とっておきをあなたに

古柳幽

口伝怪談

「この学生寮にさ、代々伝わる怪談があるんだよ」


 前期の試験が終わり、祝杯だと先輩の部屋でオール飲みとしけこんだ夜、苦学生向けのボロい学生寮の一室で、アルコールで頬を赤らめた先輩が、僅かな沈黙の後にそう言った。


 怪談なんぞ話す雰囲気でもなかったと思っていた俺が反応に困っていると、テレビに向かって横に座っていた先輩は安酒の缶にまたひとつ口をつけるとこちらに向き直り、いつからあるのか分んないんだけどね、と俺が何か言うのを待たずに話を続ける。


「ここ男子寮じゃん。だからもちろん男しか居ない。だけど女が出るんだ。それもさ、誰かが退寮覚悟で彼女連れ込んでるとかじゃなくって、もっとこう……年上の?いや年上趣味の奴も居ると思うけどそんなんじゃない。どっかの部屋に用があるって感じじゃないし」


 酒が奢りなのと部屋を貸してもらっているのでひとまずおとなしく耳を傾けてはいるが、言い訳をするまでもなく俺はホラーの類が苦手だ。ホラー映画なんか見れたものではないし、恥ずかしい話、事故で怖い話を聞いたあとは電気を全部付けたうえでやたらに明るい動画を流しながらでないと眠ることもままならない。


 それを先輩には言っている筈なのに、どうしてか先輩はそういう話を——しかもあと数年は住まねばならない場所の怪談を始めた。これが嫌がらせ以外のなにものにあたるかを考えても思いつかず、かといって目の前で喋る先輩は大まじめな顔をしていて、怖がらせてやろうという意図が見えず俺は困惑していた。若干目は虚ろではあるが、口調からしてでろでろに酔っぱらっているというわけでもなさそうだった。


「その女っていうのがさ、真っ赤なコートに長靴履いてんだよ。そんでべちゃべちゃいって、雨の日でもないのに水の足跡残して廊下を歩いてる。なんかするわけじゃないんだ。泥っぽいから片付けが面倒ではあるけど。歩いてるのを見る。怪談自体はね、それだけ。でもさ、それ見たって他の人に話すと死ぬんだって」


 いつの間にか死んでるらしいよ。必死の形相とかそんなのないって。そう言ってから、先輩は俺から視線を外し、だらりと足を投げ出して軽やかに笑う。再び酒を含んで残りが無くなったのか、床に放り出したビニール袋から新しい缶を取り出した。


 怪談としてはありきたりな話ではある。だがホラー嫌いな俺にとって、帰るつもりもなかった地元への夜行バスの運賃を出費できるかどうか検討する程度には嫌だった。なんでそんな話をいい気分になってきたところに突っ込むんだと咎めるつもりで先輩を見ると、先輩は口元に笑みを浮かべつつ、それでも目元は真剣なままで俺を見た。


「はは、怖いからってそんな顔するなよ。見たら死ぬわけじゃないんだ。たださ——」


 そこで一度黙り、目を細める。


「この話、後日譚を改変して誰かに話さなきゃならないんだ。卒業か、退寮までにね。そういうルールの話なの。話さなかったらどうなるか知らない。聞いたことないから。話すだけだし、やらないで起こる推測しようのないデメリットより、話した方が断然楽だろ。んで、俺は先輩からこの話聞いた。その時はさ、見たら財布無くすって言ったんだ。雑だよな。あと俺になんか恨みでもあったのかね」


「見たんですか」

「見たよ」


 代々伝わるには理由があるんだよとこともなげに言う。


「その後しばらくしてさ、見たんだよ。赤いコートに長靴で廊下濡らして歩く女。でも俺以外は本体が見えてないらしくって。だんだん廊下が汚れてくのは見えてたらしいけど、みんなこの話知ってたからさ、あ、こいつ聞いたんだって目で見てきた。不気味ったらなかったね。んでさ、その後、自販機で飲み物買おうとしたら財布がない。自販機行くって出たから忘れるはずないのにだよ。」


 俺は薄ら寒いものが背筋を這っていくのを感じて、身体を縮こませた。先輩から目を逸らしてテレビを見れば、いつの間にか次の番組に変わっていて、男女がすったもんだの大喧嘩をしている。


「そこは立て替えてもらってさ、部屋探してもない。他の奴にも探してもらったってか疑われたから家探しされたのが正しいけど……まあ、この話のこともあったし奢ってもらったよ。結局無かったしさ。ね、話のとおりになったんだよ。金はそんな入れてなかったから良いけれど、学生証入れてたから、再発行が面倒だったね」


 ムカついたから先輩に文句言ったらコーヒー代と再発行料は出してくれたよとテレビの向こうの壁を見ながらまた笑う。その赤いコートの女がどうとか、それもそうだが、なら先輩死ぬじゃないですかと言うのを飲み込んだ。


 先輩は、夜の海のような真っ黒な目をしていた。隈をたたえた目元は些か月型に細められて、色の良くなった唇が不健康に白い肌に映える。


「だからね、お前、なんか考えとけよ。話もそうだし、相手もさ。またとないチャンスだよ。あんまり無茶なことじゃなきゃ、良いようにできるんだから」


 普段より飲むスピードが早かったからか、だんだんと呂律が怪しくなっている気がしていた。俺も早く酔って夢にしてしまいたかったが、すっかり酔いは覚めて、あとはただの冗談だと先輩が言ってくれるのを願うのみで。……


「ね、折角の機会だからさ、お前にあげたくて。ほら、こうして誘ったら飲みに付き合ってくれるじゃん。俺はうれしいんだよ……な?」


 縋るような目で見てくる先輩に、俺は何も言えなくなる。最低限の家具以外何もない部屋で、体勢を変えた先輩に当たって転がる缶の音だけが響く。


「お前がビビりなのは知ってるけどさ……そこは勘弁してほしいかな。俺だって叶えるチャンスだったんだもの。恨みなんかないよ。お前だって、こうしたら覚えておいてくれるだろ?」


 覚えていてほしいなら他にも手があっただろうに、勝手をするならこちらへも配慮をしてほしかった。それでも語ってしまったものはもうどうしようもなく、だから俺は女が出ないことを祈った。ただ、これが本当なら女が出たら……もしかすると、その前でも、先輩は死ぬのだろう。だったら俺はどうすればいいのだろう。怪談の片棒をつかまされた挙句、先輩の希死念慮にも巻き込まれ、全ての責任を押し付けられた気がしていた。


 止めるにももう遅い。先輩はなんの苦しみもなく願いをかなえられる。なら死んだ後にどうなるか、俺が決めてもいいのではないか。勝手をしたら勝手をされるのが道理だろうとこじつけて、俺は自分の願いがあの女にとって——この怪談にとって、無茶にならない妥協点を探すことにした。

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とっておきをあなたに 古柳幽 @Kasukana_

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