第12節

 西日が沈み、夜の帳が下りきった頃、ようやく我が家に帰り着いた。


 帰宅するなり真っすぐに自室へと向かい、カバンをぞんざいに置き、ベルト、ネクタイをそれぞれ壁の掛け鉤に掛ける。そうしている内に、敷かれたままの布団が目に入り、そういえば朝忘れていたことを思いだし、今更ながら綺麗に畳んで布団ラックへと積み上げた。

 右手に持ったダガーを階下の下駄箱の上に置き、洗面所で手早く手洗いと洗顔をすましてリビングに入る。


「ただいまー」

「おかえり。……あら? てってれえひとり?」


 冷蔵庫からお茶の入った細口瓶を取り出し、コップに注いでいると、台所で夕食の支度をする母が出し抜けに不可解な問いをする。


「……なにが?」

「お姉ちゃんと会わなかった?」


 全く話が見えない俺に母が説明したことをまとめると、どうやら帰りが遅い俺を迎えに行ったはずの姉が、今度は帰ってこないということらしい。


 先に断っておくと、普段から俺の帰りはそれほど早いわけではない。

13歳にもなれば、日が暮れそうだからもう帰りましょうとはならない。友達と遊んでいるうちにとっくに日暮れになっていて、帰った時にはもう真っ暗ということは珍しい話ではなかった。


 しかし今日に限ってはいつもと違うことが一つあった。

 いつもなら、遅くまで遊ぶにしても相手が同じ集落の友達なので、一度自宅に帰って荷物を置き誰かしらに行き先を告げてから家を出るのだが、今日は学校帰りにそのまま出かけていたので家族の誰も俺の行き先を知らなかったのだ。

 そんな状況でさらに帰りが遅いということで、心配性の姉は事故か何かを想定し、母の制止を振り切って俺を探しに出かけて行ったらしい。


「それで、お姉ちゃんと会わなかったの?」


 事情を説明し終えた母が、改めて同じことを訊く。


「会ってないよ。ねーちゃんいつ頃出てったの?」

「うーん、2時間ぐらい前かしら」

 時計を確認した母が答える。

 2時間前なら、6時過ぎだから服屋を出た頃合いだ。


「大通りで会ってないんだし、森に行ったか、どろんぱんちでも行ったんじゃない? まあそのうち帰ってくるだろ」

「そうねえ……。まあ、いざとなれば魔法も使えるし、大丈夫だとは思うんだけれど……」

 母は心配そうに呟き、心ここにあらずといった様子で、夕飯のシチューをことこと煮込んでいた。


 ダイニングテーブルでは、祖母が自家栽培の採れたて野菜を使ったピクルスの下拵えをしていた。祖母が作るピクルスは酸っぱいだけではなく塩加減も絶妙で、市販のものよりは少し濃い味をしており、香の物にもかかわらず、ご飯のお供として我が家では主菜と同様の地位を占めていた。

 祖母が老後の趣味と呼び、長年野菜を作り続けているのも、もしかしたらそういった家族の期待を受けてなのかもしれない。


 せっせと祖母がざるに入ったキュウリを絞る様を、テーブルに頬杖突いて見守っていると、不意に玄関のドアを開く音が聞こえた。


「……ほら、帰ってきたよ」


 せっかく今日は楽しいことがあったのに、また姉の過剰な心配性からくる小言を聞かなければならないのかとうんざりした気持ちになる。

 しかしそんな予想に反し、リビングに入ってきた姉は奇妙に思えるほど落ち着いた雰囲気を醸し出していた。


「ただいまー。……あ、てってれえ、帰ってたんだ」

「……帰ってたんだ、じゃねーよ。かーさん心配してたんだぞ」

「あんたが言うか。お母さんごめんね。どどんこの家に行ったら、そのまま話し込んじゃって……」

「アンデッド祓いがアンデッドじゃねーか」


 いつもならもっと、『あんたどこ行ってたのよ!』とか、『どんだけ心配したと思って…!』とかガミガミ言うのに、何か悪い物でも食べたのか今日の姉はどこかおかしい……。


「ねーちゃんどうした? 今日は静かじゃん……いや、いいことなんだけど。もしかして、朝の黒炭食べて頭おかしくなった?」

「なってないわよ! てか卵焼きだから!」


 姉は奇妙なすまし顔のままのお茶を入れ、ダイニングテーブルの自分の席———俺の右隣の席———に座る。


「そう言うあんたは、なんか今日良いことあったらしいじゃん。どろんぱに聞いたよ。……こめっことデートしてたんだって?」


 突然の爆弾発言に、口に含んでいたお茶を吹き出す。

 その姿を台所から見ていた母が、「あらあら」とか言いながらタオルを手に駆け寄ってきた。


「デ、デートじゃないから!」

「……へえー。学校帰りに二人で喫茶店に寄って、仲睦まじくスイーツを食べるのがデートじゃないんだー」


 ……あいつ、絶対どこかで盗み見してやがったな!


「寄り道だよ! デートじゃなくて、単に寄り道しただけだって!」

「てってれえも、ついに恋人が出来る年頃になったんだねえ」

 否定する俺の隣で、祖母は穏やかな口調で孫の成長をしみじみと感じ入る。


 一方両親は思いがけないスクープに興奮を禁じ得ないありさまで、父はおろか温厚な母すらも食い入るような目でこちらを見つめ、矢継ぎ早に捲くし立てた。


「それで、喫茶店の後どこに行ったんだ? いや違うな。どこまで行ったんだ?」

「ごめんなさい。そうと知ってたら、炊いたんだけど……」

「母さん、今からでも遅くない。すぐに炊きなさい」

「小豆が無いのよ、明日必ず買ってくるわね。ひょいざぶろーさんのおうちにも持って行くから、たくさん買わなくちゃ……。それよりも、お父さん、は幾らほど包めば良いのかしら?」

「ふむ……近々王都の銀行に行って、用立ててこよう。それで、はいつ見られそうだ?」

「ちょっとお父さん、気が早いわよ。まだ当たったかどうかも分からないんだから……」

「いやいや母さん。この年頃の子は一度ヤってしまえば、あとは盛りのついた猿のようなものだから。早くから用意しておいた方がいいんだ」


 盛りのついた馬のように暴走する父母。


 すぐに孫という単語が出てくるあたり、俺が思っていた以上に姉が行き遅れていることを気にしていたのかもしれない。

 と、そこに姉までもが参戦する。


「ちょっと! あたしははまだ、こめっこと……つ、付き合うとか、認めてないんだけど!」

「ふにふら、お前は知らないだろうが、この年頃の子は周りの制止など振り払って突き合う生き物なんだ」

「そうよ、ふにふら。自分に恋人がいないからって、私達の孫……じゃなかった。てってれえの恋路を邪魔するなんて良くないわよ」

「なんでさっきからそんな話ばっかりなのよ!」


 当事者である俺を置いてけぼりにして、勝手に話が膨らんでいく。

 父は父で卑猥な話しかしてないし、母に至っては、もう普段とは別人に思えてしまうほど温厚さの欠片も感じられない。

 ふと祖母の方に助けを求めて目配せするも、両親の孫という単語を聞いた祖母は、小さな声で「ひ孫…」と呟いており、気付く気配もなかった。


「だから、デートしたぐらいで、なんで子供が出来るのよ! めぐみんの妹なんて、あたしは絶っ対に認めないから!」

「デートと子づくりはセットなんだよ。お前は恋人がいないから知らないだけだ」

「そうよ。私達の時なんてそれはもう———」


 そこまでで、俺はすぅーっと大きく息を吸い会話に割り込む。


「ちょっと待って! 一旦! 全員落ち着いて!」

 突然の大声を聞いた全員が勢いをへし折られ、ピタッと会話をやめてこちらを見る。


「……そもそも、今日のアレは、唆されて行ったようなもんだから! デートでもないし、どこまでも行ってないし、付き合ってもいない!」


 その言葉を聞いた時の反応は様々で、祖母は未だに「ひ孫…」と呟きながら残念そうにしており、姉は姉でほっと胸をなでおろしていた。父と母は、なにやら言いたげな顔色でわなわなと震えている。


「えっ、待って。じゃあ、孫は産まれない、ってこと?」

「まあ、当然そうだろうな」

「なんだ、てってれえ。お前は喫茶店にまで行っておいて、そのまま何もせず帰したって言うのか?」

「当たり前だろ。逆に、なんでそういう発想になんだよ」


 両親の顔から、先程までの希望に満ちた気配が消え、その代わりに、お前には失望したとでも言いたげな顔をして……。



「「ぺっ」」



「あっ!」


 下品にも、夫婦そろって床に唾を吐いた!






 ———これは、とある少年の物語。

 偉大な魔法使いにも、世界を救う勇者にも、決してならない。

 そんな紅魔の異端者の、初めの物語である———

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