第22話

 お父さんの運転する車でマダムのお屋敷に向かう。いつもゆっくりと見えてくるお屋敷がぐんぐんとフロントガラスに現れて、それはただの風景になる。

 梅雨の晴れ間の夕方は明るく長い。否応なく、あの時のクロアゲハの群れとヒスイ色のドレスのマダムを思い出してしまう。

 車を路上に止め、開いている門をくぐり抜け、玄関に入る。お父さんはお屋敷の大きさに驚いている。

 呼び鈴を鳴らす。ドアの向こうにチャイムが鳴る。はじめてその音を聞いた。いつも文月が大きな声でマダムを呼んでいたことを思い出す。

「遅い時間にすみません。高階です」

「これは、わざわざすみません」

 インターフォンから声がし、すぐにドアが開けられた。マダムの娘さんが顔を出す。

「はじめまして。わたくし、柊の父で高階まことと申します」

「こんばんは。茨木さかえでございます。娘さんには大変お世話になっております。どうぞ」

 マダムの娘さんがうながす。

 わたしは早く話をつけたかったので、マダムの娘さんが振り向く前に話しはじめた。

「今日は、悠馬さんにマダムのお手紙を届けていただきました。本当にありがとうございました。でも、わたし、この撮影料はいただけません」

 現金の入った封筒を栄さんに差し出す。

「それでなくとも、庭を自由に撮影させていただいたり、お茶をいただいたり、たくさんよくしていただきました。とてもじゃないけれど、このお金はいただけません」

 栄さんは、封筒を受け取らないまま答える。

「そうですか。でも、どうしてもそのお金は受け取っていただかないと困ります」

「なぜですか?」

「それは、義母ははの遺言だからです」

「遺言……」

「あなたとお友達が帰った日の夜中、義母はわたしにこの手紙と封筒を渡してくれたのです。こんな風に言って。

『もし、わたくしが不在の時は、この手紙をあの子に渡してください。そして、あなたが写真の出来栄えを見て、謝礼を決めてください。最高によければ、全額を。わたくしはあなたの審美眼を信じております』

 それでわたしは、あなたに全額をお渡しするのがふさわしいと思ったのです。素晴らしい仕事に対して、対価が支払われるのは当然のことです」

 お父さんが口をはさむ。

「それでも、いくら何でも、高校生に10万円は多すぎます」

 栄さんがすぐにお父さんに答える。

「そんなことはありません。芸術の価値に年齢の多寡が関係あるでしょうか」

「それでも、柊はプロではありません」

「では、1万円ならよいのですか? それでは義母が納得しません。このような素晴らしい写真が、それにふさわしい評価を受けなければ、柊さんはこれから写真を続けられないでしょう」

「わたし、もう写真は撮りません」

 栄さんが目を見開く。

 玄関に、しばらく沈黙が積もる。

「……どうして?」

 うかがうように栄さんがわたしの目を覗き込む。

「どうしても、撮りません。ですからこのお金はお返しします」

 そう、と言って栄さんは封筒を受け取った。

「それは、とても寂しいわ。義母もきっとおんなじ気持ちよ」

 わたしたちは、深くお辞儀をした。目をあげた時、廊下の奥からやって来た悠馬さんと目があった。わたしはすぐに視線を切って振り向き、屋敷を後にする。

 無言で車に乗り込むわたしたち。

 エンジンをかけた時にお父さんが問いかける。

「柊、写真をやめるのか?」

「うん」

「そうか」

 家に着くまで、そして着いてからも、わたしは誰とも口をきかなかった。

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