第38話

>ヒーコ、遅くなってごめん。今、昇降口にいる。


 フィルグラにダイレクトメッセージが入る。わたしは走って校舎の昇降口に向かう。

 下駄箱の前に人影が見えた。わたしは正面玄関から入り、声をかける。

谷川たにかわくん」

 驚いたように振り向くその人。

「びっくりした。廊下からやって来ると思っていたんだ」

 はにかむ笑顔。頭をかく谷川くんは、淡い紫のポロシャツ、白いチノ。

 そんな私服のいでたちを見て、一瞬でフィルグラに投稿された写真と彼がリンクした。そうか、谷川くんだったのか。それは、なんだか納得しちゃうな。谷川くん、目立つタイプではないけれど、とても清潔感がある。

「驚かせてごめん」

「ヒーコ、写真を撮ってくれるって?」

「うん。いいかな?」

「もちろん」

「よろしくお願いします」

 わたしは深くお辞儀をする。走ってきたせいで心臓がばくばくしている。

 下駄箱の前で撮影なんて変かな、でも移動する場所も思いつかないし。

「谷川くんておしゃれだね。フィルグラを見て分かってたけど」

 照れたように笑う谷川くん。その表情をカメラに収めるわたし。すると、どこからともなくひらひらと舞うものが現れる。黄色いアゲハチョウ。いったりきたりするうちに、それは谷川くんの肩にとまる。わたしはそのチャンスを逃すまいとひたすらシャッターを切る。20枚くらい撮影したところで、突然エラー音がしてシャッターが切れなくなる。画面には『メモリーカードがいっぱいです』の文字。それに気づいたようにアゲハチョウはゆっくりと羽ばたき、どこかへ飛んでいってしまった。

「谷川くん、ありがとう」

「あのメッセージが僕だって分かってた?」

 わたしは首を振る。

「エミリーとのやりとりを見ていたのだったらクラスメイトだとは思った。

 ねえ、谷川くん、平気なの。あなたも、」

「うん。僕も死んだりしないさ」

 わたしの目から、ついに涙がこぼれる。ああ、ダメだ。撮影の間はずっと我慢していたのに。止めようとしてもどうしても止まらない。

 そんなわたしに差し出されるハンカチ。わたしははっとして谷川くんを見る。どこまでもおしゃれじゃん、そんな軽口もたたけず、ハンカチを受け取り、涙をぬぐうわたし。谷川くんは笑顔でうなずいている。この時間と空間に息を詰まらせそうで苦し紛れに問いかける。

「ねえ、なんで、ハンドルネームがdeerなの」

 谷川くんは、えっ、という顔をしたあとで、少し恥ずかしそうにして言う。

「『しかが谷川を慕いあえぐように』という詩があってね。それが好きだから」

 詩が好きだなんて、なんてロマンチックなんだ。わたしはそのまま伝える。

「ロマンチックだね」

 谷川くんは頭をかいて笑っている。

「わたし、もうゆかなくちゃ。ハンカチ、洗って返すね」

 谷川くんは、何かを言おうとして言葉を飲み込む。そのあと、取り直して言う。

「うん。学校が始まってからでいいよ。あ、そうだ、傘を持って帰るのを忘れていたんだった。ちょうどよかった」

 谷川くんが傘立てから抜き出したのは、色とりどりのストライプが走る雨傘。やっぱおしゃれじゃん。ちょっとアイアイ傘を想像したわたしはバカだ。火照る頬を見せないように、

「ありがと。バイバイ」

 逃げるように上履きを履いて、階段を駆けあがった。

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