1:2 紅魔族随一の神童

雑話

 ———休日二日目の午後、里から少し離れた森の中に俺はいた。


 落雷のような耳触りの音を響かせながら、背後より迫り来る脅威に最大限の注意を払い、樹冠から不規則に伸びた長い細枝に横っ面を、肩を、脇腹を、あるいは両脚を執拗に引っ掻かれているが、そんな些末事ことなど歯牙にも掛けず、息も絶え絶えで今にも倒れ込みそうになる足に鞭打って、木々の合間を縫うようにして駆け抜ける。

 里までの距離はまだ数キロある。体力的にこんな状態ではとてもたどり着ける気がしないし、よしんば体力が持ったところで、この速さでは恐らく早いうちに追いつかれることになるだろう。


 しかし走る以外の選択肢が思い浮かばない。

 万が一アレに正攻法で対抗しようものなら、それこそ虫を叩き潰すかのように易易と狩られることになるのは火を見るよりも明らかだった。

 だから走るしかない。アレを無事に倒せないなら、せめて里の近くに着くまでは選択肢が他にない、それだけだ。


 そもそもどうしてこんな事になったのかと言うと、ひとえに自身の曖昧な憶測とそれに対する自惚れのためだった。

 1年程前から、知力が伸び悩み始めた俺は、休日になるとレベル上げをするために森へモンスターを狩りに行くようになった。

 里周辺に生息しているモンスターは比較的強い物が多いため、ステータスも低くスキルもなかった初めの頃は、靴屋の倅のような里のニートに声を掛けある程度まで手伝ってもらい、美味しいところと経験値だけ貰っていくといった遣り口を使っていた。これはレッドプリズンでは《養殖》と呼ばれている方法で、主として4年で魔法を習得出来ず卒業も出来ない落ちこぼれである捕囚性———たぶん、補習ともじっているのだろう———に行われることである。


 先週まではそうして誰かしらを伴っていたのだが、流石にレベルも15になったことだし、ステータスも上がり戦闘経験もそこそこ積んだのでそろそろ独りでも大丈夫だろうと考えて昨日今日は単身森に入ったのだ。

もちろん群れと遭遇するという最悪の可能性を想定し、魔力は消費するものの簡易的な潜伏スキルを使用できる魔法のローブを父親の店からくすねて来ており、また標的とするのは単独で行動しているモンスターに限定するようにしていた。


 そうして戦ってみて、相手が一撃ウサギだけであれば実際その見積もりは正しかった。一撃ウサギは確かに動きが速いモンスターではあるものの、そもそも体躯が小さいため、速さに対応さえできれば攻撃そのものは点でしかない。点の攻撃ならば、線で受け流せる人体にとってさほど問題にはならないため、動きが予測出来るだけの戦闘経験と武器を扱う器用ささえあれば時間は掛かっても討伐が可能なのである。昨日も今日も一匹ずつ討伐していることから、その考えは間違っていないはず。


 問題はそれで気を良くしてしまい、一撃熊に対しても軽はずみな推測をしてしまったことだ。


 一撃ウサギを倒した後、少し離れたところに一撃熊がいることを確認した俺はこう考えたのである。

 一撃熊はウサギほど動きが速い訳ではない。それであれば、死角から確実な初撃を加えて優位に立ち、攻撃を避け続けてジワジワと削っていけば、あとは同じ要領で倒せるのではないか。きっとそうに違いない。

 推測はほとんど確信になっていた。


 それに加え欲もあった。一撃ウサギも数匹狩ればレベルは上がるが、一撃熊の方が経験値は多く、さらに、ポーションの材料としても高額で取り引きされることを知っていた。

 こうなるともう一撃熊を狩らない道理はない。そうして、潜伏ローブを羽織った俺は目算通り初撃をスニークで決め、その後は攻撃をいなし続けてジワジワと敵を削っていった。


 しかしここで二三の誤算が発生する。


 一つはダメージがほとんど通らないこと。ウサギと違い熊は体格が大きいため、数度切りつけたところで大したダメージにはならない。それ自体はあらかじめ予想していたことなのだが、問題は予想を遥かに超えてダメージが蓄積されている気配がないことだ。後々になって分かったのだが熊の皮は部位によっては兎よりも相当固いらしく、切りつけたと言ってもほんのかすり傷程度のものがほとんどだった。これは今まで止めばかりを刺していたため、じっくりと攻撃した経験がなかったこと、助っ人が刃物ではなく魔法しか使っていなかったことで生じた誤算。


 二つ目は、面や線の攻撃は思っていたより避けるのが難しいということ。これは何度か避けている内にすぐに勘付き命拾いしたのだが、一撃でも食らえば瀕死という状況では、それらの攻撃は見えている以上に大袈裟に避けなければならず、そこからすかさず攻撃に転ずる事が出来るほど体勢を維持していられなかった。そうして必然的に、こちらが攻撃を加える数よりも遥かに避けなければならない回数の方が多くなる。

 それと関連してもう一つ、これは自分自身に対する誤算だが、人間の体力はそう何度も何度も過剰に動き回れるほど長くは持たないこと。少なくとも今の俺のステータスでは精々数分が限界だった。



 そんなこんなで闇討ちから始まった戦闘は、一撃熊の猛攻を避ける内にものの数分で一方的な暴力に変わり、その時点で勝ち目はないと見切りをつけ逃げ出したものの、これまた予想外に執念深い追跡を食らい今に至る。

 さっきからローブの潜伏を使ってはいるが、実際のスキルではないためかどうやら頭に血が上った状態のモンスターに対してはなんの効果もないらしい。

 一撃熊は目を血走らせて、行く手を阻む木々を小枝のように次々とへし折り、時折、おぞましい咆哮を上げながら俺の後を追って来る。


「バオオオオオオオオオオオオッッ!!」


 森中に一撃熊の雄叫びが響き渡る。

 その大きさから察するに、俺との距離はもう7メートルもない。少しずつではあるが確実に、その距離は縮んでいるのが分かる。


「ッゼエ……やっば……! ッッゼエ……! やばいやばいッッ!!」


 喘息気味に息を切らしながら、視線の先に広がる絶望を嘆く。

 こんな状況で周辺の地形を正しく把握出来ている訳がない。方向は間違わないようにしていたつもりだが、先程から木々を障害物にするために極力獣道を避け、何度も大きく斜行していた。

 それにより、いつの間にか里の方向からずれてしまったのだろうか。ほんの数十メートル先は、里へと続く道には思えない見知らぬ森の切れ間となっていた。


 そこは遠目に見た感じ、それなりの広さがあるように思われる。

 今更迂回したところでもう遅い。回り込まれる可能性があるし、そもそもこれ以上訳の分からない道を行くのも良策とは思えない。おまけに体力はとっくにない。追いつかれるのはもうじきだろう。


「……ックソ! ………………クソがッ!!」

 だとしたら、もう走るという選択には意味がない。

 数分前の自分の安直な行動を心から悔やむが、この期に及んで四の五の言っている暇もない。

覚悟を決めるしかない、やるしか生き残る道はない。ないないばっかり。


 森の切れ間に向かってひた走る。

 近づいてから気が付いたのだが、そこには4、5メートル程の幅しかない、水深の浅い小川が流れていた。

 里の近くにある小川といえば思い当たるのは1つだけであるため、ようやく自分の居る場所に見当が付く。

 このまま川上に向かって北上して行けば、いずれ里の入り口近くの道に突き当たるが、追跡者はきっとそれを許さないだろう。

 俺はそのまま川を突っ切るかのように、速度を緩めずにまっすぐ走り……。


「ッッ!?」


 足場の悪い川辺の砂利を右足が踏んだ瞬間、勢いよく横の茂みに転がり込む。

 獲物の突然の横っ飛びに反応できなかった一撃熊は、勢い余って鼻面から小川に突っ込んだ。


「グアアアアアッ!?」

「バーカ!!」


 予期せぬ出来事に一撃熊は怯みを見せる。

 ……狙うは相手の両目。

 その少しの隙を逃さず、俺は腰のダガーを抜いて全力の切り込みを……。


「「!?」」


———踏み込むために力を込めたためか走り疲れていたためか、川辺の砂利に足を取られて盛大にコケた…………!


「ブオオオッ!!」

「っるせ―! 笑うなコンチクショー!!」

 そんな俺の無様な姿を見た一撃熊が、いや、そんなはずはないのだが、嘲笑うかのように短く吠えて見せた。


「……ハアッ…………クソ! クソッ!!」

 未だに息を切らせながら、震える脚で立ち上がった頃には、相対する一撃熊も、とっくに体勢を整えてこちらに向き直っていた。

 あれだけ必死に逃げ回りようやく手にした一瞬の光明を、たった一歩の踏み込みだけで無駄にしてしまった。状況は逃げ出す前に戻ったどころか、体力を消耗した分むしろ不利になったのは明白だ。


「グルルッ!」

 喉を鳴らして威嚇する一撃熊と、間合いを取ったまま向かい合う。


 この状況を打破できる可能性は、実のところあるにはあるのだが……。

 それはあくまで一時のその場しのぎでしかなく、コレを倒したところで里に無事に帰り着くという本来の目的は果たせない確率が非常に高い。


「…………でも、そうも言ってられねーよな」


 ここで死んでしまっては、それこそ可能性もクソもない。やらないで死ぬよりは、やってみて死んだ方がいい。

 視線を交えたまま、深呼吸を数度繰り返して焼け付いているかのような喉元を空気で潤し、その度に心の中で「覚悟を決めろ、覚悟を決めろ」と独り言ちる。そんな俺の空気を感じ取ってか、おりしも一撃熊は後ろ脚で立ち上がり、両手を広げて威嚇のポーズを取った。


 ふうと小さく息を吐き、俺はダガーにありったけの魔力を…………!



「『ライト・オブ・セイバー』ッッ!!」



 どこからか聞こえてきた魔法の詠唱と同時に、一撃熊の体躯を縦に両断する一筋の閃光が走る。

 一瞬のことに俺が目をパチクリとさせ驚いていると、川の対岸———一撃熊の真っ二つに割かれた死体の背後にある茂みから、紅い瞳をした女性が姿を現した。



「……あなたは! 『』……ゆんゆん…………!!」

「ちょ、ちょっと、その二つ名はやめてよ!」



 気恥ずかしさからか少し頬を赤く染めたゆんゆんが、両の手を振って否定した。

 

 ———ゆんゆんと呼ばれたこの女性は、俺の姉ふにふらの元同級生であり、近々世代交代で紅魔の里の族長を継ぐことになっていた。彼女は長らく冒険者として外の世界を旅した経験があり、また4年前の魔王討伐にも参加していたほど魔法使いとしての腕が立つ。この里において比較的常識人側の珍しい人物であり、そのことで俺とは少し気が合うだが、なにかと変わり者が多いこの村では学生の頃から孤立気味であったと姉に聞いたことがある。


「じゃあ族長の方がいいですか?」

「そっ、それは悪くないけど……今はまだ、お父さんが族長だから! いつも通り、ゆんゆんでいいわよ!」


 年下にからかわれるのに慣れていないのか、ゆんゆんは少し困った顔をしてそう言いつつ、足元が濡れないようにするため、一撃熊の死体を避けて川の水をちょっとした橋の形に魔法で凍らせ、その上を通ってこちら側に渡ってくる。


「…………はあ……兎にも角にも本当に助かりました、ありがとうございます。一時はどうなることかと……」

 見知った大人と出会ったことで一気に緊張の糸が切れた俺は、ため息をついて川原に膝から崩れ落ちた。


「私も焦ったわよ……っ! 今週は誘いに来ないから、お休みなのかなって思ってたんだけど……。もしかしたら私以外の人と……って里に出てみたら、ぶっころりーさんも見てないって言うし。それじゃあ体調を崩したのかなって心配になって、一応家に行ってみたら居ないって言うから、まさか……って。……大丈夫? ケガはない?」


 すごくめんどくさい言い回しをしているが、心の底から俺の身を案じてくれていたのだろう。俺が小さく「大丈夫」と頷いて返すと、ゆんゆんはまるで自分のことのように胸を撫で下ろして見せた。


「ご迷惑おかけしました。……いやあ、ちょっと舐めてました。ここ最近、ゆんゆんと来てもウサギは自分で狩ってたじゃないですか。だからそろそろ独りでもいいかなって……。実際ウサギはどうにかなったんですけど、さすがに一撃熊は早かったみたいです」

「そ、そりゃあそうよ……! 一撃熊なんて、中級冒険者ですら独りだと逃げ出すレベルなんだから……っ! ふにふらさんと手分けして探してたから偶然見つかったけど、本当に危なかったのよ!?」

「いやあ、あれはほんとにやばいんですね。……ちょっと軽率でした、反省します」


 川の水を塞き止めないように、自分で作った氷の橋を魔法で壊したゆんゆんがこちらを振り返った。普段は柔和な雰囲気のゆんゆんが、珍しいことに少し怒っているような顔をしている。

俺はゆんゆんを見上げる形で、ごめんなさいと謝罪の手振りをしてから話を続けた。


「……あれ? じゃあもしかして、昨日も探してくれてたんですか? ゆんゆんがうちに来たとか、誰からも聞かなかったんですけど……」

 そんな素朴な疑問を尋ねると、ゆんゆんは気まずそうに顔を俯かせ、視線を下に逸らして答える。


「あっ、いや……。きっ、昨日も行こうと思ったんだけどね……! ほ、ほら……てってれえくんの家に行くってことは、つまり、その……ふにふらさんの家に行くってことだから…………っ!」

「ああ、それで気が引けちゃったんですね。別にねーちゃんのことなんて、気にしなくていいですよ。……てか、もしかして決心するのに1日掛かったんですか?」


 そう問いかけると、ゆんゆんは顔を真っ赤にして、俯いたまま小さく小刻みにフンフンと頷く。

 苦笑いを浮かべながら立ち上がり、膝の汚れをパンパンと叩いて落とし、ローブの袖を捲って、ダガーを手に未だに川に横たわる一撃熊の死体に歩み寄る。


「まあなんにせよ、ありがとうございました。ちゃっちゃと売れそうな部位を剥ぎ取っちゃうんで、帰りの護衛、お願いできますか? 売りに行ったついでに、喫茶店で軽くお茶でもして帰りましょう」


「えっ! 喫茶店!? あっ、あの、一緒に行ってくれる……の…………?」


 ひとりで盛り上がっているゆんゆんに背を向けたまま、慣れた手つきで死体の断面から売れそうな部位を剥ぎ取りながら答える。


「もちろん。今日は危ないとこを助けて貰いましたし、ご馳走しますよ。……と言っても、内臓が腐ってしまうとダメなんで、そんなに長居は出来ないですけど」

「い、いやっ、長居出来なくても嬉しい……っ! てってれえくんって本当に、いっつも優しいよね……」


 空返事で「どうも」とだけ返して引き続き手を動かす。


一撃熊は肝が特にポーションの材料として重宝されており、高く売ることが出来る。そのためいつもは肝臓を避けるように傷を負わせるのだが、今日は俺を助けるために焦っていたので、魔法で切り裂かれてしまっていた。もっとも売ることが出来ない訳ではないため、丁寧に切り取った肝臓を取り出し、川の水でしっかりとゆすいだ後、ローブのポケットにしまっておいた革袋に収める。氷魔法が掛かった革袋の中は、既に一撃ウサギの内蔵が入っており、少し不快な匂いがした。眉間にシワを寄せつつ、他にも心臓や胃などを母への土産にするため切り取って、同じように革袋に詰めていく。たぶん今夜はこれらを利用してモツ焼きをしてくれるだろう。以前食べた一撃熊の心臓や胃のコリコリとした食感を思い出し、条件反射で口の中に唾液が溢れた。


「……さて、と。終わりましたよ。じゃ、急いで、じゃすたのとこの魔道具屋寄って、喫茶店行きましょう! 帰りの護衛、お願いしますよ」

「うっ、うん! そういえば私、普通の男の人とこうやって喫茶店とかに行くのって初めてかも……。ねっ、ねえ、その、これってもしかしてデートに———」


「違います」


「えええーーっ! 即答ーっ!?」



 ……あんたの世代、行き遅れ多くない?

 19歳の花盛りとしてはあまりに悲し過ぎることを暴露され、むしろこっちが泣いてやりたいぐらいなのだが……。一瞬で否定された事に傷付いたのか、ゆんゆんは目に涙を浮かべながら驚いた。


 ……なんでなんだろう。確かにこの人はちょっと湿っぽい感じはするけど、ねーちゃんと違ってすごく綺麗でスタイルも良いし、よく気も回る人なのに……。

 そんなことを考えつつ、すっかり大きく膨らんだ革袋を背負い、しゅんとしたゆんゆんと並んで川上の方へと歩く。


「……一世代も下の小僧になーに言ってんですか。ゆんゆんには何度も助けてもらってますし、尊敬してる女性ですよ。『今までの人生で尊敬する女性は?』って訊かれたら、1番はゆんゆんって答えますねきっと」

「なんか似たようなことを昔言われた気が……えっ、そそ、そんなに上なの!? い、いや、悪い気はしないし、むしろ嬉しいんだけど……!」


「俺の中ではそんなに上です。……ちなみに、2番目にばーちゃんとかーさん、3番目にそけっとさんですね」

「その御三方を差し置いて!? ていうか、ふにふらさんは入ってないけど……?」


「へ? なんでねーちゃんがこっちに入るんですか? ねーちゃんは『今までの人生で尊敬してない女性』ぶっちぎりの1位ですよ」

「てっ、てってれえくん!? 私に向けてくれる優しさを、少しはふにふらさんにも向けてあげて……!?」


 大声でそんなことを叫ぶ友人をからかいながら、日が高い午後の小川沿いを、仲良く雑談して歩いて行った。




 ねーちゃんの存在をすっかり忘れていたゆんゆんは、翌日、こっぴどく怒られたらしい。

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