第3話 鬱状態の違い
「ジキルとハイド」
というのは、ジキル博士には、ハイド氏の、ハイド氏にはジキル博士の存在を分かっているが、他の人は、自分の中に、
「ハイド氏」
がいるということを分かっている人は、まずいないだろう。
あくまでも、あの物語は、
「ハイド氏の存在」
というものの存在を証明したということであり、実際にいるかどうかはmハッキリしないということだろう。
ハイド氏の証明というには、もう一つ、前述の、
「躁鬱症」
という考えが当て嵌まるというものであり、
「ジキルとハイド」
の物語は、躁鬱症の発想にも結び付いているといっても過言ではないだろう。
「ジキルとハイド」
は、本当に正反対の性格なのだろうか?
物語では、まったく正反対だと描かれているが、どこかに共通点があるから、
「同一人物の中に共存できる」
ということなのではないだろうか?
つまりは、
「同じ肉体に入り込んでいる二つの別の性格であったとしても、共通点がなければ、存在しえないのだとすれば、ジキルとハイドの物語は、根底から覆される話だといえるのではないだろうか?」
そんなことを考えていると、
「躁状態と鬱状態であれば、表に出る感情が違うだけで、れっきとした同じ人間だ」
と言えるだろう。
それは、躁鬱の中において、躁状態も鬱状態も、同じ感覚で、一つの身体を共有しているということを分かっているのだろう。
しかも、
「躁鬱の人というのは、躁と鬱を、繰り返しているので、それぞれの躁鬱の共有部分を意識できていて、躁から鬱、鬱から躁への移り変わりを、自分で理解できている」
と言えるだろう。
だから、躁鬱症というのは、自分の中で、
「意識していることだ」
ということになる。
「ジキルとハイド」
とは、明らかに違うのだった。
躁鬱症というと、今では、
「双極性障害」
と言われているようだが、
「躁状態と鬱状態が、交互にやってくる」
というところは、変わりないようである。
ひどい人になると、
「身体の変調が顕著で、まったく動けなくなる」
という人もいるようで、これは、普通の健常者にとっては、分かりにくいところであろう。
場合によっては、
「怠けるための口実ではないか?」
などというふざけた発言をする輩もいるが、そういうやつは、因果応報で、
「自分がまわりから嫌われている」
ということを分からずに、好き勝手なことを言って、何かの助けが必要な時、
「誰も助けてはくれない」
ということで、その時になって、やっと、
「因果応報だった」
ということに気付くことだろう。
身体の変調をきたすほどにきつい人に対して、接し方も難しい。まずは、
「相手の状況を分かってあげる」
というのが先決であろうが、どうしても、経験者でしか分からないところがあるのも事実だ。
そこは、相手と接しながら、
「他の人と、明らかに違う」
というところがあるはずなので、そこをいかに分かってあげられるかということも必要であろう。
もちろん、病気なので、
「軽症」
「重症」
など、病状にランクがあったりするだろう。
本当であれば、医者を交えて、助けてもらえる人が、いかに寄り添える環境を造り、
「何が最優先か?」
ということを、お互いに共有できるような関係が大切なのではないだろうか。
とにかく、まずは、相手のことを最優先に考える必要がある。
ただ、鬱病の人の中には、自信喪失状態などから、
「何もかもが、自分のせいだ」
と思い込むことで、まわりの人間との交流であったり、援助を断とうとすることなども考えられるが、だからと言って、まわりがそれで見捨ててしまったら、本末転倒のいいところである。
鬱状態の人をサポートし、
「一緒に寄り添う」
などという気持ちになった、恋人や友人、家族などは、
「二人の間、あるいは、助けてくれている人との間で、何らかのルール決めをしておくというのもいいのではないだろうか?」
と言われている。
たとえば、
「行動範囲に制限をつける」
「引きこもりになりがちの精神状態を共有する」
健常者であれば、引きこもりというと、
「そんなことはいけない」
と言えるのだろうが、病気で、精神的にどうしようもなくなってしまう人間に、縄をつけて、言う通りにさせるなど、土台できるわけはないのだ。
本人が、
「病気であることを受け入れているのなら、それにまわりも従うくらいの気持ちが必要であろう」
さらに、相手が、どう接してほしいかということを訴えてくれていれば、それに従う。何と言っても、本人が一番分かっていることだろうからである。相手に高圧的に節するなど論外で、
「殺す気か?」
と言われても仕方がないレベルなのではないだろうか?
実際に、躁鬱状態で、軽い症状であれば、白石氏にも経験があった。最初に感じたのは、中学の時が最初だったあだろうか? 高校の頃まで、ほぼ、
「無限ループ」
の状態に近かったといってもいい。
「躁鬱症ではないか?」
と感じたのは、比較的早かったような気がする。
最初が、躁から始まったのか、鬱から始まったのか、自分でも分からなかったが、よく考えてみると、最初の予感があったのは、
「時間の感覚」
だったのだ。
最初に感じた時間の感覚は、まず、
「時間がなかなか過ぎてくれないな」
と感じたことだった。
その時、とっさに、
「何か悪い予感がする」
と感じたのだ。
それ以前から、
「時間が長く感じたり」
あるいは、
「なかなか過ぎてくれなかった」
などと感じると、何か悪いことが起こる予感がして、そういう場合、たいてい当たっているのだった。
もちろん、時間が短く感じる時というのもあって、そういう時は、
「いいことがあるような気がする」
と感じ、大体当たっていた。
考え方であるが、往々にしてこういう時は、後付けで、正当性を感じるものではないかと思うのだった。
要するに、後から感じて、悪いことが起こった時は、最初に感じてから、その状況になるまで長かったような気がするので、その理由づけを、後追いで行うということである。
いわゆる、
「辻褄合わせ」
と言えるもので。
「嫌なことはなかなか過ぎてくれない」
いや、
「時間が過ぎてくれないから、嫌なことが起こる」
という両面から辻褄を合せて、しっくりくることでの正当性を考えるのであろう。
そんな状態が、
「鬱状態」
というものであり、
「何をするにしても、すべてが悪い方に行くという感覚にしかならない」
「人と関わると、何か虫唾が走るかのように、気持ち悪く感じる」
「人のアドバイスがすべて悪い方にしか聞こえない」
などのような、すべてが悪い方に向かい、
「すべては自分が悪いと思っているのだが、どうすることもできない」
という状態に陥るのだ。
だから、人の話を聴けない。自分勝手な行動に走り、結局うまくいかず、自分のせいにして、さらに、他人のいうことが信じられなくなったりする。いわゆる、
「悪循環」
というものである。
人の助言が、悪口にしか聞こえない。世の中には、
「正論をあたかも、自分の考えのように話すバカな人もいるだろう」
そんな馬鹿なやつのことがやたら目立ってしまったりと、
「鬱状態の方が敏感で、正確な状況判断ができるのではないか?」
と思えるのだが、実際には、そんなことはないのである。
だから、
「まわりの見たくないものが、やたらとハッキリと見え、一番関わりたくないと思っているところに、なぜか人が寄ってくることで、今度は、身体がムズムズしてきて、どうすることもできなくなる」
まわりが皆敵だらけというような。
「四面楚歌」
の状態を彷彿させるのだった。
そんな鬱状態において、他の時との違いを、
「目に感じる時」
があるのだ。
というのは、
「夕方になると、普段は見えないと思っている光景が見える」
というのだ。
それは、光景というよりも、
「色彩」
というものであった。
その時間帯は、非常にせまく、特に夏になるとその影響が顕著に感じられる。
夕方というのは、実に短い時間だ。しかも、夕日が沈みだして、夜のとばりが下りるくらいまでのことをいうのだろう。
それを思うと、
「目の前に沈もうとしている夕日を見ながら、身体に掻いたじっとりとした汗が背中にへばりついてきて、服の重たさが感じられるようになる時がある」
と思うのだ。
その時、日差しが、信号機に当たった時の、その色が、青信号は、明らかな碧に、そして赤信号は、ピンクに見えてくるのだ。
碧というのは、
「緑色が、限りなく青に近い緑である」
という感覚えある。
また、ピンクというのは、
「限りなく赤に近いピンク」
ということである。
そして、その色を感じると、頭痛が襲ってくるのを感じる。疲れからくるものなのか、その感じた頭痛は、頭に重たさを感じさせる。そして、次第にその重たさが、脈を打っていると思うようになると、こめかみのあたりから、徐々に頭全体に渡って、痛みが広がっていくというものだった。
痛みが頭全体に広がっていくと、
「元々の痛みがどこから来たのかが分からなくなる」
と言った感じで、襲ってきた痛みが、まるで、虫歯のような感じがしてくるのだ。
何とか、痛みを和らげようと、気を散らせようとする。
そう思っていると、頭痛にも身体が慣れてくる気がすると、次第に頭痛が収まってくる。
収まってきた頭痛ではあるが、それだけでは収まらないというのが鬱状態の特徴だった。
そこから、今度は、吐き気を催してくるのである。嘔吐まではいかないのだが、吐き気からか、身体がいうことをきかなくなる。その頃になると、日が沈んできて、
「風がピタッと止まる」
と言われる夕凪の時間に突入しているのだった。
その時になると、明らかにそれまでと違っていた。
というのは、ここにきても、
「色彩」
というもので、さっきまで見えていた色が、今度はまったく感じられることのない、
「モノクロの世界」
が広がっているのであった。
ただ、これは、
「鬱状態でなくとも見れる」
というものであった。
というのは、夕日というものが、
「ロウソクが消える前の輝き」
と言われるように、日が沈む寸前に、
「これでもか」
とばかりに、光を放っているというものであった。
その光が、目の中に、
「残像」
として残っているものであった。
その残像を残したまま、一気に火が沈み、その光の残像を地平線から望む光が、かすかな光を、まるで、
「最後の力」
というように、目に襲い掛かってくるのだった。
その時、人間は、
「目の錯覚」
というものを起こし。その光が、この世に一瞬の、
「モノクロの世界」
を見せるのだった。
その光が、どれほどの一瞬なのかというのは、
「これほど曖昧なものはない」
と言えるのではないかと思うほど、分かりにくいものはないといえるだろう。
本当に数秒の一瞬なのかも知れないし、十数分くらいのものなのかも知れない。
少なくとも、夕方を30分とすれば、モノクロの時間が十数分ということであれば、
「太陽が水平線に掛かり始めて、完全に夕日が見えなくなるまでの時間に、限りなく近いものだ」
と言っても過言ではないだろう。
それを思うと、目の前に広がっている光景がモノクロである時間帯すべてに、吐き気が感じられるのではないかと思うのだった。
そして、その吐き気を感じるその時間帯において、頭痛から始まって、吐き気を感じたその後に、今度は、視界が狭まってくるのを感じた。
その時は、まだ吐き気が残っている時間帯で、日も完全に沈んでいない。その時、感じたのは、それまで、ピタッと止まっていた風だった。
その時身体にへばりついた、
「汗の滲んだ下着に、容赦なく風が押し寄せてくるのだ」
真夏の時期であれば、
「ここちいい」
と感じるのだろうが、その感覚ではなかった。
気持ち悪さがこみあげてきて、さっきまでの吐き気が戻ってきそうな気がするくらいだったのだ。
しかし、もう吐き気はなくなっていたのだが、その時に感じたのが、
「目の前を飛んでいる蚊」
だったのだ。
最初は、一匹だったはずなのに、瞬きの瞬間に、相当な数の蚊が目の前に迫ってきているのだった。
ただ、その蚊は、自分が頭を動かし、一気に視界の端から端までを揺らしてくると、蚊だと思っていたものは、実際には存在するものではなく、
「目の奥にある何かが見せた錯覚だ」
というものであった。
そして、日が沈みかけるのを感じていると、
「ああ、飛蚊症のようなものだ」
と感じるのだった。
ただ、飛蚊症を感じた時、この頭痛からはじまった一連の感覚が終わりを告げるのだが、考えてみれば、これは、鬱状態の時だけに感じるものであった。
確かに、このような状況は、
「鬱状態の時の方が多い」
と言えるのだろうが、実際には、そうでもなかったのだった。
「鬱状態以外でもあったような気がするな」
と思うと、その時はパターンが違うことに気付いていた。
「鬱状態と時と、それ以外」
という括りの元であった。
というのは、
「順番が違う」
ということであった。
時間帯は、自分の時間帯が違っても、毎回同じであり、鬱状態以外の時というのは、
「まず最初に感じるのは、視界の錯覚であり、ここでいうところの、飛蚊症だったのだ」
その飛蚊症は、いきなり来ると、急に不安がこみあげてくる」
ということだ。
しかし、これは鬱状態の不安というわけではなく、
「納得のいく不安」
だったのだ。
その納得というのは、
「頭が痛くなることを予感させるもので、目の前の視界の悪さを必死で、拭おうとしているのが分かるからだ」
ということである。
鬱状態であれば、必死になれる気力がないのだが、飛蚊症は、
「症状の最期に襲ってくる」
ということなので、それ以上、無理をする必要もなく、実際に無理をすることもないのだった。
鬱状態において、
「他の状態の時と何が違うのか?」
というと、この夕方の頭痛の時のように、
「明らかな順番の違い」
というものを感じることもあるというものだが、実際に、大きな違いを感じるというのは、他にはあまりなかった。
ただ、鬱状態においては、明らかに不安というものが、徐々に増え続けるのを感じた。
「どんどん不安が膨れ上がっていくのに、なぜ限界を感じさせないのだろう?」
と思ったが、理屈は少し違っていた。
鬱状態には、必ず終わる時がやってきて、そこから安定期のようなものを迎えて、今度は躁状態に入るのだ。
ということで、安定期と呼ばれるところに顔を突っ込んでいくと、次第に、私の中で、
「鬱状態というのも、永遠ではない」
と思わせるのだった。
終わりがある鬱状態は、普通で2週間くらい、本当に長い時でも、3週間くらいであろうか? 特に、2週間をいつものこととして、2週間が終っても、
「あれ? まだ抜けないのか?」
と感じるものだが、この2週間というのは、自覚しているもので、逆に、
「精神的な落ち着きを感じられるようになると、2週間というものが、体内時計に見張られているように、意識がハッキリとするものだった」
と言えるであろう。
その2週間を、
「身体が憶えている」
ということで、
「潜在意識」
というものが、見せるものだということで、まるで、
「夢を見ているかのようだ」
と感じるのだった。
その夢の期間がすぎると、今度は目が覚めるまでは、感覚が曖昧になってくる。目が覚めたのを感じてはいるのだが、それが、身体に掻いた汗の気持ち悪さを、風が煽ることで、体調の良さを感じることができるというものだった。
「鬱状態の時は、この時、体調は復活するように思えた」
「鬱状態の時は、そのほとんどが、病気に覆われている」
という意識がある。
身体を必死に、通常の状態に戻すということを行っている時は、鬱状態であり、通常以上のハイな状態にさせるのが、鬱状態いがいの時だ。
ということを感じさせる。
「どうして、鬱状態の時は、それ以上をしようとしないのか?」
というのは当たり前のことで、自分でも、
「それ以上はできない」
という限界というものを知っているからだった。
この自己認識というものが大切であり、
「分かっているから、たいそうなことにならないのだ」
と思えてのだった。
そういう意味で、
「偏頭痛というものは、今に始まったものではなく、ずっと仲よく付き合ってきて、これからも付き合っていくものだ」
ということは覚悟していた。
だが、鬱状態の時は、その覚悟を忘れてしまっているのか、不安が、どうしても覚悟を思い出させない要因になっているのか、それを考えると、
「偏頭痛のパターンの違い」
というのが当たり前のことだと感じるのであった。
普段の偏頭痛は、ハッキリと分かっていて、
「まずは、飛蚊症から始まり、その状態が抜けてくると、今度は頭痛を感じるようになる。それと同時に吐き気をもよおし、吐き気と頭痛が一緒に襲ってくるというのは、結構きついものだということを、思い知らせる」
ということだったのだ。
ただ、
「いつも絶対」
というわけではないが、ほぼほぼ、
「偏頭痛が起こるのは、夕方の、それも、夕凪を挟むことで、タイミングよく、症状が変わっている」
と考えられていた。
鬱状態において、普段との違いはかなりあるのだが、この状態においても、一番の違いは、偏頭痛の症状のパターンではないだろうか?
「精神的な状況を、身体の変調が敏感に感じ取る」
というのが、この時のパターンなのかも知れない。
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