二重人格の正体

森本 晃次

第1話 ジキルとハイド

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年3月時点のものです。いつものことですが、似たような事件があっても、それはあくまでも、フィクションでしかありません、ただ、フィクションに対しての意見は、国民の総意に近いと思っています。


 昔の小説で、

「ジキルとハイド」

 というものがあった。

 これは、一人の人間の中で、二人の人格が存在していて、夜になると、

「悪の性格を持ったハイド氏が、夜な夜な出没し、悪さをする」

 というものであった。

 元々、主人公のジキル博士が、確か、自分で作った薬品を呑むことで、自分の中にある積極的な性格を呼びだすというような話ではなかったか?

 やってみると、それが、実は、

「怪物だった」

 というような、一種の、

「フランケンシュタイン症候群」

 と呼ばれるものではないだろうか?

 フランケンシュタインというお話も、元々、

「一人の理想の人間をつくろうとして、実際には怪物を作ってしまった」

 というお話だったはず。

 その話をモチーフにしてか、昔のアニメで、

「博士が、人間のために、ロボット、いわゆる、本当は意思を持たずに、ただ人間の言うことだけを聞くという機会の塊を作ったはずなのに、高圧電流を流した時に、ロボットが意思を持つということになってしまったことで、ロボットが暴走する」

 というお話だった。

 元々、ロボットに、モラルのようなものが組み込まれているわけではない。何しろ、最初からロボットに、電子頭脳のようなものを組み込むというようなことはしていなかったのだ。

 だから、ロボットが意思を持ったことで、ロボットは、

「なぜ、体力的にも頭脳も優れている我々が、人間ごときに、支配されなければいけないのだ?」

 ということを考えたのだ。

 そうなると、ロボットは自分たちの頭脳と科学力で、仲間のロボットを大量生産し、人間を支配しるための、

「帝国」

 を築くことになるのだった。

 最初にロボット開発を行った博士は、責任を感じ、自分の息子を、強靭な肉体を持った、

「サイボーグ」

 として、作り替えたのだ。

 身体は確かに強靭であるが、脳に関しては、人間の脳がそのまま入っているのだから、当然のことながら、

「人間の味方」

 というわけである。

 しかし、ロボット軍団も、

「意思を持ってしまったことで、強大な帝国を作り上げた」

 ということであるが、

「なぜ、定刻なのか?」

 というのは、彼らなりの考え方なのだろう。

 そもそも、ロボットは、従順に作られている。

 何かに支配されるということは、ロボットの習性として、組み込まれている。そして、ロボットには、人間の考えるような、

「死」

 という概念がない。

 だから、死んでしまったとしても、

「志半ば」

 ということはないのだ。

 もっとも、最初に帝国を造り、

「皇帝」

 として君臨しているロボットは、

「高圧電流を受けることで、一種の、突然変異を起こしたロボットだ」

 と言えるだろう。

 だから、カリスマ性や、

「君臨できるだけの才能」

 というものを持った、

「唯一のロボットだ」

 と言えるだろう。

 今まで、人間にこき使われてきて、人間のためだけに尽くすということが、ロボットの一生だったものが、急に、

「それは違うのだ」

 ということに気付けば、

「人間を奴隷にして、自分たちのロボット帝国を作り上げる」

 ということは、容易ではないかと考えたのだ。

 実際に、ロボット帝国はどんどん、支配の村を広げていって、まもなく、一つの国を占領するくらいになっていたのだった。

 ハッキリとした時代背景は分からなかったが、今から、100年くらい前の時代が舞台ではなかったか。

 当然、時代背景として、

「ロボット工学三原則」

 なるものがあったわけではない。

 ただ、この物語の中の人が存在した時代には、

「ロボット工学三原則」

 というものが存在し、この物語も、それに準ずるものだといってもいいのではないだろうか?

 そんなロボットもののモチーフとして存在する、

「ロボット工学三原則」

 というものは、ある小説家によって提唱されたものだった。

 今でも、その論理はロボット開発の研究には欠かせない骨格であり、実際に、大学教授などの研究材料として君臨しているのであった。

 そもそもこの三原則は、ロボットの中の人工知能の中に、

「基本原則」

 として組み込まれるものであった。

 それは、

「フランケンシュタイン症候群」

 と呼ばれる、

「ロボットが誤作動などを起こして、意思を持ったりすれば、自分たちの立場に疑問を抱き、人間を征服する帝国を作るのではないか?」

 などという発想から、3つの原則を持つこととしたのだ。

 一つ目が、

「ロボットは人間を傷つけてはいけない。さらに、人間が危機に陥った場合は、ロボットは、自分の身を顧みず人間を助けなければいけない」

 というもの。

 二つ目は、

「ロボットは人間の命令には服従しなければならない」

 というもの。

 そして三つ目は、

「ロボットは自分の身は自分で守らなければならない」

 という三原則であった。

 ここで問題なのは、

「優先順位が存在する」

 ということである。

 一つ目が一番の最優先で、二つ目三つ目ということで、その優先順位が低くなってくる。

 つまりは、

「いくらロボットは、人間の命令に服従しなければならないとはいえ、人殺しの命令などは聞いてはいけない」

 というもの。

 さらに、

「ロボットは、いくら自分の身は自分で守らなければいけないといっても、目の前で危なくなっている人間を見て見ぬふりはできない」

 ということになる。

 つまり、優先順位を間違えると、人間が損をすることになる。あくまでも、ロボットというものは、

「人間のためだけに存在しているものなのだ」

 という考えであった。

 三つ目の、

「自分の命は自分で守らなければいけない」

 ということであっても、これは、

「ロボットに対しての、敬意からではない」

 というのも、

「ロボット開発にも、多額の金が掛かるので、敵であったり、ライバルから、ロボットに対しての命令として、自分を壊すように命令したとして、それをいちいち聞いていては、開発したところは大損をするではないか」

 ということである。

 そうなると、第二の条項の、

「人間の命令」

 であるが、すべての人間ということはありえない。

 ということは、

「どこまでの人間の命令を聞くのか?」

 ということが問題になる。

 このあたりも、人工知能の持つ限界への挑戦ということになるのかも知れない。

 ロボット工学三原則の優先順位も、その中には矛盾も含まれていて、完全なものではない。

「ひょっとすると、三原則ではなく、四原則、五原則と必要なのかも知れない」

 と言えるだろう。

 しかし、そうは言っても、増やしすぎるとその解釈のパターンが無限に増えてしまい、収拾がつかなくなってしまうことであろう。

 そんな話をひっくるめた中で、

「ロボット工学三原則」

 と含めたところでの、

「ジキルとハイド」

 の物語は、さらにいろいろな側面を持っているといってもいいだろう。

 たとえば、

「二重人格」

 という問題である。

 そもそも、この話は、

「主人公の中に別人格が潜んでいるのを、博士が分かり、自分の表に出ている性格とは違う性格であるということも考えた上で、もう一人の自分を引き出すための薬を開発し、それによって、自分の性格を知ろう」

 ということだったはずだが、実際に潜んでいた人格は、殺人鬼のような悪魔だったのだ。

 これも、フランケンシュタイン症候群のように、

「まさか、こんな悪魔が潜んでいようとは?」

 ということになるのだろうが、そんな悪魔のような性格が表に出てきたことで、いかにすればいいかを考える。

 もう一人の自分を抹殺すると、自分まで死んでしまうことになる。

 さすがに、そこには、戸惑いがある。

 もし、裏の自分だけが生き残って、表の自分だけが死んでしまえば、それこそ、本末転倒だといってもいいのではないだろうか?

 そんなことを考えていると、

「私は、一体どうすればいいのか?」

 と悩むことになる。

 確かに、おかしな薬を作って、悪魔を作り出したのは自分だ。結果、自分の親友に、ありのままを打ち明けて、自分を殺してもらうように話をしたのだったか。それとも、博士が自殺をすることで、葬り去ろうとしたのだろうか?

 どっちでも、なかったような気がする。

 人に任せて、悪魔の相手をさせるというのも、難しいだろうし、逆に自殺をしても、自分だけが死んで、悪魔が生き残らないとも限らない。それは恐ろしいことだった。

 結末は忘れてしまったが。少なくとも、この二つに関しては、選択肢としては、

「選ばれないに違いない」

 と言えるだろう。

 そんな状況であったが、問題は、

「二重人格」

 というものが、どういう性格のものなのか?

 ということであった。

「片方が表に出ている時は。片方は裏に隠れている」

 というものだと考えると、

「自分本人は、絶対にその両方を知ることは不可能だ」

 ということであろう。

 もし、知ることができれば、人が気づく前に、

「もう一人の自分」

 というものを、そもそも分かっているはずだからである。

 まったくその存在すら分かるわけでもない。まるで、

「自分が自分の姿を見るのに、鏡のような媒体がなければ、見ることができないのではないか?」

 ということと同じではないだろうか。

 そんなことを考えていると、自分が気づかないだけで、二重人格というものは、

「皆の中に潜んでいる」

 ということであり、永遠に表に出てこない人もいれば、時々入れ替わっているという人もいるということだろう。

 それを思うと、

「二重人格を掴むというのは、自分ではできないことなのではないだろうか?」

 ということになるのだろう。

 二重だけでなく、複数ある、

「多重人格」

 は、いかに説明すればいいのだろうか?

 最近になって、白石氏は、

「自分が記憶喪失なのではないか?」

 と感じるようになった。

 ひょっとすると、

「健忘症」

 ではないのか?

 と考えたが、確かに年齢的には健忘症の方が考えられることだが、何かが違う気がした。

 一瞬、

「何かを忘れる」

 あるいは、

「思い出そうとしたことが何だったのか、それが一瞬にして分からなくなる」

 などといった症状ではなく、

「ぽっかりと、記憶の中で、元々あったはずのものがなくなってしまった」

 という感覚があるということである。

 つまりは、

「記憶を意識の中に持ってきて、それを再生させることができないわけではなく、元々あったはずの記憶が飛んでいるという意識である」

 ということだ。

 だから、その記憶がどんなものなのかということも、今のところ、想像もできないということであった。

 だが、まったく想像できないわけではない。そもそも、ポッカリと、記憶が消えているという認識を持ったということは、最初から、

「意識があった」

 と考える方が、自然ではないだろうか?

 最近になって、白石は、会社の同僚や後輩から、

「白石さんは、少し雰囲気が変わりましたね」

 と言われることがあった。

 というのも、

「白石さんは、最初、人当たりがあまりよくなかったのに、最近、出会う人には人当たりがよくなって、まるで、壁が取れた気がするんですよ」

 というではないか。

「俺って、そんなに最初、人当たりが悪かったのかな?」

 と聞くと、

「そうですね。いつも難しそうな顔をして、話しかけても、ブスっとしたような表情だったんですよ。実際に、難しいことを考えていたんじゃないですか?」

 と言われて、

「ああ、言われてみれば、そんな気もするな」

 と答えてはいたが、正直、その記憶がないのだ。

 そうやって過去のことを思い返そうとすると、不思議なことに、そのどれもが曖昧で。

「何が、どう繋がってくるのだろう?」

 と記憶の中が、混乱していた。

 記憶が繋がらないと、そもそも記憶がそこにあるのかということが疑問に思えてくる。一つの曖昧な記憶から、勝手に夢を創造しているかのように思えるのだ。

「記憶の創造」

 などということは、理屈からいけばおかしなもので、

「創造するというのは、そもそも記憶ではないだろう」

 というものだ。

 できあがったものを記憶として格納する。創造のプロセスも、記憶ともなると、

「創造ではない」

 と言えるのではないだろうか?

 記憶が繋がらないのは、

「何か思いだそうというものがあって、あらためて思い出そうとすると、何について思い出そうとしたのか、根本のところで分からなくなるのは、記憶喪失というもののゆえんではないだろうか?」

 ということであった。

 人当たりというものが、自分の中で、どこまで悪かったということを覚えているかというと、正直意識としてはあるのだが、それが記憶から出てきたものだとは思えない。

 だから、逆に、

「記憶というほど古いものではなく、比較的新しい意識が、記憶と混乱しているのではないか?」

 と思えることだった。

「ごく最近の記憶?」

 ということを考えると、ふと、思い立つのが、

「夢」

 という認識である。

「夢というのは、潜在意識が見せるものだ」

 ということであれば、この意識は古いものであって、新しいものであっても、普通にありえることだ。

 ということは、

「潜在意識という漠然としたものは、普通に意識できているものはもちろん、元々記憶という古いものを、一度意識の世界に持っていき、そこで、解凍させることで、潜在意識と融合させることで、夢として見ることができる」

 というものではないかと思っているのだった。

 その考えというのが、本当のことなのかどうかはわからないが、

「意識と記憶の間には、ワンクッション存在するものがあり、うまく解凍することができれば、夢として、潜在意識が見せてくれるのだろう」

 ということであった。

 記憶に一度格納されれば、記憶はそのままでは、再生できない。一度意識に解凍する必要がある。

 潜在意識への解凍はあくまでも、

「夢に見るためのもの」

 であり、

「夢の中において、最後まで、これは夢なんだという意識が持てなかったら、それは、記憶から来たものではないか?」

 と感じるのだった。

 夢の中で、時系列が曖昧だったり、思い出すその時が、自分のいつ頃に相当しているのかということを曖昧にするのだ。

 だから、夢の中では敢えて、

「時系列がバラバラだったりするのである」

 事実関係は、時系列に沿っているのが当たり前である。

 その夢の中で、時系列が狂っていたりすると、それは、

「意識の中の強さ」

 だといえるのではないか。

 印象深い夢を見る場合、思い出した記憶が時系列だということはないと認識しているのだが、

「いざ違う」

 という認識になれば、記憶というものが、その領域において、

「決して、記憶の中は、時系列で成り立っているというものではない」

 ということになるのだろう。

 というのは、

「夢に見る順番が決して同じだと言えない」

 ということであり、

「もっと言えば、夢で展開されるものは、なるべく、こじんまりとさせようとするのか、その感覚から、敢えて、時系列でないと思えるのではないか?」

 と考えるのであった。

 自分が、

「記憶喪失なのではないか?」

 と思ったのは、

「夢の中で、そんな矛盾の入り込んだ、時系列のずれというものがなく、実にきれいすぎる記憶しか残っていない」

 と思ったからだ。

 それは、

「忘れてしまった」

 というわけではなく、

「失くしてしまった」

 ということなのだろう。

 だから、

「健忘症ではなく、記憶喪失」

 という感覚が強いのだろう。

 記憶喪失というものをいろいろ考えてみると、テレビなどでよく言われるように、

「思い出すことは、いつ思い出すかということをまったく想像させないもので、次の瞬間に思い出すかも知れないし、明日かも知れない。あるいは、10年後かも知れない」

 と、先生はいう。

「だから、無理して思い出そうとせずに、無理なく思い出すことを心掛けることですね」

 と言われる。

 なるほど、テレビドラマなどで、記憶喪失の人が思い出そうとする時、頭を抱えて、痛がっている姿が、印象的ではないだろうか?

 つまりは、

「思い出そうとするのを見ると、確かに、頭を抱えて苦しそうで、まわりの人が、必死に抱きかかえているところを、警察は、容赦なく、質問してくる。下手をすれば、医者が溜まりかねて止めに入るシーンを見たりするだろう」

 その時医者は、

「やめてください。これ以上患者を刺激するのは危険です」

 と言って刑事を制する。

 その時一緒に、

「これ以上刺激して、二度と思い出せなくなってもいいんですか?」

 と言えば、さすがに刑事も焦って思い出させようとはしないだろう。

「肝心の記憶がなかったら、裁判の時などの証拠にはならない」

 と思えたりすると、強くはいえないのだ。

 記憶を思い出すためには、余裕のある精神状態でなければいけない。痛がっている頭をさらに刺激することは、人間の中に、苦痛というトラウマを抱かせてしまうということで、どうしようもなくなってしまうのではないだろうか?

 白石氏も、自分の記憶の中で、どの部分がいきなり思い出せなくなったのか。そのあたりが分からない。

 それは、今に始まったことではなく、以前から、その意識があったに違いない。

 白石氏は、なくなった記憶が、何らかの力によって、

「失われてしまった」

 ということではないような記憶だった。

 そんな、

「記憶と意識の関係」

 というものが、どこで繋がってくるのか?

 ということを、考えさせられるのだった。


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