第1節
この日、わたしは聞き慣れない声で目が覚めた。
「こめっこちゃん、早く起きないと遅刻するわよ!」
手触りの良い羽毛布団を顔から少し引き下ろし、重い瞼を薄く開いて、ベッドの傍らの声がした方に立つ女の顔を確認すると、そこにいたのはいつもの母ではなく、姉ちゃんの友人だった。
「…………なんでゆんゆんがいるの」
状況が飲み込めず薄開きの眼を数度パチパチ、パチパチと瞬いてから、ようやく絞り出したしゃがれ声でぼそぼそと囁くようにして尋ねると、ゆんゆんは今にも呆れたと言い出しそうなしかめっ顔で、腰に手を当てて溜息を吐いた。実際呆れてるとかなにかしらの不平を呟いたのかもしれない。
「昨日、寝坊して危うくテストを受けられなくなるところだったって聞いて…………。それはいいから、とにかく起きないとダメよ!」
そんな的を射ていない返答をしたゆんゆんは、わたしが包まっている柔らかい布団を勢いよく剝がし、無理やり両手を引っ張って上体を引き起こす。
なるほど、昨日わたしが注意されたことがどこからかゆんゆんの耳に入り、心配しただれかあるいはゆんゆん本人が受動的にか自発的にかは判別出来ないけれど、とにかく起こしに来てくれたということなのだろう。
だとしたらそれは、いつ? どこで? だれが?
ゆんゆんが答えたがらないことについて、寝起きすぐに考えても仕方がないことではあると思ったし、なんにせよ予想外の顔を見たことでいつもより寝覚めが良かったため———むしろ悪すぎて良かったのか分からないけれど———、わたしは促されるままベッドから降り、眠い目を一度ゴシゴシとこすって服を着替え始める。
最低限の物しか置いてない8畳間には、人の気も知らない自分勝手な陽の光が差し込み、これでもかとばかりに部屋中を照らし出していた。
わたしが寝間着を脱ぎ始めたのを見たゆんゆんは、よく分からないけれど、とにかく何かぼそぼそと不満を漏らしながら、慌てた様子で部屋を後にする。
思いがけない目覚まし係の退場と時を同じくして下着姿になったわたしは、広い部屋に遠慮がちに設けられている勉強机に視線を移し、一昨昨日からずっと積み上げられた状態のいくつもの教科書の山に、半ば隠れている置き時計を見て時間を確認する。
7時半。
時間こそ確認してないけれど、今朝は空が白み始めてからようやく眠ったので、ほとんど睡眠というか仮眠に近い程度だった。
正直めちゃくちゃ眠たい。
いつもなら起きてみたフリをしてまだ人肌に温かい寝室の悪魔の誘惑に身を任せ、そのまましばらく寝返りを繰り返してから気持ちの良い二度寝を決行するところなのだけど、今日はそういう訳にはいかない。
さっきゆんゆんが指摘したように、いつかだれかからどこかで聞いてきたように、昨日、いつも通り出欠のギリギリに教室に入ったわたしに対し、普段なら気分次第で遅刻を揉み消してくれる担任がさすがにテスト期間はそうはいかないと言い出したのだ。
テストの開始に間に合っているのなら良いと思うんだけどなんて考えつつも、いざ本当に遅刻のペナルティなんて言い出されても困るので、大きく口を開けてあくびをしながら気乗りしない手つきで薄紅色のローブをクローゼットから引き出し、だらだらと足元から持ち上げて袖に腕を通す。
レッドプリズン4年目の最初の試験は10科目。最終3日目の今日は、最も重たい日とクラスでも評判の『魔法学』、『歴史』、『古語』が試験科目。
午前中にテストが終わればそのまま帰れるから、荷物という荷物は必要でもない。
さっさとベルトを腰に巻いてネクタイを結び、先日裾を直してもらったばかりの上着の黒いローブを右手に抱え部屋を出る。
今朝も早くから仕事に行ったのだろう、一階のリビングには両親の姿は既になく、代わりにわたしを起こしに来ていた意想外のゆんゆんはいつも通りつましい朝食が置いてある食卓に着いて湯呑でお茶をすすっていた。
「あ、ちゃんと起きてきたわね……!」
「ん、なんでゆんゆんがいるの」
まだ眠い目を擦りながら訊いたわたしの質問にはやっぱり頑として答えないゆんゆんは、返事の代わりにとずずずっと音を立ててお茶を濁した。
「……ゆんゆんはさみしんぼ」
「ち、違うから! 別に寂しくて来たわけじゃないからっ!」
じゃあなんで? と声には出さずに視線で促し、わたしは椅子にローブを掛けて朝食を摂るために席に着く。
とりあえず自発的に来たわけではないないらしいが、じゃあいつ? どこで? だれが? なんで?
全部問い詰める腹積もりで、口はつぐんだままじーっと向かい合う顔を見つめていると、やがて見られ続けるのに嫌気がさしたのか目を泳がせながらあたふたとしてゆんゆんは答えた。
「い、いや、その、頼まれたのよ……ほ、ほら、ゆいゆいさんに…………」
「ふーん……。ゆんゆんは暇人」
「えっ、ひ、暇人!?」
お母さんがそんなことゆんゆんに頼むわけない。絶対にゆんゆんが答えたがらない他のだれか、どこか、なんでか、だ。
でも歯切れの悪い回答しかしないならもう聞いても仕方がない。
ゆんゆんにはぶっきらぼうに空返事で答え、なんかどんよりとしてショックを受けているらしい暇人を無視し朝食に掛かる。
味噌汁とご飯と、ザリガニの煮物だけのつましい朝食をものの数分で食べ終わり、食器を片付けるべく流し台に持って行き、慣れた手つきで洗って水切りラックに立てる。
その頃には行き遅れている姉ちゃんの友人は立ち直ったようで、洗い物をしているわたしのところに湯呑みを持ってきて、そのままリビングを出る素振りを見せる。
「……じゃあ、もう大丈夫だと思うから私は帰るわね。お昼のサンドイッチ、そこのお弁当袋に入れてあるから……」
「サンドイッチ!?」
それをもっと早く言えと思いながら、食卓に置いてあるゆんゆんが指差したお弁当袋を急いで手に取って中身を確認すると、そこには透明の包み紙で包まれた玉子と、野菜と、あとベーコンが挟まったサンドイッチが3つも入っていた。
「ゆんゆん、ありがとう!!」
「ろっ、露骨に元気になったわね…………」
ゆんゆんはちょっと引き気味にそう言いつつも、「どういたしまして」と返事をしてからそそくさと玄関へ向かい、「テスト頑張ってね!」と言い添えてそのまま帰って行った。
その後ろ姿を見送り、洗面所で洗顔と歯磨きを済ませ、最近まであまり気にしていなかったのだけどこのヘアピンもそろそろ替え時かななんて思いつつ、化粧台に置いてある使い古した星型のヘアピンで前髪を留める。
服の上から鎖骨を撫で下ろすように伸びた髪をわざとらしく背中に流して「髪も伸びてきた」なんて独り言を呟く。髪を括らなくなってから、どれぐらい経ったんだろう。
最後にもう一度、鏡で念入りに着こなしと髪型をチェックして自画自賛をするようにひとつ頷き、さっきリビングの椅子に掛けていた綺麗にしてもらったばかりのお下がりのローブをまとい、ゆんゆんの手作りサンドイッチの袋を手に駆けるように玄関へと向かう。
「いってきまーす!」
ローファーを履き終えたわたしはさっと玄関から屋内を振り返って、誰に言うともなしに大きな声で出発を告げ、暖かな朝日の差す外に向かって飛び出した。
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