音楽の力(2022~2024)

かおるこ

1 フィンランディア


 この小説の登場人物 緒方祐衣 本西健人 アレクサンドル カテリーナ


 1 フィンランディア


 席は中段で舞台を左側に見る位置だった。どちらが奥に入るのかと考えていると、健人が祐衣の背中に軽く手を添えて、先にと促した。座ってから、これで正解だったと思った。祐衣は健人の右側の席に座る。祐衣が舞台を見ようとすると自然と少しだけ健人の方を向くことになり、意識することなく彼の存在を確認できる。

 健人と付き合い始めて一年が経つ。しかし、二人にとって今日が最後の日だ。この演奏会が終われば、ホールを出た二人は右と左、別々の方向へ歩きだす。大学の構内では顔を合わすことはあっても、健人と二人きりで会うことはない。

 それなのに、存在を確認できるだなんて、何ていうことを考えているんだろうと祐衣は思った。

 それはホールに入るときから、いや、六本木の駅からしてそうだった。

 ホールの入口の壁も床も階段も漆黒に塗られていた。照明はほの暗く、それらは、これから始まるイベントに相応しい雰囲気を感じさせた。

 緒方祐衣はその薄暗い階段を上るときに彼を先に行かせた。彼の、本西健人の濃紺のジャケットに軽く指を触れていた。というのも、地下鉄の六本木駅を出てテレビ局の方に向かっていたとき、エスカレーターで後ろに立っているはずの健人が消えてしまうのではないかと不安だったのだ。健人は、別れの日には、祐衣が意識しないように姿を消したいというのが希望だった。

 祐衣はそれはイヤだった。やはり最後はきちんと挨拶して別れたい。いつの間にか姿が見えなくなったら、中途半端でスッキリしないし、おそらく一生後悔するだろう。だから、さっきは彼がいるかどうか心配で仕方がなかった。よく考えたら、上りのエスカレーターだから、逆方向に降りていくのは不可能だったのだが。


 受付で今夜のプログラムを貰ってあったので、本西健人はそのうちの一枚を緒方祐衣に渡した。プログラムといっても、一枚の紙に曲名と演奏者が書かれた簡単なものだ。これは彼女との貴重な思い出になる。先日、二人で行ったディズニーランドのチケットと一緒にクリアファイルにとっておこうと思った。

 プログラムにはこれから演奏される曲目が三曲書かれている。

 一曲目は、

『Sibelius Finlandia op.26』

 シベリウスのフィンランディアである。

 二曲目は・・・

『Schoenberg A Survivor from Warsaw op.46』

 と書いてある。この曲名と作曲家には心当たりがなかった。

 三曲目は、

『Beethoven Symphony No.5』

 ベートーヴェンの交響曲第五番。これは通常、『運命』の名で知られている。

 指揮者は内山浩二 演奏は関東中央オーケストラである。


 二人がこの演奏会に来た目的はベートーヴェンの『運命』を聴くためだ。それは健人の強い願いだった。健人は、祐衣と別れると決めたときから、最後の日には『運命』を聴こうと思った。そもそも、緒方祐衣と出会ったのも、愛し合ったのも、そして、別れるのも、何もかも、生まれたときから決まっていた運命だったと思う。今夜は『運命』を聴いて、そのまま別々の方向へ歩いて行く。それも、彼女が気が付かないうちに左右に歩いて、そして、雑踏の中に消えていきたい。


 祐衣は、健人が最後の日は『運命』を聴いて、それで別れようと言い出したとき、迷わず「それがいい」と答えた。とはいえ、てっきり、彼の部屋に行ってCDで聴くのだと思い込んでいた。コンサートだと聞かされて、ちょっと面倒なことになったなと思った。クラシック音楽を聴くならCDでもいいし、なんなら、YouTubeで動画という手もある。

 健人と別れることになった原因は、彼の細かい性格にあった。細かい、それでいて、健人には、どこかスポッと抜けている部分があるのも確かだ。祐衣はどちらかというとズボラな方なので、付き合いだした始めのころは彼の抜けた部分が好きだった。細かいところは目をつぶっていたのだが、別れるとなったとたん、それが苦手だったことを気付かされた。

 別れるまでのスケジュールなどと、健人が言い出したときには、やっぱり別れる判断は正しかったと確信した。そんなやっかいな計画とか儀式には付いていけないと思った。それでも、彼の立てたスケジュールに乗ることにしたのは、お互いが憎み合って別れるわけではないからだ。細かいところに目をつぶれば、彼といるのは楽しかったし、巡り会って良かったと思う。

 スケジュールの一つ目は、祐衣の希望を優先してくれた。

 先週は二人でディズニーランドに行ってきた。卒業旅行ならぬ「交際卒業デート」だった。コロナ禍でもあり、ゴールデンウイーク前の時期だったので園内は比較的空いていた。意外にも健人はノリが良くて終始楽しそうにしていた。別れるのが楽しい、では、ポイ捨てされたような気分にもなった。彼が陽気だったのは、たぶん、祐衣のことを気遣ってくれたのだろうと思うことにした。

 祐衣がアトラクションの乗り物から降りるときにバランスを崩しかけて、それを彼が支えてくれた。祐衣はもう少しで手を繋ぐところだった。手を繋いだのでは、たぶん別れられなくなってしまうので、それはスルーした。

 実のところ、祐衣は内心では別れたくない気持ちもある。でも、これも青春の一ページ、単なる通過儀礼の一種なのだと思う。そう、中学も、高校生のときも、「ずっと一緒にいようね」が、真実だったことはなかった。大学生になって、最初の恋愛も一年間で終わりを迎えた。ここはきっぱり終わりにして、そして、ゴールデンウイークの前に、取り急ぎ、新しい彼を見つけたい。


 プログラムの一曲目は、シベリウスのフィンランディアとある。祐衣も健人も二人ともクラシック音楽は聴くけれど、CDを数枚持っている程度だ。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンと著名な作曲家は知っているが、フィガロの結婚序曲とか、ウィリアムテル序曲とか、誰もが知っている楽曲を聴いたくらいだ。それでも、祐衣は、バイト先に提出する履歴書に「音楽鑑賞」と書いたりする。シベリウスのフィンラディアは何度か聴いたとは思うが、では、曲の細部はどんな感じだったかとなると、とっさには思い出せないでいる。

 健人は二曲目の作曲家の名前を読むのに苦労した。たぶん英語だろうと想像してみる。題名は、サバイバルだから、これは生還者の意味で、どこから帰って来たかというと、ワルソワからだ。ワルソワとはどこの地名だろう。

 隣の祐衣に尋ねられたら困ったなと思った。そのときは、何か別の話に振って誤魔化そうと考えた。そこで浮かんだのは、六本木ヒルズの前の広場で、ロシアのウクライナ侵攻に抗議する団体が署名活動をやっていたことだった。

 ウクライナでは暗いニュースがあった。今年、2022年の二月末にロシアがウクライナに侵攻した。ロシア軍はウクライナの首都のキーウに迫った。ウクライナ軍はこれを迎え撃ってキーウを守ったのだが、首都近郊のブチャの町で市民が多数殺害されるという悲惨な出来事があった。一般市民を殺害するのは戦争犯罪である。

 広場での署名活動もその戦争犯罪を訴えるものだった。参加者の中には、募金箱を下げた金髪の女性もいて、おそらく、彼女はウクライナ人の留学生だろうと思った。

 二曲目について訊かれたら、募金の話題に変えればいい。そのときはホールに向かうために急いでいたので素通りしてしまったが、帰りがけに二人で募金をしようかと考えた。

 いや、ダメだ。それでは別れることにならない。ホールを出たら右と左、別の道を行くのだった。それが二人の運命だから。数日前から、祐衣との出会いも別れるのも運命だったと何度も思った。

 そう、まさに、ベートーヴェンの『運命』だ。交際が終わる日に、『運命』とは、我ながら、なんとピッタリくる選曲だろうか。ベートーヴェンの『運命』は、およそ三十分ほどの長さがある。一年の交際だったが、それもこの三十分で終わる。


 舞台の幕の背後でギギーッと音がした。弦楽器の調律の音だと思った。

 いよいよ、演奏会の開始だ。聴衆のみなさんには申し訳ないが、今日のコンサートは自分たち二人だけに開かれる。

 健人はホールの中を見回した。客席は1500人ほど入れるだろうか。二階席もある。一階は六割ほど席が埋まっていた。去年の東京オリンピック・パラリンピック以後、再び新型コロナの感染者が増えた。まん延防止措置は解除されているが、イベントによっては入場制限もおこなっている。この会場でも、一階後方の数列分は人が座っていなかった。

 幕が上がった。

 健人は思わず、あれ、と思った。舞台上にはオーケストラが扇状に並び、中央、手前に指揮者のための台が置かれている。そこまでは普通の設営状況だが、オーケストラの背後に合唱団が並んでいた。男女合わせて三十人くらいはいるだろうか。

 シベリウスのフィンランディアに合唱が付いていたっけと首を傾げた。それでなければ、これは二曲目のために用意された合唱団なのか。祐衣の方を向くと、やはり怪訝そうな顔をしていた。何故、合唱団がいるのか、彼女も同じ考えだとみえる。

 クラシックのコンサートでは、ひそひそ話であっても私語は控えなくてはならない。しかも、コロナ禍なので、二人ともマスクをしている。話したくても話しができない。

 舞台下手から司会者が出てきてマイクスタンドの前に立った。司会者は本オーケストラの副理事長であると名乗った。ひと通りの挨拶をして、それから会場を見回した。

「本日の一曲目は、シベリウスの『フィンランディア』です。ご承知のように、この曲はロシアの支配下にあったフィンランドが、その圧政に立ち上がった事実に基づいて書かれたものです。今日の演奏では、中間部にコーラスの入ったバージョンでお届けいたします。この歌は現在でも非常に有名で、フィンランドの第二の国歌と言われているほどです。フィンランド語で歌いますが、右手の壁面に日本語訳を投影しますのでご覧ください。それでは、指揮者の内山浩二氏、よろしくお願いいたします」

 副理事長が挨拶を終えて袖に下がると、指揮者がゆっくりとした歩調で現れた。

 本西健人と緒方祐衣は、ひじ掛けの分だけお互いの距離を保ち、椅子に深く座って背もたれに背中を付けた。


 シベリウス作曲『フィンランディア』

 トロンボーン、チューバ、金管楽器の重苦しい旋律で始まった。ティンパニーが細かく叩かれ、弦楽器が低く、これも重厚なメロディーを繰り返す。そこへ、鋭いトランペットが響くと、今度は一転して弦楽器が明るい旋律を弾き出した。バイオリンもチェロも弓の動きが早くなり、ホルンやトランペットが追いかけるように勇壮なメロディーを繰り出した。そして、それが一段と高みに達した後ところで音が静かに小さくなった。

 クラリネット、オーボエ、フルートが奏でる物悲しい旋律に乗せて、合唱団が優しく、静かに歌いだした。その歌声は舞台上だけでなく、ホールの後方の席からも聴こえてきた。いつの間にか、合唱団が待機していたのだった。


「Oi, Suomi, katso, sinun päiväs koittaa,・・・」

【おお、スオミ(祖国 フィンランド)よ。夜は明けるだろう。暗黒の恐怖はいつか消え去り、輝く朝にはヒバリが歌う。まさに天国の歌のように。朝の光は夜の闇よりも強い。明るい朝が来る、ああ、祖国よ】

 

 弦楽器も加わって、さらに、歌は続く。


【おお、スオミ(祖国)よ 高く掲げよ、偉大な歴史の冠で飾られた頭を。おお、祖国よ、世界に示すときだ。私たちは支配者を追い出し、弾圧に屈しなかった。朝が始まる、ああ、祖国よ】

「・・・On aamus alkanut, synnyinmaa.」


 歌が終わると再び弦楽器が明るく荘厳なメロディーを弾き、トロンボーン、ホルンがそれに加わる。そして、ティンパニー、シンバルが鳴り響く中にクライマックスに突入した。ロシアの支配を脱し、フィンランドに平和が訪れる、まさに、その響きだ。ラストは再びコーラスも加わって、格調高く、静かにエンディングを迎えた。


 会場からはどっと拍手が沸き起こった。

 緒方祐衣はコーラスの始まったとたんハンカチを握りしめた。曲が終わった今、その手は小刻みに震えている。予想外の感動だった。クライマックスが近づくと涙を堪えられなくなってハンカチを目頭に当てた。先日、ディズニーランドで健人がプレゼントしてくれたハンカチだった。

 客席のあちこちでも、小さく、しゃくりあげるように泣いているようだ。

 これまでに聴いたフィンラディアは、オーケストラの演奏だけで合唱の入っていないものだった。それが、中間部に歌詞が付けられていたとは思ってもみなかった。

 なんというきれいな歌声だったのだろうか。フィンランド語の歌詞はとても美しく、澄んだ響きで、それでいて力強い印象だった。日本語に翻訳された歌詞を見るまでもなく、込められた思いは充分に伝わってきた。フィンランド国民がこの歌を第二の国歌として愛しているのも理解できた。

 祐衣は今夜のコンサートに来たことを幸せに思った。シベリウスのフィンランディアは感動的で、別れの日に、ふさわしかった。押し寄せるような弦楽器と、中間部の合唱が胸に迫ってきて心が震え、手が震えた。

 祐衣は、健人が膝に置いた右手に手を伸ばしかけて、すぐに引っ込めた。今夜は二人にとっては最後の日、別れの夜だ。それなのに手を握ったのでは別れられなくなってしまうだろう。ディズニーランドに行ったときも手を繋がなかった。別れると決めてから、二人はハグしたり、キスしていない。もちろん、喧嘩もしなかった。それは、後ろ髪を引かれることもなく、きれいに、気持ち良く別れたかったからだ。

 もし、この手を健人に拒絶されたら、どうしよう。

 振り払われたら、嫌な思い出を引きずってしまうかもしれない。

 でも・・・

 祐衣は目を閉じて健人の手にそっと自分の手を重ねた。

 長い間合い・・・とてつもなく長い間合い。

 健人はその手を拒むことはなく、祐衣が置いた手をそのままにしてくれた。

 ホッとした。手を繋いでいると、二人で過ごした日の暖かい温もりがよみがえる。

 目と目を合わせた。言葉はいらない。二、三度頷き、祐衣はハンカチを握りしめた。この人でよかった。健人と出会ってよかった。

 でも、でも、今夜は二人の最後の夜、別れの日だ。

 最期の日だ。ああ、本当に別れるのだろうか。健人のことは好きだ。好きなのに、成り行きで別れることになってしまった。

 「卒業コンサート」みたいな軽い気持ちで来たのに、最後の日に、運命の日に、祐衣の心は揺らぎ始める。

 『運命』を聴きながら迎える最後の夜。文字通り、今夜は運命な夜になりそうだ。


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