第2話 もう一人の自分
白石氏は、
「何かいつも難しいことを考えている」
という意識があった。
小学生の頃などは、絶えず数字が飛び交っていた。
それは、数学ではなく、算数だった。
これは、高校生になっても変わらず、
「整数による単純計算だ」
と言ってもいいだろう。
算数の中にある、
「○○算」
というものがあるが、それは、中学に入ってから習う数式に代入すればいいということだが、そういう意味で、
「何算を使ったとしても、その答えが一つにまとまってしまう」
ということを、数学が証明できるのだが、白石氏は納得がいかない。
小学生における文章題では、解き方を説明されるわけではなく、むしろ答えを導き出すための解き方が問題なのだ。
「的を得ていなければ、答えが正解であっても、それは、偶然に出てきた答えであり、あてずっぽうで答えたのではないかと思われることを避けるためだろう」
それは、数学にも言えることなのだが、やたらと、代数で答えるのが、模範解答と言えるものなのだろうか、と考えるのだった。
「そういえば、俺は小学生の頃から、本当に絶えず何かを考えている」
というような少年だった。
「少年というのは、いくつまでをいうのか?」
ということを考えてみた。
実際の定義は分からないが、
「小学生の間くらいまでかな?」
と感じたが、それよりも、
「思春期を挟んで、思春期になるまでを、少年期と呼ぶのではないか?」
と思うと、辻褄が合っているような気がする。
「では、思春期の間は、少年期なのか? それとも青年期なのか?」
ということになると、意見が別れそうな気がする。
白石氏とすれば、
「少年期に近いのではないだろうか?」
と考える。
その理由は、
「あくまでも、期というものに当てはめるわけではなく、曖昧なところで考えるということで、その理由も曖昧になる」
と、あくまでも、曖昧さがその理由ということになり、曖昧さを求めるということになるのだという認識で考えられたりする。
その時、曖昧さをどうしても許せない自分がいると、
「絶えずいろいろ考えている自分というものが、その正当性を証明しているかのようではないか?」
ということであった。
そんな思春期において、一番曖昧にしたいのが、
「性的感情だ」
と言えるのではないだろうか?
「好奇心の塊」
と言ってもいい、性的感情は、人間の三大欲と呼ばれるものの一つである、
「性欲」
というものが、目を覚ます時期だといえるだろう。
ただ、その性欲というのはタブーであり、なぜそれがタブーと言われるのか分からないが、旧約聖書のしょっぱなに出てくる、
「アダムとイブ」
の話でも、
「禁断の果実をかじることで、恥じらいを覚えた」
ということになっているではないか?
そう、ここでいう、
「恥じらい」
というものこそ、
「人類の最大のテーマ」
である。
「生命の誕生と消滅」
に密接に欠かせないものである。
「種の保存」
というものには、絶対に不可欠で、避けては通れないという問題提起であった。
しかし、それらが、血で血を争う、悪夢のような骨肉を争いであり。どれだけ生々しいものであると思えば、
「性教育とモラルの問題」
として、ちゃんと受け継いでいく考えであることを示す必要がある。
受け継ぐためには、前述の相反すると言われる二つの問題は、
「性というものに真摯にいかに向き合うのか?」
ということである。
性教育は必要なのだが、ただでさえ、
「教育委員会」
がうるさかったり、理鬱に合わない場面もあったりして、
「性欲と一線を画す必要がある」
と言ってもいいだろう。
自分にとっての性教育というのは、どういうものなのかということを考えてみると、あからさまに、拒否できるものではないといえるだろう。
受け入れられるものは受け入れて、それ以外をどうすればいいのか、考えなければいけないということになるのではないだろうか?
何を一生懸命に難しく考える必要があるのか?
ということを考えてみると、
「頭の回転が鈍い時は、何をやっても、悪い方に深入りするだけで、余計なことは考えなくてもいい」
と考えられることだろう。
頭の回転というと、
「結構早いのではないか?」
と思われるのだが、どうしても、無理に一つにまとめてしまおうとすると、ロクなことにはならない。
速さに関してもそうなのだが、逆に、一気に考えさせられることがあるとするならば、その時に邪魔になるのが、
「時系列」
というものであろう。
夢というのも、
「目が覚める寸前に見る」
というではないか。
当然、時系列などはあってないようなもので、時系列を意識しないえ、別の発想が生まれてくることから、
「寸前のさらに、数秒だ」
というのも理屈には合う。
だから、目が覚める時に忘れていくからだ。そうしておいて、分かってもいないくせに、理屈があたかも分かっているかのように言われると、
「時系列を犠牲にして、それ以外の辻褄を合せようとすると、やはり、このような、辻褄合わせという発想は生まれてこないだろう」
と言えるのではないだろうか?
夢の内容を、目が覚めるにしたがって忘れるのは、
「思い出してはいけない」
ということであり、
「思い出さなければいけないのであれば、時系列は無視する」
という、堂々巡りを繰り返さないようにしないといけないからだろうか?
実際に夢の範囲が広ければ広いほど、曖昧な意識が生まれてくるのだ。
そのことを考えると、
「夢を見るというのは、ある程度決まった範囲があるのであって、その範囲外で見た夢というのは、信憑性がない」
といってもいいのではないだろうか?
思い出せない夢を思い出そうとするのも、
「絶えず何かを考えている中にあるものではないだろうか?」
記憶と意識というものの違いや、時系列が絡んだ、立体的な考え方というのは、
「四次元を彷彿させる何かを考えさせるのではないだろうか?」
白石氏のように、
「ものを作ることが、自分にとっての考えること」
と思うようになると、頭の中の創造は、
「絶えず考えることを代表しているかのようである」
と考えてもいいだろう。
「夢に対しての考え方」
あるいは、
「四次元という、違う次元の発想」
それらは、一般的に言われている考えと、若干違ったところで考えられるという意味で、
「異次元と夢の世界を、イコールとしてはいけないのだろうが、限りなく近い存在だといってもいいに違いない」
すぐ横に存在していても確認することができない。
この思いは、
「暗黒星」
ということで理屈づけられることがある。
暗黒の世界に、光ることを決して自分から発しようとしない星で、それは、
「太陽のように、自ら光を発するわけではなければ、地球のように、太陽の光を浴びて、光る」
というものではなかった。
「光というものを吸収し、決して光を発しない、その星は、保護色となって、そこにいるということになる」
と考える。
それだけに恐ろしい星で、
「邪悪な星」
と言えるだろう。
そんな、
「暗黒の星」
というのは、恐ろしいもので、そばにいても、誰も気付かない。
その人物が、悪魔のような人物であり、通り魔のようなものであれば、本当に恐ろしいというものだ。
「ジキルとハイド」
における、
「ハイド氏」
は、まさしくそんな存在なのだ。
ジキル博士も、実際に呼びだしてみなければ、どんな人間なのかということはわかるはずもない。
それを思うと、記憶喪失というのは、
「自分の中にいるハイド氏が表に出てきて、何らかの行動をしたことが、まるで自分のことのように思えて、しかし、それが実は違ったという感覚から、記憶が飛んだと思うのかも知れない」
と思う。
それこそ、
「覚えていない夢」
のようではないか?
白石氏は、自分が記憶喪失だったとしても、健忘症であったとしても、どちらも辛いと思っていた。
ただ、記憶喪失だというのが、
「勘違いではないか?」
と思っていることから考えると、
「健忘症の方が、本来なら、もっと年を取ってから罹るものだと考えると、若くしてなったのであれば、それはそれで怖いことだ。記憶喪失であれば、夢に見たものを覚えていないだけということもあり、そこまで気にすることもないに違いない」
そんなことを考えていると、夢の中に出てきたであろう。自分にとってのハイド氏は、恐ろしい存在になっていると思うと、怖くなるのだ」
ただ、
「ジキルとハイド」
におけるハイド氏は、完全に、ジキル博士と正反対の性格だった。
だからこそ、
「悪魔のような男」
が生まれたわけで、それだけ、ジキル博士が、聖人君子のようだったと言ってもいいだろう。
そういう意味で、果たして、白石氏はどういう人間なのか?
「正義か悪か?」
それとも、
「そのどちらともいえない存在なのだろうか?」
さらに、あくまでも、フィクションとしての、
「ジキルとハイド」
本当に、一人の人間の中に、別人格が共存していたとして、本当に正反対の性格だといえるかどうかも疑問だ。
「正反対の性格というものが存在する時だけ、自分の中のもう一つの性格が分からないのではないだろうか? 少しでも共感できる性格であれば、通じ合うものがあるだろうから、存在に気付くはずだ」
ということを考えると、
「正反対の性格意外の人間は、同一次元に、存在できない」
ということになるのだろう。
特に、自覚ができないことで、人がもう一人の自分を悟るためのオーラを感知できないのだろうと思うからだった。
自覚できないことで。ハイド氏がいるとすれば、意識できるとすれば、夢の中でしかないに違いない。
というものである。
白石氏は、ハイド氏のような、
「もう一人の自分」
という存在を意識しないようにしようとしても、無視することができなくなった。
最近、
「もう一人の自分の存在を感じる」
と思うようになったからで、その分、簡単に、物事を考えられなくなっていたのだ。
「もう一人の自分」
というと、
「ドッペルゲンガー」
というものの存在を避けて通ることはできないだろう。
「もう一人の自分が、同じ時間、同じ空間に存在している」
ということだ。
だから、もちろん、同じ次元ということである。
しかし、誰も自分の姿を、鏡などの媒体を通さないと見ることができないのと同じことである。
ただ、気になるのは、ドッペルゲンガーというのが、
「本当に自分の分身のようなものなのか?」
それとも、
「ただ見ているだけの別人なのか?」
というのを考えることにする。
ドッペルゲンガーは、
「見た人は、近い将来に死ぬと言われている」
ということも、恐怖を煽る一つの原因である。
いろいろな理由が考えられているが、一つには、
「タイムパラドックスを許さない」
ということから、
「同一次元、同一時間に、同じ人間が存在しえない」
ということを証明するために、
「本人を抹殺しようとする」
ということである。
これは、ドッペルゲンガーの存在を知ってしまったということもその理由なのかも知れない。
「知られてはいけない」
あるいは、
「見てはいけない」
というものを見た場合に、
「ロクなことはない」
というのは、世の常だといえるのではないだろうか?
聖書における、
「ソドムの村」
の話も、
「後ろを振り向いてはいけない」
と言われていたのに、振り向いてしまったことで、砂になってしまった奥さんだっていたではないか。
また、ギリシャ神話でも、
「開けてはいけない」
という箱を開けて、不幸がどっと飛び出したという、
「パンドラの匣の話」
似たような話で、日本でも、
「開けてはいけないという箱を開けたことで、お爺さんになったという、浦島太郎の話もある」
ただ、浦島太郎は、本来はそこで終わりではなく、ハッピーエンドになるようなお話だった。それでも、明治におとぎ話を教科書に乗せる時、この、
「見るなのタブー」
を、重要視するように、最後を、玉手箱を開けることで、お爺さんになったということでのラストになり、中途半端なラストにしたのだった。
そういう意味で、ドッペルゲンガーというのも、同じような。
「見るなのタブー」
という同じ考えであれば、
「自分の姿を普通では見ることができない」
という考えに同調するものだといえるのではないだろうか?
そんなことを考えると、
「記憶喪失」
になるというのも、ひょっとすると、
「夢の中で見ていて、それを完全に忘れるために、目が覚める前に一度記憶をよみがえらせて、それを、完全に打ち消すために、一度表に出すという考えなのかも知れない」
と言えるのではないだろうか。
「一度思い出して、そして、完全に記憶を抹殺する」
というのは、どこかのSF小説で読んだような気がした。
「記憶が中途半端に残っているからこそ、夢のように、覚えているものもある」
ということである。
そして、その記憶が夢の中では、
「怖い夢」
というものが多い。
その中で、
「どんな夢が一番怖かったのか?」
というと、それは、
「もう一人の自分が出てきた時」
という意識であった。
それは、子供の頃から意識としてはあった。だから、その頃に、
「ドッペルゲンガー」
などという話を聴いたことはなかったのだ。
いつの頃にか、
「ドッペルゲンガー」
というものの話を聴き、知らない人に教えてあげようと、得意になっていると、
「実際に、知らない人は、ほとんどいなかった」
ということだったのだ。
皆が、ドッペルゲンガーという言葉をどこで聞いたのか分からない。
白石氏は、小説で読んだのだったが、ほとんどは、マンガやアニメの方だろう。
だが、どこまで知っているのかということも、人によってまちまちだろうが、基本的に、
「もう一人の自分」
ということと、
「近い将来に死ぬ」
ということくらいではないだろうか?
どうして死ぬのかということは、いろいろ言われている。
「そもそも、精神疾患を患っている状態であれば、幻覚が見えても仕方がない」
という発想であったり、前述のように。
「タイムパラドックスを起こしてしまったことで、どちらかがこの世から抹殺される」
という
「見えない力が働いている」
ということであろう。
さらには、
「ドッペルゲンガーを見る人には、特別な力が働いていて、死ぬことで、その力が神に召される」
というようなものであったりと、さまざまである。
また、ドッペルゲンガーには、特徴があるという。
たとえば、
「ドッペルゲンガーは、本人の行動範囲意外には現れない」
というもので、要するに、
「海外旅行をしたことがない人の、ドッペルゲンガーを外国で見たとすれば、それは、ただよく似た人というだけで、ドッペルゲンガーっではない」
さらに、
「ドッペルゲンガーは口を利かない」
ということで、完全に、夢幻の類に見えるのではないだろうか?
一人の人間が、
「記憶の一部を失っている」
と考えられるのは、
「世の中において、記憶だけが、ドッペルゲンガーを証明できるものだ」
という意識と、
「証明することで、自分がこの世から抹殺されてしまうのが怖い」
という考えとが、重なって、
「記憶を消すことで、自分の中で、ドッペルゲンガーを抹殺させたいという考えを持っているのかも知れない」
ということは、
「記憶というのが、もう一人の自分を証明しているのかも知れない」
という思いと、もう一つ気になるのが、
「ドッペルゲンガーというのは、すべての人にいるものなのだろうか?」
という考えであった。
もし、すべての人に言えることであれば、ドッペルゲンガーに遭わないということは、奇跡に近いことではないかと思えるのだ。
ただ、うまく隠れるようにできているのであれば、その限りではない。
「ひょっとすると、それが、自分の姿を見るということで、ひょっとすると、鏡などの媒体に写っている自分が、本当はドッペルゲンガーなどではないか?」
と言えるのではないだろうか?
そう考えると、ドッペルゲンガーは、姿形は、まったく本人と同じなのだから、
「ジキルとハイド」
には当てはまらないだろう。
あくまでも、同一人物の中に潜む、別人格であり、ハッキリいうと、
「別人」
ということになるのだ。
では、ドッペルゲンガーはどうなのだろう?
姿かたちはまったく同じものであるとしても、性格なども同じなのだろうか?
そもそも、人間のように感情を持っていたりはしないのだろう。
「姿かたちが同じものだから、性格が存在しない」
ということであると、ドッペルゲンガーは、存在しないものであり。幻ということになる。
というよりも、
「幻でしかない」
ということで、厳密には、
「もう一人の自分ではなく、実体のないものだ」
と言えるのではないだろうか?
それを考えると、
「本人とドッペルゲンガー」
「本人と別人格の自分」
それぞれに違いがあるということであれば、
「もう一つの人格は、性格を表に出すための、幻を形成しているのかも知れない」
と言えるだろう。
それは蜃気楼のようだと思えば、
「その瞬間、もう一つの人格に、自分の身体を乗っ取られてしまっている」
と考えると、
「元々の自分は気づかないように、眠らされている」
と思うと、
「夢の世界というのは、実は、もう一つの性格の自分が、表に出て行動するための、秘密基地のようなものだ」
と言えるのではないだろうか?
秘密基地というと、子供の発想のように思えるが、そもそも、夢の中で幻を見るというのも、子供の発想に似ているのではないだろうか?
そんなことを考えていると、もう一つ疑問に感じるのは、
「ジキルとハイド」
のように、本人がジキル博士だとすると、ハイド氏を持っている人がどれだけいるということであろうか?
「皆、持っている」
という考え。
「ハイド氏という考えは、あくまでもフィクションであり、実際にはありえないことではないか?」
という考え。
さらには、
「皆必ず、もう一人の自分を持っていて、それは、ドッペルゲンガーなのか、ハイド氏なのかのどちらかではないだろうか?」
という考えである。
ただ、ひょっとすると、
「ドッペルゲンガー」
であったり、
「ハイド氏」
以外にも、別の、
「もう一人の自分がいて、第三のもう一人の自分として君臨しているのかも知れない」
ということで、こちらも一定数いるという考えもできるだろう。
そんなことを考えていると、
「もう一人の自分」
という考え方が、いくつかの形で表れていることを示しているようだった。
そんな難しい発想が頭の中を巡るようになったのも、実際にこのあたりのことを絶えず気にしているからなのか、
「意識には継続性がある」
ということであり、その継続性が、ある程度までくると、それが記憶に変わっていくのかも知れない。
さらに、その中に、もう一つ気になるものがあった。
それが、
「躁鬱症」
というものである。
「躁状態と鬱状態とが、交互にやってくる躁鬱症」
というものは、
「ジキルとハイド」
の考え方に似ているが、微妙に違っているということではないだろうか?
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