第4話 躁状態と多重人格性の恐怖

 鬱状態というのは、とにかく不安が襲ってくるものであり、本人も辛い時期であった。偏頭痛が起こっている時は、痛みだけではなく、その際に襲い掛かってくる不安にさいなまれた状態で、過ごさなければいけない。

 ただ、鬱状態においては、実際には曖昧な精神状態なので、不安が襲ってくるのも当たり前というものであった。

 しかも、その不安が、永遠に消えないような気がして、

「鬱状態の恐ろしさは、永遠に消えることのない、それでいて、最高潮に辿り着くことはない鬱状態を、またしばらくすると感じなければいけない」

 と言えるであろう。

 躁鬱症であれば、

「躁状態と鬱状態が交互にやってくる」

 というのはわかっているのだが、では、

「躁状態と鬱状態のどちらが長いというのだろう?」

 と考える。

 鬱状態であれば、

「少しでも早く逃れたい」

 という思いから、その長さが自覚できる。

 自分としては、約2週間くらいだと思っていたが、本などで勉強していると、自分の鬱状態というのは、

「最低限の長さだ」

 ということのようだった。

 一見、

「それはよかった」

 と感じられそうなのだが、逆にいえば、それだけ、

「躁鬱の波が激しい」

 ということであり、

「一定区間の長さで、繰り返される回数が多い」

 ということになるのだろう。

 それを考えていると、

「鬱状態は、感覚的にも、身体で感じる時でも、一緒に感じることができ、少しでも、不安を解消しようという意識が働いているのかも知れない」

 と感じるのであった。

 ただ、これが躁状態になってくると、少し感覚が変わってくる。

「躁鬱症において、鬱から躁に変わる時、躁から鬱に変わる時」

 というのが、分かるのかどうかということを感じさせられる。

 白石氏としては、

「鬱から躁になるのは、分かる気がするんだけどな」

 というものであった。

「躁から鬱に変わる時は、黄色信号というものはない。それまで突っ走っていた感覚が、いきなり自分の意識の外で、ブレーキがかかり、そのブレーキを意識の中で、エンジンブレーキのように、自分にさえ悟らせないような努力がある」

 ということが分かれば、その努力は、自分のためにすることのはずなのに、変に気を遣っているかのように思えるのはなぜなのだろう? 

 どうもおかしな感覚であった。

 だが、鬱に入るということは、

「不安がこみあげてきたからだ」

 ということが分かる。

 鬱状態の時には、

「自分がすべきこと」

 というのが分かってきたような気がする。

 というのは、まずは、

「規則正しい生活をすること」

 というのが、まずは大前提であり、その一環として、一番の重要視は、

「十分な睡眠ではないか?」

 と言えるであろう。

 睡眠と、食事というものが、不安を絶えず感じている鬱状態には必要なことであり、これら、

「睡眠と食事」

 というものを、十分に摂るには、

「規則正しい生活が必要だ」

 ということで、

「逆から解釈をしても、当たり前のことに落ち着くのだ」

 ということになるのは、分かり切っていることでもあるのだ。

 鬱状態に陥るというのは、やはり、

「不安というものと切っても切り離せない運命にある」

 ということを感じさせる。

 ただ、鬱状態は、永遠に続くものではないということは、自覚もしているし、本に書いてあったように、

「2週間から約一か月」

 と言われるように、自覚できるところだったのだ。

「短い期間に凝縮されているのではないか?」

 と言われても、こればかりは分からない。

 なぜかというと、

「普段の鬱状態が自分でも分かっていないからだ」

 ということになるのだが、

 凝縮されたその期間というのは、

「誰にも邪魔されないという、誰もが持っている時間とかぶっているのではないか?」

 と感じると、それこそ、やるせない気持ちになる。

 誰にも侵されることのない、自分だけの時間を使えるのに、その時、鬱という、最悪の精神状態をそこにあてなければいけないということは、情けなさすらあるのではないだろうか?

 そんなことを考えていると、

「何で、俺がこんな目に遭わなければいけないんだ?」

 という、自分の気持ちを内に籠めるかのような状況に陥るのだった。

「このようなひどい目に遭っているというのは、よほど前世に何か悪事を働いたのえはないか?」

 と考えさせられる。

 だが、そんな白石のことを、気に病んでいる人は、少なからずいるのではないだろうか?

 自分の周りには、たくさんの人がいるからと言って、

「すべてがいい方向にいく」

 というわけではない。

 人によっては、入り込んでしまい、抜け出せなくなるのが怖くて、

「マウントを取ろう」

 としているかも知れない。

 それが、

「侵してはならない領域」

 というものであったりすれば、それ以上、どうしていいのか分からなくなるだろう。

 それを思うと、

「まわりの気を病んでくれている人」

 あるいは、

「助言をしてくれる人」

 から、すれば、

「規則正しい生活をしてくれている方が、こちらとしても、扱いやすい」

 というものであった。

 そんな状態において、本人がどのような、

「覚悟」

 を持ち、さらにまわりも、そばにいることにおいて、どのような、

「覚悟」

 があるかということが大きな問題ではないだろうか>

 本人が覚悟を持つのはもちろんのことである。その覚悟にはいろいろあるだろうが、まず最初に必要なものは、

「病気を受け入れる」

 ということではないだろうか。

 医者は、診断をすると、それに対して、いろいろな助言をするに違いない。

 当たり前のように、生活のし方、対人関係、學校、仕事においての注意事項などがあり、それぞれに対しての対処法などである。

 それをいちいち話す時間もなければ、本人がそんなにたくさん聞いても理解できるわけがない。

 本人が本を読んだり、何度か通院する中で、先生の話を聴くなどしか、理解できるまでにはならないだろう。

 本を読むのもいいのはいいが、何と言っても、人それぞれで、症状に微妙な違いがあるだろうから、その対処法も、場面場面においても変わってくるだろう。

 そういう意味でも、近親者、近しい友人、恋人などが、本人を支える人とならなければいけないということもあり、話を一緒に聴いたりして、その人と、

「一緒に歩んでいく」

 という意味での、

「伴走車」

 という人がいることが大切であろう。

 それも一人ではなく、数人いることが大切で、本人が求めて探すということもあるだろうし、自然と自分のまわりにそういう人が現れるということもあるだろう。

 どちらにしても、本人が、

「病気を受け入れ、立ち向かい、治そうという意思がなければ、成り立たないものだ」

 と言えるだろう。

 それが、この病気にとって、まずは、

「最初のステップ」

 ということになるのではないだろうか?

 そんなことを考えていると、

「今度は、自分を支えてくれる人も、覚悟を持ってくれているということを、信じないといけない」

 ということになる。

 まわりの人も、その人を支えるという覚悟をある程度は持たないと、なかなかきついことになるだろう。

「ただの、お友達というくらいでは、相手を理解することは難しい」

 と言える。

「本人は病気なのだから、何を言っても、どこまで本心なのか分からない」

 ということで、ひょっとすると、鬱状態になった時など、自暴自棄になって、普段ならできるはずの判断である。

「こんなことを言ってはいけない」

 という当たり前のことができなくなるというものだ。

 だから、相手は苦しさからか、こちらを攻撃する口調になったとしても、それは、病気だから仕方がない。

 ただ、本人は、それをまともに受けてしまうと、かなりきついだろう。

「病気なんだから」

 と分かっていても、本来なら、

「持ちつ持たれつ」

 という関係でいられるものが、完全に与えるだけで、何も見返りがないと思うと、やるせなくなるのは当たり前だろう。

 それでも、寄り添わなければならないという、

「覚悟」

 ができていなければ、頼られる方もきつくなってきて、我慢できなくなることで、相手とうまくやっていけるかどうかが決まるのだ。

 覚悟ができていない人は、下手をすれば、

「3日と持たない」

 というのも、当然のことなのかも知れない」

 しかし、その3日持てば、そこからしばらくは持つというもので、それなりの期間はうまくいっても、いきなりダメになることもある。

 それは、

「時間とともに、ストレスが知らず知らずに溜まっていき、精神や肉体を蝕んでいくものだからである」

 といえる。

「覚悟のあるなしで、どこまで耐えられるかが決まるだろうが、たぶん、自分を抑えられない人に、他人まで抱え込むことは、土台無理だ」

 ということになるのだろう。

 さらに、医者がいうには、

「病気の人は、健常者に受け入れてもらえないことで、どうしても、病気の人間同士で固まってしまうということになりがちなのだが、それも、悪くはないが、深入りしすぎると、共倒れになってしまうという危険性もある」

 というのだ。

「なるほど、お互いに話を聴いて共感はできるが、実際に助け合うということになると、それがどこまで、実際にできるのかということが難しくなる」

 ということである。

 さらにそれだけではない。

「お互いに似たような病気だといっても、人それぞれで違うのだから、お互いに絶対にしてはいけないのが、依存である。依存してしまうと、相手に頼ることになり、頼られた方も病気なのだから、どうすることもできなくなってしまう」

 ということであった。

 そうなると、いかに助け合うかが問題なのに、最初にどちらかが倒れると、こちらも倒れてしまうことを意味するので、こちらも、共倒れになってしまう」

 ということであった。

 ここまでくると、

「もう、どうしようもなくなってしまう」

 ということになるだろう。

 そんな状態の中で、白石氏は、先生との話の中で、

「躁状態というのも、甘く見てはいけない」

 ということに気付かされたのだ。

「躁状態というのは、普通であれば、鬱の苦しみから解放されたようで、まわりから見れば、安心できるというように見られるかも知れないが、果たしてそうなのだろうか?」

 と医者がいうのだ。

「どういうことですか?」

 と、白石氏が答えたが、白石氏も、医者のいうことは、ウスウスであるが分かっていた。

 何と言っても、その本人なのだからである。

「躁状態というのは、鬱の時と違って、それまで重くて、まわりから抑えられ、抑圧された気持ちになっていたものが、開放感によって、爆発するほどの心地よさとなるだろうが、それは、抑えが利かないということであり、下手をすると何をするか分からないということになるんですよ。本人は、何だってできると思い込むわけだから、それも当然のことであり、それを考えると、行き過ぎてしまうということになるわけですよ」

 というのだった。

 つまりは、

「抑えが利かずに、途中のちょうどいいところで止まれないことが、躁鬱という状態を長引かせ、ある程度までいくと、それが、身体に沁みついて、抜けなくなってしまう。それが、躁鬱症というものの始まりではないか?」

 という話をしていた人がいたが、

「それも一理ある」

 と思ったのだ。

 そもそも、その話をしていた人は医者でも学者でもないのだから、信憑性はないのだろうが、話を聴いていて、

「もっともだ」

 と感じさせるところが、

「俺ほどの病気を自覚している人間だからこそ、陥る考えなのかも知れないな」

 と、いい意味、悪い意味、それぞれに一長一短があるように、それぞれの話の信憑性というもの、

「俺でしか分からないところもあるということなんだろうな?」

 と感じるのだった。

 健常者と付き合っていくのも、同じ病気を抱えている人と付き合っていくのも、こちらも一長一短あるわけで、

「一つ一つ、考えていくしかないのではないか?」

 と言えるのではないだろうか?

 そんな中の躁状態において、医者が、少し怖いことを言うのだった。

「さっきも言ったように、躁状態ともなれば、何をやっても怖くないという感覚であったり、何でもできると思うことから、ハイな状況になるんですよね? でも、その直前までは、ハッキリ言って、何をするにも億劫で、しかも、悪いことに、自己否定をする鬱状態にいたわけですよね。自分なんかいなくてもいいであったり、存在していないような気持ちになったりという状態ですね。それがいきなり爆上がりのテンションになるわけだから、悪い方に心が動かないとも限らない。そうなると、死ぬということが、簡単にできてしまう心理状態に一番陥りやすいんですよ。鬱の状態の時は、死にたいと思っても、億劫なことが幸いして、そこまでいかないですよね? でも、それが何でもできると思う躁状態に入り込むと、今だったらできるという気持ちになり、それこそ、衝動的に、リスカをしてしまう人だっている。だから、これが一番怖いんですよ。しかもですよ。他の人も、躁状態になったのが分かるだろうから、安心するので、まさか、自殺などするはずがないと一番感じる時で、油断しているんですよ。本人もまわりもですね。そうなると、これほど危険なものはないかも知れないですね」

 というのであった。

「そうかも知れません」

 というと、さらに医者は、

「でも、あなたの場合はある意味いい傾向なのかも知れません。というのは、あなたは、躁状態から鬱状態に移行する時は分からないといっていたけど、鬱状態から躁状態に移行する時が分かると言っていたじゃないですか、一番危ない時期を、少し前から状況を誰よりも先に理解できるんですよ。自殺をする時は、実際にはまわりが止めるんでしょうが、何と言っても、自制の力というのが絶対に必要で、あなたの場合、さらに早く感じることができるのが、その強みじゃないかと思うんですよ。だから、そこが、あなたにとってのとりえではないかと私は思いますね」

 と医者がいうのだった。

 そんなことを医者に言われて、少しショックな部分もあったが、話を聴いていると、明らかに

「あなたなら大丈夫」

 と言われているような気がした。

 ある意味、

「医者の太鼓判」

 というもので、どんなものよりもありがたい。

 ただ、医者の話で、このままなら、

「自殺札」

 という免罪符を持って、

「このまま自殺をしてしまうのではないか?」

 と考えてしまうのは、怖いことだったのだ。

 自殺をするということが、どういうことなのか?

 今まであまり考えたことがなかった。

「衝動的に自殺をしてしまう」

 であったり、

「自殺をしたくなる瞬間がある」

 という話を聴いたりすると、まったくピンとこなかった。

 しかし、それを躁鬱の状態と照らして話をされると、

「ああ、なるほど」

 と考えてしまうこともある。

「そんな人間に対して、どのように対応すればいいか?」

 ということを、他の人は勉強していくのだろう。

 だが、この場合は、本人が感じたことである。そして、本人が感じるだけでなく、本人に対していかに対応していくかという、

「伴走者にも言えることではないだろうか?」

 そんなことを考えていると、以前、読んだ本で書かれていたことだが、

「人間は、自殺をしたくなることがある。それは、本人の意思に関係なく、忍び寄ってくる恐ろしい、自殺菌なるものの存在があるからではないだろうか?」

 ということであった。

 人間の意思だけで、考えられないものは、

「何かの外的要因から来るものではないか?」

 と考えるのは、無理もないことであり、誰にでもいえることではないだろうか?

 白石が、一つ気になったのが、

「何でもできると思い込むのであれば、犯罪だって起こしかねないのではないか?」

 ということであった。

「確かに自殺をする気になるのは、その前の鬱状態というのが影響しているからというのもあるのだろうが、それだけ性格が違ってくるのであれば、ひょっとして、もう一人の自分というのが出てくるのではないか?」

 と考えたからであった。

 この考えは、少し厄介なものであって、実際に大前提として、

「もう一人の自分の存在」

 というものを信じていないと、出てくる発想ではない。

 白石氏は、

「自分が躁鬱症ではないか?」

 と考えるようになってから、もう一人の自分の存在を、ふと感じたのだという。

 その考えが、

「ジキルとハイド」

 という、多重人格性というものに結びついたとしても、それは、別におかしなことではなく、むしろ、自然なことであった。

 しかし、躁鬱の気があることを自覚していた白石は、このことを誰にも言わないでいた。

 ただでさえ、

「あいつは躁鬱の気があるから、付き合いづらい」

 と思われていたのに、そこに持ってきて、多重人格だと思われたり、思われなかったとしても、多重人格だと意識していると思われた時点で、あまりいい傾向ではないと、感じさせられるのだった。

 二重人格というのは、躁鬱とは違うものだと思っていた。

 躁鬱のように、基本的に、人格は同じで、その中で、感情がコントロールできないという人を躁鬱症ということで、病気として、治療が必要なものなのだという認識だったのである。

 しかし、二重人格というのは、最初から人格の違う性格が、一人の肉体の中に宿っているというものである。

 だから、躁鬱症の場合は、自分で、躁鬱だということを理解して、それぞれの性格を自分で自覚できる。

 しかし、二重人格は、基本、表に出ている性格以外のもう一つの性格は、隠れているということになるのだ。

 ということは、もし、自分にもう一つの性格が存在するとして、それを自覚することはできるが、感じることはできない。

 つまりは、

「自分にはどうすることもできない」

 というようなものなのだ。

 だからこそ、こちらは病気ではない。治療も何も、

「どうなることが正しい」

 ということが分からないのだ。

 病気というのは、

「どうあるべきだ」

 というのがハッキリしていて、その状態ではないものを、

「病気と称して、どのように、元に戻すか?」

 ということが問題となるのだ。

 だから、多重人格性も、もし分かったとして、

「もう一つの性格」

 というものが、

「出てこないようにすればいいのか?」

 それとも、

「完全に葬り去る方がいいのか?」

 ということになるのだろうが、

「ジキルとハイド」

 の話のように、

「片方を殺してしまうと、片方も生きてはいられない」

 ということになるのではないだろうか?

 などという、結果、どうなるか分からないということに、どこまで突っ込んでいけるかということが問題なのであろう。

「ジキルとハイド」

 のお話は、そういうことだったのではないだろうか?

 だから、フィクションとしてであっても、躁鬱症を問題とするよりも、

「多重人格性」

 を問題にする方が、よほど難しいといえるだろう、

 しかし、逆にいえば、

「多重人格性でなければ、小説のテーマとしては扱えない」

 ということでもある。

 というのは、

「躁鬱症が病気だから」

 と言えるのではないだろうか?

 事実として存在するもので、書き方を間違えると、大きな問題になるだろうし、医者が一生懸命に治療に当たっている患者がその話を読み、

「先生の話と辻褄が合わない」

 ということで、頭の中が混乱してしまい、それがちょうど鬱の状態で、さらにその鬱を刺激して、深刻化させてしまうということになれば、

「何とも罪の重いことだ」

 ということになるのではないだろうか?

 作家の知らないところで大きな物議をかもしたり、さらに、似た作品をまた生み出そうとしてしまうということになりかねないからである。

 それを思うと、

「少なくとも、商業化された流通される本では、躁鬱症のことを扱うのは、素人ではダメなことではないか?」

 と言えるのではないだろうか?

 これが、ストーリーの真髄であったり、話の柱のようなものでなければ、少しは違うかも知れない。

 そういいながら、作者としての、

「中の人」

 は、素人だということで書いているのだが、

「本当にいいのか?」

 ということも、最近考えるようになってきたのであった。

 だが、二重人格などの話であれば、

「ジキルとハイド」

 の話であったり、ホラー小説などでは、普通に書かれているのではないだろうか?

 そんなことを考えていると、

「二重人格をテーマにした話は、ホラー、SF、ミステリーなど、多岐にわたって書けるものである」

 と言えるであろう。

 二重人格というのは、躁鬱と違い、もう一人の自分がどのように自分の中に関わっているのかということを誰にも分からないといってもいいのではないだろうか?

 それを考えると、

「夢の中で、怖い夢の代表のように思うのは、もう一人の自分が出てきた時だ」

 と言っている人が、結構いたりする。

 それは、

「いるはずのないもう一人の自分がいるからだ」

 ということで、タイムパラドックスであったり、ドッペルゲンガーの話に出てくる、

「もう一人の自分」

 というように、怖い話であったり、ありえないものという発想から、夢の中での思いとして、

「あくまでも、自分ということであり、二重人格ではなく、躁状態であれば、鬱の時の自分、鬱状態であれば、躁状態の自分を感じているような意識で、辻褄を合せようとするのではないか?」

 と考えたのだ。

 まったく違う容姿であれば、そのままスルーすることもできるのだが、怖い夢として、思いつく一番の感情は、

「もう一人の自分を見た」

 というもので、それが、ひいては、

「多重人格性の恐怖」

 ということで、

「飛躍した考えに至る」

 ということになるのではないだろうか?


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