第10節
「じゃあまたね、気を付けて帰るのよ。本当に今日はありがとう、どろんぱちゃん」
「うん、明日も楽しんでねー」
私はそう言って手を振り返した。バンシーは一度にっこりと目を細めて笑みを見せてから、酒飲み達の喧騒で溢れた里唯一の酒場に入って行った。
しばらく手を挙げたまま、開けっ広げの店先に立ってバンシーの背中を見守っていると、酒飲み達の声がピタッと止み、やがてヒソヒソと話し始めるのが次第に聞こえてきた。バンシーの美しさにある者は目を奪われ、またある者は欲情しているのだろうことが容易に察せられた。
彼女の笑顔には顔立ちの良さばかりではない、説明しがたい特異な魅力があった。同性の私でも魅入ってしまうのだから、きっと異性はもっと魅了されることだろう。
酒屋のおやじと二言三言言葉を交わし、宿になっている2階へと続く階段に足を掛けた際に、バンシーはこちらを一瞥し私がまだそこに立っていることを確認すると、ざっと手を軽く振って別れの挨拶に代えて、そのまま客室へと消えて行った。
夕刻の冷たい風が頬を撫で、肩より先の髪をサラサラと乱した。もう5月だというのに寒気を覚えて私は身震いをした。
本格的に暗くなる前に帰ろうと思い踵を返した時、背後から女性が物音を立てながら話しかけてきた。
「あれ、どどんこんとこの……どろんぱじゃない!」
「ん? ……あ、ねりまきじゃん、お久だねー」
振り返って見ると、酒屋の娘———ねりまきが瓶やら何やらを詰めた大きな箱を持って立っていた。
「久しぶりね。ちょっと待ってて、すぐ呼んでくるから!」
「重そうだねー、手伝おっか?」
「大丈夫、ありがとう!」
ねりまきはそう言い残し、重そうな箱を抱えたまま店内に入って行った。
呼んでくると言っていたが、いったい誰を呼んでくるつもりなのだろう。……姉か父でもいるのだろうか。
そんなことを考えながら、酒屋の入口の壁に背を預けて言われた通り待っていると、少しして店内からドタドタと慌ただしい足音が聞こえてきた。
「早くしなよ! どろんぱ待ってるから!」
「……ん、わかったから叫ばねーでくれ」
聞こえてきた声は予想外の人物のものだった。
なんであいつここにいるんだろう?
「どろんぱお待たせ! ……って、こら! カウンターで寝ようとするんじゃないわよ!」
誰がいるのか分かった私はどろんぱに付いて店内へと入り、カウンターで寝ようとしている幼馴染に声を掛けた。
「……なーんであんた、ここにいんの?」
私が声を掛けると、てってれえは突っ伏したまま首だけをこちらに向けた。それは学校でよく見る光景だったが、酒場のカウンターだと新鮮味を覚えて私は思わず微笑んでしまった。
「……あいつらに置いてかれて学校で寝てたら、昼過ぎに先生が起こしに来て『帰れ』って。眠過ぎたから仮眠に取ってた。で、なに、お前迎えに来たの?」
気怠げに答えるてってれえの隣に座って頬杖を突く。
店内は平日の夕方にしてはそれなりに繁盛しており、8つ設けられているテーブル席は内5つが埋まっていた。
「残念だったね、私は別件。けど、ついでだから一緒に帰ろっか」
「……まだねみい。てか昼食ってないし腹も減った。お前なんか食う?」
「え、おごり? いいけど、たぶん家にご飯あるしなー」
てってれえはムクッと体を起こし、私と同じように頬杖を突いて答える。
「最近、ねーちゃんが料理始めてさ。毎日毒見係させられるんだよ。ねりまきさん、おにぎりと川魚の塩焼きで」
「はいよ。でもいいの? 家にご飯あるんじゃない?」
「帰っても食うからいいよ」
「んーじゃ、私はオレンジジュースとウサギ肉の唐揚げ!」
「食うのかよ……。あ、お茶追加で」
テーブルを挟んだ向こうに立つねりまきが再び元気良く返事をして調理に取り掛かる。
「で、ねーちゃんの料理ど? おいし?」
「お前話聞いてた? 毒見だっつてんだろ」
「たはっ、ウケる」
「たはっ、じゃねーよ。……そういうどどんこはどうなんだよ」
「姉さんが上手かったら私は下手だったろうねー」
「癪だけどお前上手いもんな、癪だけど」
「あれー? なんで2回言ったー?」
相当疲れているらしいてってれえはあくびをし、眠そうな目でカウンターの向こうを見やる。つられて私も見てみると、ねりまきが投げるようにクルクルと回しながらおにぎりを握っている姿が目に入った。
「……やっぱ料理が出来る人の方がいいよなあ」
「うっわ、前時代的な考え方、ひくわー。てかなに、もしかして口説いてる?」
「ねりまきさんきれーだなあ」
「人妻じゃねーか」
おにぎりを握り終えたねりまきは、私達の会話にクスクスと笑いながら飲み物を手に現れ、それらをテーブルに置いて戻っていった。私は眼の前に置かれたオレンジジュースをチビチビと飲みながら唐揚げを待つ。てってれえも同じ考えのようで、置かれたおにぎりとお茶には手を付けず、依然として頬杖を突きながらぽーっとカウンターを眺めていた。
「でもさ、こめっこが料理出来ると思う?」
「……別にそういうんじゃないけど、あいつは出来なさそうだな。口に入ったらなんでも良さそう」
「だねー。んでもって、『黙って食え、食わないならくれ』とか言いそー」
私の言葉を聞いたてってれえが鼻を鳴らして笑った。
すると、カウンターの向こうからねりまきが目を輝かせてずいっと顔を覗かせた。
「えっ、なになに!? こめっことてっくんってそういう仲なの!?」
「違うって、こいつが言ってるだけだから」
興味津々に問い詰めるねりまきをてってれえは面倒くさそうにあしらい、「早く魚焼け」と調理に戻るように促す。ねりまきはブツブツと不満げに口を尖らせつつも素直に引き下がった。
姉の同級生なのもあって、私達は小さい頃、ねりまきに遊んでもらったりしたことがあった。てってれえのことを「てっくん」と呼ぶのも、私の姉がそう呼んでいるのを真似してのことだ。私の方は最近ご無沙汰だったのだが、この感じから察するに、意外にもてってれえは今でも度々親交があるのだろう。
「ほんと、この里の人ってゴシップ好きだよなあ」
「ま、小さい里だしねー。……ゴシップと言えば、今日観光で綺麗な女の人来てたよー。いや、めっちゃ綺麗な人、それはもうすんごい綺麗な人」
「綺麗綺麗うっせーな。誰だよその人」
「王都から来たらしいよ。ここに泊まってんだけど、今日こめっことガイドしてあげたんだー」
周りの人が聞き耳を立てているのが感じ取れたため、あえて名前と家柄などは伏せる。てってれえは「ふーん」とだけ答え、興味なさげにお茶を一口含んだ。
「あれ、興味ない? めちゃんこ綺麗な人だよー?」
「ねっ、私もあんなに綺麗な人初めて見たわ!」
「……興味ない。てか二人、綺麗以外の語彙ないの?」
「美しい? 麗しい? 美麗? ま、なんでもいいけど、とにかくすごかったよー」
「ほんとに凄いわよね。私でも惚れ惚れしちゃうもの!」
「へー」
綺麗な女の人に興味がないと言う稀有な男の肩を、私はニヤニヤと笑いながら肘の先で突っつく。
そうして戯れていると、ようやく調理を終えたねりまきが私達の横合いから魚の塩焼きとウサギ肉の唐揚げの乗った皿を置き、他のテーブルの客に呼ばれてそちらの方に駆けて行った。
私は皿の端に添えてあるレモンを絞って唐揚げに掛け、一口頬張る。カリカリとした衣の隙間から、レモン汁に混ざって爽やかな舌触りの肉汁が溢れ出して私の口の中を満たした。隣では、てってれえがおにぎりと一緒に箸で器用に剥いだ魚の身を食べている。
「あー、そゆこと。こめっこ以外の女には興味ないってことねー」
「……しつけーうっぜー」
「わっ、ひどい! 私だって傷つくんだよー!」
そう言ってわざとらしく泣いたフリをしてみたが、私の小芝居にはすっかり慣れ切っているてってれえは、黙ってもぐもぐとおにぎりや魚を頬張った。
しばらくの間、私達は黙々と各々の料理を食べていた。
すると唐突にてってれえが、
「そう言えば、……今日聞いた話なんだけど。一昨日、かーさんが大量の赤飯をこめっこの家に持ってったって。……お前、かかわってないよな?」
と、私の方を見ながら訊いてきた。
私は瞬間的に、日曜日のお昼、てってれえがいない間に私の家で炊かれた大量の赤飯を思い出した。
その時はなぜ赤飯をそんなに炊くのか教えられておらず、ただ、てってれえの母親に手伝って欲しいと言われて手伝っただけなのだが、どうやらこめっこの家に持って行くためだったらしい。かかわっていないかと訊かれるとかかわっているのだが、本当に知らなかったのだから全く嘘という訳ではないと自分に言い聞かせ、努めて無表情を貫き、短く「知らない」とだけ答えた。
てってれえは訝しげな目でじーっと私の顔を覗き込み、やがてはぁと短く溜め息を吐いて、骨が剥き出しになった魚から残っている身を取り除く。
「……まあ、知らなかったんならいい。作るだけなら罪でもないしな」
「えっ! なんでわかったの!?」
意外な言葉に私は驚いて目を見開いた。
「顔見りゃ分かる、お前が本気で嘘つく時はもっと上手い。……その反応は、心当たりがあるけど今初めて知ったって時のそれだ。大方、かーさんに頼まれてお前んちで作ったんだろ?」
「わっ、すごい! 大正っ解っ! さすが、私のてっくんだねー!」
「てっくんって言うな気持ち悪い」
嬉しさのあまり隣から思い切り抱きつくと、てってれえは嫌そうな様子で私の顔を押して遠ざけようともがいた。
私のことをよっぽど好きでもない限り、表情だけで事情を察するなんて出来るだろうか。
どうやら、この幼馴染は極度のツンデレらしい。
私達がカウンター席でじゃれ合っていると、注文を取り終えていつの間にか戻っていたねりまきが微笑みながら「二人はほんと仲が良いね」と言ってきた。
「仲良くない。ごちそうさま、お代いくら?」
そう言って、てってれえはカバンから財布を取り出し、カウンターに料金を置いて席を立った。
そのまま真っ直ぐ店の出入り口まで向かい、扉の所でさっと振り返って、
「ほら、さっさと帰るぞ」
と私に向かって言った。
私は、まだ少し速く打つ胸を服の上から一撫でして後を追いかける。
店を出る際に、口を揃えてねりまきに「ごちそうさま」と言い、すっかり暗くなってしまった街道に出る。
夜道の涼やかな風に吹かれながら、二人は並んで家路を歩く。
でも、ここにいるのはこめっこじゃない———
———今、この人の隣にいるのは紅魔族随一の神童じゃないんだ。
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