第5話 殺人狂
躁鬱症において、
「鬱から躁になろうとする時、分かっているだけに、自殺してしまいかけることがあるので、気を付けないといけない」
と、言われるが、同じように、多重人格において、
「別人格が顔を出しそうな時、何を考えるかということを思うと、実に恐ろしい」
ということを、白石は感じた。
これは、
「ジキルとハイド」
の話を見るからなのかも知れないと、思うのだった。
ただ、このお話において、ジキル博士がもう一人の自分である、ハイド氏を呼びだす時には、クスリを使っている。
どんな薬なのかということは、よく分かってはいないが、
「その薬による効果」
によって、ハイド氏を強引に呼び出し、それによって、ジキル博士の影響がまったくない、
「もう一人の人格」
が生まれたのかも知れない。
そう考えると、別の考え方も出てくる。
つまり、
「ジキル博士の中に、ハイド氏という人格はあったのだが、それをジキル博士は必至に抑えていたので、決して表に出ることはなかったのだが、本人が開発した薬が、実際には、自分の性格の中に、ハイド氏という性格を浮かび上がらせるだけのものとして作ったもので、しかも、それが永久的に効いているものだ」
と思っているとすれば、まだ、分からなくもない。
そういう意味で、彼の作った薬は、
「失敗だった」
と言えるかも知れない。
この場合の、失敗という意味としては、
「実際に表に出てきたものが、実は副作用だった」
ということなのかも知れない。
というのは、本来の性格だとすれば、あまりにも違いすぎる。
どちらかというと、
「自分にはない。まったく正反対の自分を引き出すというだけでよかったはずだ」
と言えるのではないだろうか?
あくまでも、まさか、これほど凶悪な自分を表に出すという状況になろうとは思っていなかったはずである。
そもそも、本当の目的がどこにあった薬なのか分からない可能性もある。小説では、もっともらしいことを書いているが、もし、これが失敗だとすれば、不可抗力でできてしまった性格なのかも知れない。
だが、小説としては、
「もう一人の自分が表に出てきた」
という方が面白いのではないだろうか?
それを考えると、
「薬の恐ろしさと、副作用というものを再度恐ろしいものとして考えさせられる」
ということを感じさせるのだった。
博士ほどの人であれば、
「自分が、睡眠中、あるいは、意識の外に置かれた状態で、もう一人の性格の自分を表に出すなど、知らないだけに恐ろしいはずではないか。知っていたとすれば、余計にそんな薬を使うはずもない、それを考えれば、博士がもう一人の自分を呼び出してしまったのは、明らかに失敗だったといえるのだろう」
博士は、これを失敗だと認識しているのだろうか? そもそも、最初から、そんなもう一人の自分が出てくるなどということを分かっているわけではないだろうから、この話の一か所に、
「ウソを隠そう」
という意図があるのであれば、他の場面でも同じようなことがあるはずだ。
そういう意味で、このお話が、
「本当にフィクションなのだろうか?」
とも考えられる。
ひょっとして、作者は、このような話を誰かから伝え聞いて、それを題材に小説を書いたのかも知れない。
それが、
「ヒント」
くらいのものなのか、それとも、
「実際にやってみたが、本来の目的と違う副作用が出てきた」
ということを知って、それをあたかもフィクションであるかのように書こうとしたのか?
ということである。
つまり、フィクションというものであっても、小説として、人の心を掴もうとするものは、ある程度の、
「リアリティ」
が必要なのかも知れない。
というのは、別に、本当にあった話である必要はない。あくまでも、
「リアリティ」
というのは、読んでいて、心を打てばいいわけで、そのためには、
「木を隠すには、森の中」
という言葉があるが、本当のことを隠したい時など、
「ウソの中に紛れ込ませるといい」
ということを聴いたことがあるだろう。
そういう意味で、
「リアリティというものは、非現実的なものの中に隠せば、非現実的な中に光る話として光るものがある」
と言えるだろう。
「たくさんの石ころの中に、混ぜてしまうと、見えるものも見えなくなる」
ということなのかも知れない。
「石ころというものは、目の前に転がっていて、一つに集中して見ることがないので、その中に、重要な何かがあったとしても、気付かない場合が多い」
というものである。
その効果が、
「保護色」
というような効果に近いのか、それとも、前日の、
「暗黒星」
のような話しにおいても言えることであろう。
「自ら光を発せず、まわりの光も当てにしないので、まったくその存在を、そして気配までも消してしまうことができる、邪悪な星」
というのが、この、
「暗黒星」
というものの存在であった。
「暗黒星」
であったり、
「石ころ」
であったり、さらには、
「保護色」
というものは、
「まわりの外敵から、自分を守るための、生きていくうえでの知恵であったり、持って生まれた本能のようなものではないだろうか?」
というものである。
そんなことを考えていると、このお話が、元々ノンフィクションだと考えると、
「作者のまわりに、何かの薬を発明しようとして、副作用が大きかったり、計算上、どうしてもうまくいかずに、発想だけがあって、実験もできない形で埋もれてしまったものがある」
ということも考えられるであろう。
あるいは、
「自分の中のもう一人の人物という発想から始まって、薬を使うことで表に出すことができる」
ということにして、逆に、
「薬を使わないと、表に出ることはない」
と言いたかったのかも知れない。
そういう意味で、話をよりフィクションにしないと、物語としてのインパクトが強すぎて、下手をすれば、
「発禁になってしまうかも知れない」
ということになるのではないだろうか?
なるほど、小説としては、非常に難しい話になっているよ。だが、裏を返してみると、出来上がるまでの工夫を読み取ると、
「元々の発想が、意外と簡単なものだったのではないか?」
と感がられなくもない。
ただ、小説が、今ではなく、かなり昔のものであり、たぶんであるが、今まで発刊されてきた小説やマンガが、この、
「ジキルとハイド」
という話を元にしたものが多かったとすれば、似たような発想だけではなく、
「発展した発想が数多く考え出されたことで、基礎になる小説ということで、粗削りなないように見えるようになった」
と言えるのではないだろうか。
そういう意味では、
「数々の作品n影響を与えたレジェンド的作品だ」
と言ってもいいだろう。
もっといえば、
「レジェンドは、パイオニアである先駆者的な作品の中からしか生まれない」
ともいえるであろう。
どんな優秀な作品が、その後に現れたとしても、最初のパイオニアが考えなければ、生まれることはなかったのだ。
優秀な作品を書いた人は、
「人の作品をヒントにできるから、人の心を動かせる作品が書ける」
ということになるのだろう。
先駆者は、インパクトを与えることができても、それ以上を望むことは難しい。そういう意味で、
「伸びしろのある作品を世に生み出した」
ということが、レジェンドとしての素質をしっかり持ったものだといえるであろう。
「ジキルとハイド」
という作品のジャンルを何と感じるかによっても、見方が変わってくるのではないだろうか?
実際の話としては、
「怪奇小説的」
ということである。
いわゆる、
「ホラー」
あるいは、
「オカルト系の小説」
と言っていいだろう。
時代とすれば、十九世紀後半、だから、今から約150年くらい前だと言っていいだろう。
この頃にどのような小説があったのかということは、その時代に生きていたわけではないので分からないが、このような小説の、
「アイデアになる」
というような作品はなかったのではないだろうか?
発想はあったかも知れないが、形になったものがなかったのか、それとも、あまりにも原案としての要素しかなかったので、売れることのなかったものなのかということである。
ただ、心理学的なところで、いろいろ分かってきていた時代だったことから、作者自身が、テーマとなった、
「多重人格性」
というものの中で、特に、
「二重人格である」
ということに眼をつけて、そこで開発されていった小説だといえるのではないだろうか?
そう、あくまでも、
「小説の開発」
である。
原案から、一つの形、本という形のものに作り上げるというのが、
「大きなものであり、今も続いている、精神疾患に対しての治療であったり、小説界の、SFや、ホラー小説の発展に一役買っているといってもいい」
と言えるのではないだろうか?
白石氏は、子供の頃に読んだ、この、
「ジキルとハイド」
という小説が、ずっと頭の中に引っかかっていた。
「自分も小説を書いてみたい」
と感じたのは、この小説を読んだからだった。
最初に読んだのは、中学時代だっただろうか?
その頃は、ちょうど思春期であり、多感な時期だったということもあり、密かに自分の中で、
「自分の中に、もう一人の自分の性格が潜んでいるのではないか?」
ということを感じていた。
それは、本の影響ではなく、小学生の頃に見たマンガやアニメで感じたことだったのだった。
ただ、白石氏は、マンガやアニメというのは、読んでいたり、見ていたのは、小学生までだった。
中学生になり、思春期を迎えると、
「マンガやアニメは卒業するものだ」
と考えていた。
別に、
「大人になったら、見てはいけないものだ」
ということを考えていたわけではない。
どちらかというと、
「マンガというのは、日本が世界に誇る文化だ」
ということもちゃんと分かっている方であった。
しかし、中学生になって、いや、
「思春期になってから」
と言った方がいいのだろうが、その頃から、マンガやアニメから自分を遠ざけるようになったのだった。
やはり、
「小説というものを見るようになってから、変わったのではないだろうか?」
と思える。
マンガにしてもアニメにしても、見ていて感じたのは、
「絵のタッチが、それぞれのジャンルでパターンがあるのだが、ジャンルごとにある程度ワンパターンにしか見えない」
と感じたことであった。
普通であれば、絵のタッチは、
「作者の数だけあってしかるべき」
と思っていた。
「マンガがオリジナルなら、絵だってオリジナルだ」
と感じている。
要するに、言い方は悪いが、
「絵のタッチに関しては、皆、二番煎じなのだ」
ということであった。
白石は、マンガであろうが、アニメであろうが、小説であろうが、
「二番煎じは嫌いだ」
と感じていた。
いつ頃から、
「二番煎じが嫌になったのか?」
というのは、あまり意識はないが、その代わり、マンガやアニメが嫌になり始めた時期は憶えているのだ。
その時期が、ちょうど、二番煎じが嫌いになった時期だったのではないかと思っているのだった。
だから、小説にスムーズに移行できたようだった。
ただ、最初は、小説というものに、抵抗があり、違和感があったのだった。
というのは、これは、白石に限ったことではないが、
「文字恐怖症」
と言っていいのか、それまで、ビジュアルで感じてきたものを、文字だけで感じるようになるには、それなりのコツがいるのではないかと思うようになっていた。
小学生の頃の国語の時間でもそうだった。
「文章を読むのは、どうも苦手だ」
と思っていたこともあって、国語の成績は最悪だった。
例文が書かれていて、その後に数問の設問がある。
「この文章のこの部分は、何を指しているか?」
であったり、空欄が空いていて、
「ここに入る接続詞を書きなさい」
などと言ったものである。
どうしても、先に結論を得ようと、先に設問を見てしまってから、例文を見るので、
「ピンポイントに、回答してしまう」
ということをしようとするのだということだったのだ。
だから、中学生になって本を読むようになって感じたことは、
「どうしても、セリフだけを選んで読んでいる」
という感覚だった。
だから、あまりセリフのない箇所は頭に入っていない。
最初の頃に読みだした小説というのは、ミステリー系が多かったので、どうしても、最初の説明文であったり、
「描写の写生」
というようなところは、どうしても、
「まるで上の空で読んでいるかのようで、その後の話も集中して入ってこない」
という、いわゆる。
「ななめ読み」
という形になった。
確かに、
「ななめ読み」
と言われる読み方もあるのだろうが、実際には、
「訓練ができていないとできないことで、それこそ、速読のようなテクニックが必要である」
と言えるのではないだろうか?
速読というのは、大人になると、どうしても、急いで読まなければならないものに対して必要なテクニックということで、大学のサークルにもあったりするくらいであった。
ただ、今のような、全体的な、
「活字離れ」
においては、そのテクニックがいかほどのものなのか、難しいところではないだろうか?
特に、最近では、新聞というのも、
「紙媒体」
というものが売られたり、配達されることも少なくなってきた。
何と言っても、読み終わった後、ゴミにしかならないからである。
そういえば、昔であれば、
「古新聞古雑誌を、トイレットペーパーと交換します」
ということで、今の、
「リサイクルの走り」
だったものが、今では、
「インターネット」
なる媒体の出現と、さらには、スマホなどというパーソナル端末によって、簡単に見れるようになったことで、新聞というものを、誰も見るということをしなくなったといえるであろう。
小説などの文庫も、本屋では、種類が少なくなってきた。
昔だったら、人気の作家の作品は、文庫本コーナーに一列にいっぱいあったものだが、今では、どんなに著名な作家であっても、数冊しか置いていないというのが現状である。
「売れるものしか置かない」
ということと、作家の数が増え続け、
「飽和状態になってきている」
と言っても過言ではないだろう。
要するに、紙媒体というものが、時代遅れと言われるようになったことで、街の本屋もどんどん姿を消して行っている。
それだけ、
「時代が進んでいるといってもいいのだろうか?」
とにかく、急速に変わるものと、昔からの文化とのギャップが大きくなってきているというのも事実であろう。
躁状態に変わることで、狂暴になって、
「自分が殺人狂になっているのではないだろうか?」
と感じたりしている。
この感覚は、躁鬱症では感じられるものではなく、多重人格としての、
「ジキルとハイド」
のような話しの場合に感じるものであった。
だから、この発想は、あくまでも、自分の中にある性格によるものでないだけに、
「人を殺したくなる」
ということが衝動的なもので、そこに、憎悪のようなものが浮かんでいないということであろう。
これは、自分を殺したくなるという、
「自殺願望に近い」
というものなのかも知れない。
自殺願望というものには、
「自殺菌」
というものが影響しているのではないか?
ということを、白石は結構昔から感じているのだった。
「自殺願望」
というものが、どういうものなのかとうのは、自殺をしようとしたことのある人間でないと分からないかも知れない。
いや、もっといえば、
「自殺をしようとした人にとっても、ハッキリと分からないものではないだろうか?」
と言えるものではないかと思うのだ。
それと同じで、
「人を殺したい」
と思うのも、本当はそういう菌のせいなのかも知れないが、そればっかりは、
「菌のせいだ」
ということにはできないだろう。
なぜなら、他人を殺すということになれば、殺された人にも人権があり、さらに、その人に関わっていた人皆が、大きな影響を受けることになる。その責任の所在をしっかりしなければいけないと思うのだった。
殺された人に、何の非もなければなおさらのことで、
「家族にしても、本人としても、菌のせいにされてしまうと、何ら保証というものがないということになるではないか?」
ということになるだろう。
それは、
「精神異常者は、無罪だ」
というのと同じではないか。
菌のせいにされてしまうと、さらに厄介で、殺人者が、殺人を犯したその瞬間に、
「菌が死んでしまう」
あるいは、
「他の人に乗り移る」
ということであれば、罪の所在もハッキリとしない。
症状としては、
「殺人誘発菌」
とでもいえばいいのか、そんなものが存在しているのだとすれば、これが、
「ジキルとハイド」
の話でいけば、それは、
「二重人格」
の形成ということになっているということになれば、この問題は、もっと厄介なことになるだろう。
誰に罪を着せて、被害者を保証するのか? これは大きな問題である。
ただ、今は、その菌の存在を誰も知らない。本当にあるのかどうかも怪しいものだとすれば、被害者側にとっては、まったくの不利であって、
「被害者も特定されない」
あるいは、
「自分たちの保証もままならない」
ということで、
「踏んだり蹴ったりではないか?」
ということになるであろう。
そんな殺人菌は、犯罪の中でも一番大きなものだが、それ以外の犯罪も、実は菌が働いている場合がある。
その共通点としては、あくまでも、
「衝動的な犯罪」
であり、計画性のある犯罪、たとえば、詐欺であったり、政治家の犯罪などのような、確信犯と呼ばれるものは、このような菌によるものではないということだ。
だから、殺人であっても、最初から犯罪計画がある場合は、
「殺意の否定」
というものをすることができない。
だから、同じ殺人においても、
「釈明の余地もなく、明らかな確信犯というものには、容赦ない裁定が下されることになるだろう」
ということで、
「情状酌量」
というものが認められるのは、少なくなり、そのかわり、無罪放免が増えてくるだろうから、その分、
「計画的な犯罪」
というものに掛かる罪は、さらに重くなり、まったくの情状酌量というものはなくなり、最後には、極刑が待っているということも多くなるだろう。
そうなると、
「死刑廃止論」
というのも、なくなってくる。
そして、死刑にならない代わりに、大きな罪を背負わされるということになるのではないかということであった。
もっとも、死刑執行までの期間も短くなり、下手をすれば、死刑が確定してから、執行されるまでの期間が、1年くらいという、ごく短期間になるかも知れない。
そもそも、死刑囚が、なかなか死刑執行されないというのは、どういうことなのだろう?
法務大臣が執行責任者ということになるので、
「その責を負いたくない」
ということであろうか?
しかし、誰かがしなければならず、それが自分だということになれば、早く執行してやる方が、死刑が確定している人間にとっては。辛いことになるだろう。
そういえば、最近起きる犯罪の中に、
「死刑になりたいから、殺すのは誰でもよかった」
などというおかしな犯罪者が増えている。
これも、
「殺人菌」
なるものの影響だといってもいいのだろうか?
そんなことを考えていると、
「殺人菌」
というものは、
「詭弁でしかない」
としか思えない。
これが、
「自殺菌だ」
ということになると、殺すのが自分なので、理屈的に分かる気がするのだ。
だとすれば、なぜ、
「殺人菌と自殺菌の二つが存在しているのだろうか?」
と感じるのだ。
「すべてが、自殺菌であれば、平和なのに」
と思うかも知れないが、自殺をする人にだって家族はいるわけで、それだけに、
「責任放棄であることに変わりはない」
と言えるだろう。
それを思うと、
「自分を殺すのも、人を殺すのも、どこに違いがあるというのだろうか?」
ということを考えさせられてしまう。
そのことが、余計な発想に繋がっていくのだろう。
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