2 ウクライナ・ブチャの惨劇

 2 ウクライナ・ブチャの惨劇


 ヤブロンスカ通りはブチャの町の南部をほぼ東西に貫いてる。歩道には並木が連なり、道に沿って二階建ての家が建っていた。この町の人は花が好きだった。家の前に花壇を造ったり、大きな植木鉢を置いていた。

 アレクサンドルはヤブロンスカ通りを歩いていた。カテリーナと、よくこの通りを歩いたものだった。

 カテリーナは金髪で可愛い子だった。

 彼女とは学校ではずっと同級生で、子供の頃は木登りなどをして遊んだ。アレクサンドルが家具職人になってキーウ市内で働くようになっても、週末には決まってカテリーナと会っていた。二人でハルキウの町に遊びに行って、『I ♡ Kharkiv』のモニュメントの前で写真を撮った。

 彼女は保育所で働いている。仕事の傍ら、町の合唱団に入っていて、聖アンドリュー教会でその歌を披露したこともある。先日も、来月のコンサートに備えてフィンランドの歌の練習をしていると話してくれた。

「フィンランド語、勉強したんだから」

 そう言って、歌の一節を歌った。きれいな、優しいメロディーだった。アレクサンドルはフィンランド語はよく分からなかった。

「シベリウスの『フィンラディア』の一節に歌詞を付けたのよ。フィンランドはその昔、ロシアに支配されていて、その支配を打ち破ったという内容なの」

 今にして思えば、カテリーナが言った、ロシアに支配されたという言葉は、何かを暗示していたのではないかと思える。

 カテリーナの姿を最後に見たのはいつだったろうか。アレクサンドルは思い出せないでいた。それほど、この数日間にはいろいろなことがあり過ぎた。

 あの日、ロシアがウクライナに侵攻した二月二十四日以来、何もかもが変わってしまった。ブチャの町中をロシア軍の戦車や装甲車が我が物顔に走り回っているのだ。戦車のキャタピラーが花壇を踏み潰し、装甲車は植木鉢を跳ね飛ばした。轟音をたてて走る軍用車両。ロシア兵は何が怖いのか、やみくもに銃を撃ってくる。弾丸が家の壁を破壊し、ガラスが割れた。

 アレクサンドルはヤブロンスカ通りを曲がった。カテリーナはどうしているかと思い、彼女の両親の家に向かった。

 カテリーナの家の玄関の扉をノックした。一度目は応答がなかったので、二度目は、ダダダ、ダーンと強く叩いた。出てきたカテリーナの顔を見てホッとした。無事かと訊くと、怖いので両親と一緒に地下室に隠れようとしていたのだと答えた。非常時なので化粧はしておらず、美しい金髪も乱れていた。

 小柄なカテリーナは顔を引き攣らせて、

「ここにいて。アレクサンドル」と言った。

「仲間が検問所を作ったんだ。もうすでに集まっている。みんなボランティアだから、僕も行くんだ」

「検問所! ロシア兵が襲ってきたらどうするの」

 ドン。鈍い音がして家が揺れた。カテリーナが悲鳴を上げた。遠くない場所に砲弾が落下したのだ、ここにも危機が迫っている。アレクサンドルはカテリーナを抱きしめた。

「心配しなくていい。検問所は町の外れだよ。そこは民家ばかりだし、標的にされるような建物はないから」

「また、来てくれるのよね」

「もちろん・・・カテリーナ、食料は足りそう?」

「マーケットに行ったのは三日前だったかな。一日一食で辛抱するしかないわ」


 アレクサンドルは急ぎ足で仲間がいる検問所へ向かった。検問所はブチャの中心部から少し外れたイワノフランカ通りにあった。検問所の建物は古い民家で、戦車が砲身を振り回しただけで壊れそうな造りだった。

 ロシア軍が侵入してきたのはウクライナの北、ベラルーシとの国境方面からだということだ。ロシア軍はブチャを経て、キーウ方面へ進む機会を窺っているようだ。たまたま、その進路に当たったのがブチャの町だった。

 検問所は領土防衛隊の下部組織で、メンバーは町を守るため自主的に参加している。八人の中ではイヴァンがリーダー的な存在だった。アレクサンドルは彼の隣に腰を下ろした。

「どうだった、町の様子は」

「ヤブロンスカ通りはもう完全に占領されたみたいだ。戦車に砲撃された車が電柱にぶつかって・・・二人死んだらしい。運転していた人は車の中から出られなかったんだ」

「なんてこった」

「イヴァン、この間のフットボールの試合で、僕の出したパスを受け損なったよな」

 アレクサンドルは先月のフットボールの試合の話をした。二人は地元のチームに所属している。こんなときには、何事もなかった平和な日々のことを話していたい。そうでもないと、到底、この現実を受け入れられるものではなかった。

 そのときは、アレクサンドルが相手のゴールに走り込むイヴァンにパスを出した。ディフェンスの裏をかく絶妙なパスだったのだが、イヴァンは足が合わずにボールに触れられなかった。おかげで、せっかくの得点機を逃してしまった。

「もう二度と出せないっていうくらい、正確なパスだった」

「あれは、ひらりと身をかわしただけだ」

「身をかわすなんて、そんな練習した覚えはない」

「アメリカに行くんだ。トーキョー・オリンピックでベイスボールの試合を見ただろう。アメリカはベイスボールの本場だ。ドジャースの試合を見るのさ」

「ドジャース? 」

「アメリカのロサンゼルスにあるチームだ」

 イヴァンは、ロサンゼルス・ドジャースというベイスボールチームの名前の由来を話した。ドジャースとは、路面電車をひらりとかわす身のこなしの素早い人を指すのだそうだ。

「ドジャースみたいにひらりと身をかわせば、敵の銃弾なんか簡単に避けられるさ。パスを受けなかったのはその練習だ」

「イヴァンなら、戦車の砲弾だって避けられそうだ」

「ロシア軍の銃弾なんかに当たるもんか。ミサイルだって簡単に身をかわしてみせる。でも、逃げてるばかりじゃないぞ。侵略者のロシア軍に背を向けるもんか」

「イヴァン」

「軍に徴集されたら、喜んで任務に就くだけさ・・・」

 

 翌日、ウクライナ軍の兵士がやってきた。彼は、長期戦になりそうだから、今のうちに食料を確保するようにと言った。つい一か月前までは、町なかでウクライナの兵士の姿を見かけることなどなかった。それが、今では重装備に身を固め、小銃を手にした兵士が巡回に回っているのが当たり前になった。

 兵士は、マーケットの店主にこれを見せれば売ってくれるはずだと、軍の査証が入った書類を渡した。マーケットは仕入れのトラックが来ないのでどこも品薄になっている。

 買い出し役はイヴァンとアレクサンドルに決まった。アレクサンドルはカテリーナに電話した。

「大丈夫か」

「ええ、今のところは」

「これから、検問所の仲間と買い出しなんだ。食料を手に入れたら届けに行く」

「気を付けてね。ロシア軍が近所の家に入って、そこを兵士の宿舎にしたって聞いたの。ここも危ないわ」

 イヴァンとアレクサンドルは検問所を出てマーケットに向かった。

 イワノフランカ通り沿いの集合住宅の壁が黒焦げになっていた。窓ガラスもほとんど割れている。もう、ここには住めないかもしれない。アレクサンドルとイヴァンは建物の陰に隠れ、安全を確認しながら住宅街を進んだ。右からも左の方角からもロシア軍の戦車と思われる砲撃が聞こえてくる。

 遠回りしながらマーケットに到着した。シャッターは閉まっていたので裏口に回る。運よく店の店員がいた。軍の書類を見せると、分かったと頷き、店内に入っていった。軍の査証は効果があったようだ。すぐに店員が、食料品の詰まった袋を二つ持ってきた。中身は缶詰とソーセージ、パンと豆類だった。イヴァンが代金を支払おうとすると、店員は受け取らなかった。役所に軍の書類を持っていけば、後日清算してくれるとのことだった。

 買い出しがすんだのであとは検問所へ帰るだけになった。アレクサンドルは店員にお金を渡し、食料を売ってくれと頼んだ。手元に残っていた現金で食料を買って、カテリーナの家に届けたい。彼女は備蓄が減っているので一日一食でやり過ごそうと言っていた。戻って来た店員がアレクサンドルに袋を渡した。中を見ると、缶詰とパスタが入っていた。これなら十分だ。その袋をリュックに押し込むのに手間取っていると、イヴァンは先に行くぞと言って歩き出した。

 イヴァンが通りに出たときだった。パン、パンと、連続した銃声が鳴り響き、彼が前に倒れた。その拍子に手にしていた袋から買ったばかりのソーセージと豆が路上に散乱した。

「イヴァン・・・?」

 路上に伏したイヴァンは苦しそうに呻いている。アレクサンドルは駆け寄ろうとしたが、倒れたイヴァンの身体をめがけてさらに弾が数発撃ち込まれた。そのうちの一発が跳ね返ってアレクサンドルのすぐ横の看板に当たった。悲鳴を上げそうになるのを堪えて身を低くした。近くにロシア兵がいてこちらを狙っているのだ。

 味方の出したパスには身をかわせるのに、そのイヴァンがロシア軍の銃弾に当たってしまった。こんなバカなことがあるか。イヴァンをそのままにしておけないが、しかし、飛び出したのでは自分も撃たれる。検問所に行って仲間を連れて来なくてはならない。アレクサンドルはその場から駆け出した。


 何と言うことだ、今の今まで一緒にいたイヴァンが撃たれた。パスを受け損なったことを自慢していたイヴァン、アメリカにベイスボールを見に行くと張り切っていたイヴァン、検問所のリーダーのイヴァン。その彼がロシア兵の銃撃されてしまった。あの様子では彼は、もう助からないかもしれない。一発だけでなく、二発、三発、もっと多くだ。敵は倒れたイヴァンにも容赦なく弾を撃ってきた。人間の身体に突き刺さる銃弾の音。ブス、ブスという鈍い音が耳の奥から離れなかった。

 やみくもに走ったせいか、どこにいるか分からなくなった。周りの景色が、陽炎が立ち上っているかのように揺らいでいる。

 それでも、アレクサンドルは検問所の近くまで戻ってきた。しかし、イワノフランカ通りのあちこちにもロシア兵の姿があった。銃を構えた兵士、無線で連絡している兵もいた。これでは検問所に近づくことができない。

 そのとき、検問所からロシア兵が一人出てきた。周囲の様子を窺っていたが、振り返って他の兵隊を手招きした。銃を構えた兵が先導し、その後ろに腰を屈めて歩く数人の男性が続いていた。それはドミトリー、ミハイロフ、セルギー、検問所の仲間たちだった。誰もが姿勢を低くし、一方の手を前の人の腰に当てている。ロシア兵によって、どこかへ連れていかれようとしているのだ。兵士が銃の台座で一人を殴った。殴られたのはドミトリーだ。列の最後尾の兵は無線で誰かと交信している。上官の指示を仰いでいるようだった。

 どこへ行こうとしているのだろう。しかし、飛び出したくても、それができるような状況ではなかった。

 アレクサンドルは民家の塀に隠れた。

 誰の家だろうか・・・ふと、人の気配を感じた。ロシア兵に見つかった。いや、そうではなかった、小さな子供が、女の子が彼を手招きしていた。

 アレクサンドルはその家の居間に通された。家には三人の女性がいるだけだった。お婆さんと母親、それに娘だった。母親はリュドミラといい、女の子はユリア、十歳になったばかりだそうだ。リュドミラの夫はウクライナ正教の聖アンドリュー教会で庭の手入れや掃除の仕事をしているということだった。だが、ここ数日、ロシア軍に包囲されて教会からも出られなくなったらしい。

 この家にもロシア兵が押しかけてきたが、そのときリュドミラはたまたま二階にいた。年寄りと子供だけだと思ったのか、手荒いことはされなかった。リュドミラは、ロシア兵に見つかっていたら無事ではすまなかったかもしれないと言った。だが、部屋の中にあった食料はもちろん、ラジオ、テレビ、衣服、鍋などを奪っていった。ロシア軍はキーウに向かう途中、ブチャの市街地を手当たり次第に破壊しようとしている。

「夫が教会に働きに行っていて、留守だったのがせめてもの救いです。若い男は取り調べを受けているんです。教会にいるならきっと安全でしょう、そう思うんですよ」

 リュドミラが小さいユリアの頭を撫でた。

「あんたは、どうしたんだい。買い物かね」

「この先の検問所に詰めているんです。ロシアの進軍を食い止めるために。ですが、仲間たちがロシア軍に連れていかれたようなんです」

 アレクサンドルはマーケットで買ってきた食料品をリュドミラに差し出した。この家から何もかもが盗まれたのだ。食べ物に困っているだろう。食料を受け取ったリュドミラは大いに喜んで、この家に隠れていなさいと言った。

 バン、ドシン。銃声に続いて何か物が倒れる音がした。外はますます危険だ。

 それから、アレクサンドルはリュドミラの家に留まることにした。というよりは、留まることを余儀なくされたのだった。

 家の二階の窓から外を眺めた。自転車が倒れているのが目に入った。自転車に乗っていたと思われる人が、サドルに跨ったそのままの格好で横倒しになっている。側には買い物袋が転がっていた。日常の生活が突然終止符を打たれたのだ。

「昨日までは、なかったんだけど」

 リュドミラが胸を押さえた。

「さっきの銃声だ。ただ、自転車に乗っているだけの人を撃つなんて」

 人が死んでいる。しかし、それを黙って見ていることしかできない。もし、様子を見ようとして外に出れば、男であれ女であれ捕えらるか、さもなければ、いきなり銃撃に遭うだろう。

 自転車に乗った一般人を殺害するのは戦争でもなんでもない。

 これは戦争ではなく犯罪だ。

 事態は急激に悪化していた。


 アレクサンドルは検問所の仲間を思いやった。彼らはどこへ連れていかれたのだろう。

 そして、イヴァンは・・・

 アレクサンドルが見ていると、戦車が一台、また一台、ガタガタと煙を出して走っていった。装甲車と兵員輸送のトラックが何台も続いている。その方向にはキーウがある。ロシア軍部隊は首都キーウを目指して進んでいる。近くでまた砲撃音がした。ガラスがビリビリ鳴り、チェストの上から人形が落ちた。しばらく外には出られないと覚悟した。

 食事のあと、娘のユリアが人形遊びをしていた。ユリアは可愛い声で歌っている。その歌に聞き覚えがあった。カテリーナが歌っていた歌だった。彼女は、フィンランドがロシアの圧政を撥ね返した記念の歌だと言っていた。フィンランドとウクライナの状況は似ている。そう、それはウクライナにとっても希望の歌だ。

「その歌、聴いたことがあります」

「この子は学校の合唱クラブに入ってるの、そこで覚えたんですって」

「僕の友達も合唱団にいて、その歌を練習していました。フィンランドの歌だそうです」

「合唱団というと、聖アンドリュー教会でコンサート開いていましたっけ」

 リュドミラ一家とカテリーナは、聖アンドリュー教会を間にして繋がっている。アレクサンドルがこの家に来たのも偶然ではなさそうだ。

 カテリーナはどうしているのか。考えたくもないが、リュドミラの話から察するに、ロシア兵はブチャの男性を捕らえ、女性は・・・暴行しているようだ。

 その夜、カテリーナに連絡を入れた。電話の向こうでカテリーナ泣きじゃくり、何を言っているのか聞き取れなかった。家の床、足音、ガラスが割れた・・・話の様子からすると、カテリーナの家にもロシア兵が侵入したのだろう。兵士たちは一階の部屋を歩き回っているが、まだ地下室には気付いていないようだ。

「カテリーナ、地下室から出るな、絶対にそこから出るな」

「もうダメ・・・こんなのイヤ」

 地下室に隠れていれば助かる。そう信じたかった。

 ブチャの町には、どこにも安全な場所はなくなった。たとえ、今は無事だったとしても、この先、さらに、恐ろしい運命が待っているのだ。

 

 事態に変化が起きたのは三日目の夕方だった。

 アレクサンドルがこの家に身を潜めた日から、激しい砲撃の音が鳴り止まなかった。昼も夜も砲撃音は止むことがなく、ますます激しくなり、大きな爆発音が何回も聞こえた。ロシア軍の攻撃なのか、それともウクライナ軍が応戦しているのか、部屋の中にいては判断が付かなかった。

 それが、今朝は、三日間続いた砲撃音がすっかり静まった。二階にいた娘のユリアが降りてきて、玄関から外へ出ようとした。リュドミラが止めると、ユリアは、

「ウクライナ」と叫んだ。

 アレクサンドルは恐る恐るドアを小さめに開けた。彼の目の前をウクライナの旗を掲げたトラックがゆっくりと走っていった。

 ウクライナの軍が戻って来た・・・助かったのだ。


 ウクライナ軍はキーウ侵攻を防ぐため、郊外でロシア軍に待ち伏せ攻撃をくわえた。ロシア軍は戦車や装甲車が一列になって進んでいた。ウクライナ軍はその車列を狙って攻撃したので、ロシア軍は前にも進めず、後退もできなくなった。ウクライナ軍は次々に敵の戦車を破壊していったのだ。ロシア兵は戦車、軍用車両を乗り捨てて逃げていった。

 しかし、ロシア軍が撤退したあと、ブチャの町の惨劇が明らかになった。

 ヤブロンスカ通りの両側には、いたるところに住民の遺体が放置されていた。それゆえ、車は遺体を避けながら道を走らねばならなかった。


 アレクサンドルはリュドミラに礼を言って家をあとにした。

 はす向かい家の玄関に老人が倒れている。すでに息はしていないようだ。破壊されたテーブルやソファー、断熱材が、ゴミとなって散らばっていた。まるで、老人の遺体がゴミように捨てられているのだった。アレクサンドルが近づいて顔を見ようとしたとき、やめろ、と声がした。すぐに兵士が駆け寄って来て、

「触らない方がいい。身体に爆弾が仕掛けられているかもしれないんだ。この先の家の前で一人吹き飛ばされた」

 と言った。

「これもロシアの仕業だ」

 遺体にまで爆弾を括り付けている。それでは家族が倒れていても手を差し伸べることすらできないではないか。アレクサンドルはその兵士にイヴァンが撃たれた状況を話し、検体してくれるよう依頼してその場を去った。

 広い通りに出ると、見渡す限り、焼け焦げたロシア軍の戦車が何台も放置されていた。まだ煙が上がっている。破壊された家々、衝突した軍用トラック、置き去りにされた遺体。それらが、通りのずっと先まで見えている。まるで戦場の最前線にいるのかと思うくらいだ。

 トラックの運転席に兵士の死体があった。ロシアの兵隊だ。

 検問所へ着いたが、誰の姿も見当たらなかった。まだ、誰も帰っていないようだ。

 アレクサンドルは仲間たちが連れていかれた方へ行った。そこには納屋があって、階段にお爺さんがへたり込んでいた。

 お爺さんは黙って納屋の中を指差した。悪い予感がした。

 そこでアレクサンドルが見たのは、後ろ手に縛られ銃で撃たれた仲間たちの姿だった。腕のいい配管工のセルギーも、ハーレーダビッドソンを乗り回していたドミトリーも・・・今は無言で横たわっていた。

「わしは、ここに隠れていたんだ。アイツらに家を壊されたもんでな。すると、急に騒がしくなって、ロシア兵たちが押し入ってきた。他にも男たちが数人、六人ぐらいいた。奥のドアの隙間から覗いていると、ロシア兵は、若者たちに、壁の方を向いて座れと言った。そこへ、上官らしい兵が来て、捕虜は何人いるんだと訊いた。兵士は、検問所にいた連中ですと言った・・・」

 一、二、三・・・ロシアの兵士が人数を数えた。六人だった。兵士は、検問所で何をしていた、武器は持っているのかと訊いた。若者の一人がそれに答えようとすると、ロシア兵はいきなり小銃の底で背中を殴った。上官の将校が、早くしろと命じた。取り調べをするつもりなどなかったのだ。再び、早くしろと声が飛んだ。

 そして、銃声が、一発、二発・・・

 兵士が上官に言った。

「全員、死んでいます」


 惨劇の一部始終を語り終えたお爺さんは、腰が抜けたようにその場に崩れ落ちた。

「見つかってはいけないので、わしは首をすくめて、服の袖で口を覆った。やがて、足音がして、兵士たちが出ていくのがわかった。それでも、戻ってくると危険だから、何時間も膝を抱えて震えていたんだ」

 何と言うことだ。イヴァンもドミトリーもセルギーも、みんな死んでしまった。

 しばらくすると、市の職員が来た。知り合いかと訊かれたので、アレクサンドルは検問所のメンバーだと答えた。その職員によると、ヤブロンスカ通り周辺で、少なくとも百人ほどの遺体を発見したということだ。それから、まだロシア兵が潜んでいるかもしれないと言った。

 アレクサンドルは、犠牲になった仲間の家を訪ねて、この惨状を家族に伝えることにした。気が重い仕事だが、それが生き残った者の使命だ。その前に・・・カテリーナが心配だ。

 納屋を出たところにウクライナ兵がいた。アレクサンドルは建物の中を指差して首を振った。兵士は二、三回頷いた。アレクサンドルが歩き始めると、その兵士も、ロシア軍が隠れているので気を付けろと言った。


 カテリーナの家はロシア軍の砲撃に遭っていた。道路に面した塀と垣根が倒され、庭は踏みにじられ、地面には戦車のキャタピラーの跡が幾筋も残っていた。かろうじて家は原形を留めていたが、玄関のドアが半分壊れていて、家の中が見通せた。しかも、昨夜は雨だったので、破れたドアから雨水が入って床が濡れている。

 ここにもロシア兵が侵入したのだ。家財道具はあらかた持ち去られ、部屋の中はガランとしていた。冷蔵庫もベッドも、テレビも何もかも奪われたのだった。

 そして、最も恐れていたことだが、カテリーナと両親の姿はどこにも見当たらなかった。呼びかけにも返事はなかったし、彼女のスマートフォンにかけてみたが繋がらない。近所の人に訊ねると、教会の方へ行ったとか、それとも病院かもしれないと曖昧な言い方だった。彼女の身に何か良くないことが起きたのだ。

 考えてみれば、自分が無事だったのは彼女のおかげだった。検問所のメンバーで生き残ったのは自分だけだ。買い出しに行かなければ、検問所の他の仲間と共にロシア兵に連行されただろう。そして、マーケットで彼女に届けるための食べ物を買おうとしたので、銃弾に当たらなかった。これが単なる偶然とは思えない。そう、運命だったのだ。

 それなのに、カテリーナは・・・

 運命だとしても、何と過酷な運命だろうか。


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