたしの死が、かれを変えてしまった気がして胸が痛みました。

 記念すべき第一号は、俺が連れてくると意気込んで、暖かな春の陽射しのなかへ飛び出していったかれの後ろ姿に、わたしは何度も何度も叫びました。行かないで。


 雨の日も、風の日も、雪の日も、わたしは休まず走り続けた。絶えずエンジンを動かし、排気ガスを撒き散らし、タイヤを勢いよく回し続けました。いつまでも、どこまでも、走ることができると信じていました。でも、走行距離が三十万キロを超えてくると、だんだんと、身体の不調が目立つようになってきました。そんなとき、かれはわたしのなかの敏感なところにやさしく触れ、部品を取り替え、高級なオイルを挿してくれました。それがただの気休めだと、分かってはいましたが、それでもわたしは嬉しかった。かれに大切にされている、その事実がわたしを満たしてくれた、わたしを支えてくれた、そんなかれの携帯に、二代目のマジッ○ミラー号が完成したとの連絡が入ったのは、わたしが明石海峡大橋の真ん中で立ち止まり、岸まで続く長い長い渋滞をつくってしまったときのことでした。

 

『さようなら、マジッ〇ミラー号、いままでマジでありがとう!!』

 A4用紙を数枚セロハンテープで張り付けて、一枚の横長の紙にしたものが壁に貼られ、テーブルのうえには、ピザや唐揚げ、ポテトや枝豆のおつまみと、ビールやワイン、安い日本酒が大量に並んでいる。

 みんな、馬鹿みたいにはしゃいでいた。

 参加しているのは、マジッ〇ミラー号に関わりのある人ばかり、懐かしい顔が、ドアを開けて入ってきます。

 あけみさんは女優業を引退したあと、地元(愛知)に戻って結婚し、いまは二歳になる娘とエンジニアの夫の三人で、仲良く暮らしているのだと、ちいさな八重歯をみせて笑いました。

 いちばん遅れてきたのは、服のうえからでも分かる、がっしりとした体つきの、小柄な青年でした。あのとき、ここで童貞を卒業した彼だと気がつくのに、すこし時間が必要でした。それくらい、見た目が変わっていたのです。いまは北海道で、実家の酪農を手伝っているそうです。

 みんな、それぞれ、生きていれば、変わるのだ、人生は。

 当たり前のことかもしれません。ですが、肉体を持たないわたしにとって、それは目が眩むほど、輝くひとつの真実です。

 お酒も進み、みんなは自然とめいめい抱き合い、口づけし、邪魔な服を脱ぎ出すと、誰かが車内の明かりを消して、冴えた月の光が、はだかの男と女たちを青白く照らし出しました。かれは、あけみさんの透けるような肌に触れ、やわらかな乳房のなかへと顔をうずめました。

 わたしの意識は、あけみさんの意識と混じりあい、かれの肉体を貪り続けました。快楽を感じることは、なにも悪いことではない、自らの欲望に忠実であることに、なにを恥じることがあろうか、マジッ○ミラー号の『幽霊』であるところのわたしと、肉体を持つ『生者』とが交じりあう、冷たい鉄の塊のなかで、はげしくあおく明滅する、ひとのかたちをしたものたち。


 白々しく夜はあけ、みんなはのそのそと起き出し、散らかった車内を掃除して、かれ以外は車から降りました。あけみさんはなんだか名残惜しそうに、わたしのからだに触れたりしました。

 運転席に乗ったかれは、みんなに手を振り、みんなも手を振り返し、わたしもみんなにさよならを告げました、さようなら。

 エンジンがぶるぶるんと唸り声をあげ、黒い排気ガスを噴き出して、わたしは勢いよく走り出しました。サイドミラーに写るみんなの姿がちいさくなり、交差点を左に曲がると、もう完全に見えなくなりました。

 わたしは、このまま廃車になるものだと、思っていました。わたしのからだは大きな黒いプレス機でぎゅうぎゅうに挟まれて、圧縮された四角いスクラップになるのだと。でもかれは、ガソスタでわたしをハイオク満タンにすると、東に向かって走り続けました。星が瞬き、見えない獣の咆哮ほうこうが響く狭い山道(左側は崖)をものすごい速さで進みながらかれは、

「だれがスクラップになんか、させるかよ」と呟きました。


 朝露で濡れた草の上を、わたしはずんずんひた走る。山影から滲み出るオレンジ色の陽に照らされて、わたしのからだは、きらきらひかる。

 がたがたと、タイヤがはげしく上下する、どこまでも続く青々とした緑の草原を進んでいると、濃い霧が漂いはじめて視界を白く覆い、霧のむこうに見えた大きな黒い影は、まるでわたしと同じマジッ〇ミラー号のようにみえ、その影は、いくつもいくつもありました。

 わたしは急に止まった。かれがブレーキを踏んだのだ。運転席から降りてかれは後方のドアをあけ、ソファにドカッと腰を落とし、ポッケから取り出したハイライトに火をつける、ゆらゆらと、煙が宙を舞い、わたしのなかを満たしていく、マジックミラーから見える景色は、霧が濛々もうもうと立ち込めて、まるで夢の中のよう。かれは、味を確かめるようにゆっくりと吸い、おわると立ち上がり、かつて『豊川えみ』がよく立っていた部屋の隅をちらりとみたときに、かれはもしかしたら『豊川えみ』が見えていたのかもしれないと、そのときになってわたしは、ようやく気がついたのです。

「必ずまた来る、必ずだ」と言い残し、鍵をかけずに出ていった、かれの後ろ姿が霧の向こうにかすんで見えなくなるまでわたしは、かれを見つめていました。


 それから幾年絶ったのか、いまでは定かでありません、ちょうど十年目で、数えることをやめてしまったから。でもわたしは、かれを待っていました。いまにもドアが勢いよく開いて、笑顔のかれが現れるのを、待っていました。

 時間の経過と共に、わたしの意識は遠くの彼方へ飛ぶようになっていきました。気がつくと、ここはどこで、わたしはなにをしているのか、それさえも分からなくなってパニックになるのです。それは恐ろしいことでした。

 だからもうそろそろ、もう少しで、わたしという存在が終わる、予感は必ずあたる気がしていました。


 過去と未来の光彩が、寄せては返す光の波のように、わたしは、とろとろした光の海に抱かれながら、あの心地好い微睡みのなかを漂っていました。

 それでも感覚は外に開かれていて、空高く飛ぶ鳥の声や、草同士の擦れ合う音を、どこか懐かしく感じていました。すると、遠くの方から靴で草を踏む音が、聞こえてきたのです。わたしはついにそのときが来たことを悟りました。

 草を踏む、その音が、だんだんと、近づいてきて……。

 それからゆっくりと、ドアがひらき、

「すっげぇ!」

 なんだこれ、と興奮した様子で、真新しい学生服を着た、見た目中学生くらいの少年が、わたしのなかをぐるっと見渡し、魅入られたように、マジックミラー越しの、風にそよぐ草原の景色をじっと見つめている、その横顔。まだあどけないその顔を、わたしは確かに知っていました。この少年が、これからどうして、どんな大人になるのかも、知っています。そのことに気がついたとき、わたしの『役目』は終わったのだと悟りました。

 少年はソファにゆったりと腰を降ろし、傍らに置かれていたハイライトの箱に、ゆっくりと、手を伸ばし、それ、から……。





「それから?」

 あなたは尋ねたが、もう二度と、声が聞こえてくることはなかった。

 

                          


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

マジッ〇ミラー号の幽霊 のべたん。 @nobetandx

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る