第8節
5時間目の自習が終わり、ぞろぞろと教室に帰ってきた生徒達が帰宅するために荷物をまとめていると、どこぞのアクシズ教徒に全責任を押し付けた担任のぷっちんに代わり、若年の教員であるびひだすが教室に入ってきた。
今朝のはた迷惑な冤罪事件の続報かなにか聞かされるのかと全員が聞き耳を立てていたが、流石にアルカンレティアからまだ速報は届いていないらしく、特に代り映えもしない帰宅時の注意事項などを告げ、びひだすはあっさりと教室から出ていった。
俺は椅子に掛けていた黒いローブを身に纏い、机の中の教科書類をカバンへと雑にしまって片手で担ぎ、教室の出入り口へと向かう。出入り口付近で背後からなにやら大きな声で止められたような気がしたものの、聞こえていないフリをして、そそくさと教室を後にした。
……そう、俺は逃げたのである。
だって気まずいし、普段でもあまり一緒に帰ったりしないのに、ちょっと綺麗なお姉さんに言われたぐらいで心変わりする訳がない。
そんなこんなで他の生徒たちの流れに溶け込み、中央階段を降りて行き、廊下を挟んだ眼の前にある下駄箱で上履きからローファーに履き替えていると、出し抜けにローブの背中をチョイチョイと小さな力で引かれる。
今度ばかりは気が付いていないフリも出来ないかと観念して振り返ると、体に不相応なブカブカの黒いローブを身に纏う小さな女子生徒が、急いで追いかけて来たのか息を弾ませながら、つぶらな瞳でこちらを見上げて立っていた。
「てってれえ、帰るの?」
「うん、帰るけど。どした?」
「いっしょに帰ろうって思って」
「……あいつになんか言われた?」
「あいつって、だれ?」
「……いや、何でもない」
こめっこの反応を見るに、余計な邪推をしてしまったのだろうと少し後悔し、俺はつま先で地面をトントンと蹴って履きかけのローファーを整え、歩き始め……………ようとして思いとどまり、後ろを振り向いてこめっこが靴を履き替えるのを待つ。
口には出さずとも、その所作で俺が待っているということが伝わったのだろう。こめっこはぱあっと笑みを浮かべ、まるで急がないと俺が逃げてしまうとでも思っているかのように、ローブの裾を少し引きずりながらバタバタと靴を履き替え始める。
「いっしょに帰るの、はじめてだね」
「そうだっけ? 何回か、帰ったことある気がするけど」
「うん。でも、2人で帰るのははじめて」
こめっこはまだ少し息を切らしながら駆け寄ってきて、いたずらっぽく笑う。
本人からしてみれば無意識の、心根から出た何気ない仕草なのだろうが、そんなものに、いちいち心がかき乱される。
……なるほど、これが魔性の女か。
言い得て妙だなと考え、いや、多分この言葉はこういう意味じゃないんだろうけど、良い具合の言葉が思いつかなくて、やっぱり、魔性のこめっこは言い得て妙だ、なんて支離滅裂な思考を巡らせながら、横並びで昇降口から出た。
※※※
———校門を出たところでふと立ち止まり、これと言った意味はないが、空を見上げてみる。
紅魔の里は季節を問わず毎日が見事な晴天だ。
それというのも暇と能力を持て余した里の者達が、雨だろう雪だろうとお構いなしに魔法で快晴に変えてしまうからで、他の天気にお目にかかれることなんて、彼らが気まぐれを起こした時だけだった。
なんでも世の人々は梅雨の時期になれば雨を嫌がるそうだが、それはなにも雨そのものが嫌いというばかりではではなく、美味しくとも毎食ハンバーグとキャビアだけの献立なんて嫌だと思うように、毎日毎日雨ばかりで変化がないということがその一因なのではないだろうか。
つまり何が言いたいかというと、見事な晴天だろうと、こうもずっと同じ天気でいられると、それはそれで嫌な気がしてきて、変化を求めるのが人間という生き物なのかもしれないということだ。
そしてそんな晴天から流れるように、里を囲む山々の方に視線を向けてみると、たしかヤエザクラとかいう、遅咲きの桜が未だに咲いている姿がチラホラと目に写った。特段、草花に興味がある訳ではないのだが、どういうわけか毎年、桜と紅葉が存在感を増す時期には、得も言われぬ気持ちがわいてきて、なんだか無性にその花弁、あるいは葉を手のひらで受け止めて、じっくり眺めてみたいという思いになる。
「……てってれえ、どうしたの? 大丈夫?」
立ち止まったまま、本当はもっと検討すべき案件があると分かっているのに、それから目を背けるために特に意味もない物思いにふけていると、連れ合いとしては同じようにしなければならなかったこめっこが、小首を傾げながら俺の顔を覗き込んできた。
目下のところ問題となっているのは、どうでもいい天気の話題や、同じくどうでもいい俺の感慨ではなく、ただ、帰り道を左にするか右にするかという単純なことだった。
担任が言っていたように、こめっこの家と学校はさほど距離がある訳ではない。
ちょっとした獣道を通ることにはなるが、学校を出てすぐ左に行けば、こめっこの家に行き着くまで他の建物を見ることもない、ほとんど一直線のルートなのである。
反対に右の———右と言ってもほとんど直進に近い右斜めの道だが———大通りのルートへ行くと、族長の家や商業地区の近くを経由するため、左に比べれば少し遠回りが出来る。
素直に左に行ってそのまま帰っても良いのだが、そけっとさんにあれだけ後押しされたにもかかわらず、結局ヘタレてしまって誘うことも出来ず、挙げ句の果てにこめっこから誘われるという惨めな姿をさらしてしまったからには、ここで寄り道を提案するのがせめてもの甲斐性というものではないだろうかとも思い悩んでしまって、さっきから変な思考に逃げて立ち止まってしまっているのだ。
「……いや、空。ずっと、晴れてばっかりだから。暑いなあって思って」
何か答えなければという強迫観念から、本当に問題にするべき話題ではなく、どうでもいい天気の話をしてしまった。
「そうだね。お母さん『洗濯物がよく乾く』って、よろこんでる」
反応か!察するに、連日の晴天推奨派のこめっこが、さっきまでの俺と同じように空を見上げる。
俺としても、普段ならもう少し自然に寄り道に誘えたのだろうが、いかんせん今日の今日気まずい空気が出来上がってしまい、おまけに今の今まで、なんの手も打たなかったのだ。
この後一緒に寄り道をしている間、どうしたら良いのか、何を話せば良いのか、てんで分からない。
こめっこの様子を見る限り、彼女はたぶん今朝のちょっとしたことなんて気にしていないのだろうが、やはりこちらは少し気が引けてしまう。
とはいえ、いつまでもこうして立ち止まっている訳にもいかない。
「えっと、こめっこ、今日なんか、用事ある?」
「なんもない」
「あー、……お腹、減ってるか? 良かったら、なんか食べて帰ろう。ご馳走するし」
精一杯の勇気を振り絞って、遠回しに寄り道する方向へと持って行く。
「ご馳走っ! いいの!?」
……チョロい。
里の外に出たら、誘拐とかされそうだな。
やはり『ご馳走』などの食べ物に関するワードにめっぽう弱いこめっこは、キラキラと期待に胸を膨らませてこちらを見つめた。
「う、うん。どこ行きたい?」
ようやく動き出した口と足を勢いに任せ、こめっこと横並びに大通りへと足を向ける。
「お昼はいっぱい食べたから、甘いものが食べたい」
「じゃあ喫茶店にでも行くか……。てか、お昼いっぱい食べたのに、入るのか?」
「知らないの? 昔、姉ちゃんが言ってたよ。『女の子にとって、甘いものは別腹』って」
「あはは、まあそうは言うけど……」
……お前にとっちゃ、カツ丼でも別腹だろ。
「こめっこにとっちゃ、カツ丼でも別腹だろ」
……声に出てた。
今朝ねーちゃんが言ってたように、自分でも気が付かないうちに、あいつの影響を受けているのかもしれない。
特に気にしていなさそうにこちらをぼーっと見るこめっこと目が合う。
「……てってれえ。お父さんの睾丸に忘れてきたデリカシー、拾いに帰ったほうがいいよ」
…………今なんて言った?
「こ、こめっこ……? 一応訊くけど、その睾丸云々って、誰に教えてもらったんだ?」
「ん? 前に、きんこんがどろんぱに言ってるのを聞いた」
「……こめっこ、あんまりそういうのは、他の人に言わない方がいいぞ。特に男には」
「そうなの? わかった、気をつける」
こめっこに良からぬことを吹き込んだやつと、そのキッカケを作ったデリカシーのないやつ、果たして俺はどっちを責めるべきだろうか……。
さっきまでの緊張感はいつしか消え失せていた。
俺とこめっこは横並びのまま、気が付けば目的地の喫茶店まで、ずっとそんな取るに足らない時間を過ごしていた。
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