3 ワルシャワの生き残り

 3 ワルシャワの生き残り


 フィンランディアが終わっても合唱団は舞台上に残っている。次の演奏曲目にも歌が入っているのだろか。

 健人はプログラムに書いてあった題名を思い出そうとしたが、英語で書かれた曲名が読めなかったことに気が付いた。プログラムはジャケットの内ポケットに入れてある。取り出すには右手を動かさなければならない。でも、その右手は祐衣の左手と繋いでいる。どちらともなく手を重ねていた。自分だったか、それとも祐衣が先だったのか、つい今しがたのことなのに思い出せないでいる。自然と手を繋いだ感じだった。

 一曲目の『フィンラディア』は感動的だった。曲の途中から祐衣は泣いていた。祐衣の手を放そうとは思わない。最後の夜、別れの日、祐衣の手の温もりは一緒に過ごした日のことを思い出させる。

 しかし・・・最後の日だ。


 舞台に係員が出てきて、指揮者の横に譜面台を置いて立ち去った。入れ替わるように司会者が出てきてマイクの前に立ち、

「次に演奏しますのは、シェーンベルク作曲『ワルシャワの生き残り』です」と言った。

 シェーンベルク、ワルシャワの生き残り。

 健人はパンフレットの表記を思い浮かべる。なるほど、言われてみれば、英語表記はそう読めたかもしれない。しかし、シェーンベルクも、『ワルシャワの生き残り』も、初めて聞く名前だった。隣の祐衣も、さあ、と首をひねる。

「この曲、『ワルシャワの生き残り』は、あまり馴染みのない方も多いと思いますので、簡単にご紹介いたしましょう。シェーンベルクの『ワルシャワの生き残り』は、1947年に作曲されました。曲の内容は、ナチスによって強制収容所に送られた一人の男性の告白です。この告白部分は男性ナレーターにより英語で語られます。最後にユダヤ教の教えの一節がヘブライ語で歌われます。先ほどと同様に、ナレーションと歌詞の和訳を投影いたしますのでご覧ください。この『ワルシャワの生き残り』は十二音技法で作曲されています。十二音技法を一言で述べるのは難しいのですが、不協和音が流れる音楽とご理解くださって結構です」

 そこで大きく深呼吸をした。

「さて、ご承知のように、本年二月二十四日、ロシアがウクライナに侵攻しました。ウクライナは首都キーウへの進軍は食い止めましたが、近郊のブチャという町では多数の一般市民が犠牲になるという悲しい出来事が起こりました。第二次世界大戦から七十年あまりが経って、再び同じような悲劇が繰り返されてしまったのです」

 進行役の副理事長は、今回のプログラムは半年前から計画されたものであり、ウクライナ侵攻の、この時期に、『ワルシャワの生き残り』を演奏するのは偶然であると言った。最後に、『ワルシャワの生き残り』が終わると、休憩を入れずに、ベートーヴェンの『運命』を演奏するので席を立たないようにと付け加えて話を終えた。

 『ワルシャワの生き残り』は、ホロコーストをテーマにした楽曲だった。

 第二次世界大戦中、ナチスによるユダヤ人虐殺がおこなわれた。健人はそれを歴史の授業で習った程度だった。知っているのは、ポーランド南部のアウシュビッツ収容所で百万人近いユダヤ人、ポーランド人などが殺害されたことだ。それと似たような事態が、現代のウクライナでも起こった。

 しかも、『ワルシャワの生き残り』は、不協和音で構成されているという。テーマは深刻だし、さらに不協和音で構成されているのでは、聴いていて楽しいとか、ましてノリがいい曲ではなさそうだ。

 指揮者とナレーター役の男性がステージに登場した。指揮者は指揮台に上がり、ナレーターは譜面台の前に立つ。

 会場からひたひたと期待と緊張感が湧き上がる。

 いったいどんな曲なのだろう。

 健人は、そして祐衣、手を繋いだ二人は、椅子に深く座り直した。


 シェーンベルク作曲『ワルシャワの生き残り』

 トランペットが短く奇妙な音を立てる。空気を切り裂き、攻撃的な、挑戦的な音。タタタン、スネアドラムが鳴り、バイオリンは引っ掻くような不気味な音を奏で、コントラバスは弓で弦を叩いたかと思うと、すぐにピチカートで弦を弾く。

 英語の台詞が始まる。


【I can not remember everything・・・】

【私は何も思い出せない。ずっと無意識でいたに違いない、ほとんどの時間を。覚えているのはあの瞬間だけだ。彼らが事前に示し合わせたかのように歌いだしたこと。それは、何年も放置され、忘れられていた信条だった】

【だが、私には記憶がない。どうやって地下に潜り、かくも長くワルシャワの下水道で暮らすことになったのか】


 コンサートマスターが一回だけ弓を動かし、バイオリンを「ヒュン」と鳴らす。それだけですぐに沈黙。また、トランペットの不気味な音。フルートが一瞬だけ加わる。空間が捩じれたような奇妙な感覚。なにもかも断片的で、メロディーが奏でられることはない。


【その日も、いつものように始まった。暗いうちに起床ラッパが鳴った。眠っていようと、一晩中、目を覚ましていようともだ。子供とも妻とも両親とも離れ離れで、その身に何が起こっていようともだ。再びラッパが鳴る】

【「起きろ、軍曹殿が怒るぞ」】

【彼らが出てきた。老人や病人はゆっくりと歩き、他の者は軍曹を恐れて急ぎ足になっている。無駄なことだ】


 震えるような、うねるような弦楽器の群れ。ハープが掻き鳴らされる。おどろおどろしいハープの音。妙に心地よい鉄琴の音色。そこにスポットライトが当たったのは錯覚か。ホルンとトロンボーンの地を這うような不安定な響き。クラリネットとオーボエは軋むように鳴る。思わず耳を塞ぎたくなるような奇怪な音の連続。オーケストラの各パートで不協和音が絡み合う。ナレーターの台詞はますます感情が込められ、叫ぶような、訴えるような調子になる。


【軍曹は叫んだ。「気を付け! しっかり立て、それとも、銃床で殴ろうか」】

【軍曹と部下が仲間たちを殴った。若者も老人も、弱い者も、見境なく殴った。仲間が呻き苦しむ声を聞くのは苦痛だった。私もひどく殴られて倒れ込んだ。みんな地面に倒れた。立ち上がることのできない者は、もう一度殴られた。そこで私は意識が薄れた。聞こえたのは兵士の言い放った一言だった】

【「全員死んでいます」】

【それから軍曹は仲間を片付けろと命じた。辺りは静かになった。恐怖と苦痛が支配する。軍曹が号令と叫んだ。兵士が数え始めた。一人、二人、三人、四人。軍曹は苛立つ。「早くやれ、最初からやり直せ、何人ガス室に送るのか、一分以内に知りたいんだ」】

【兵士たちは再び始めた。ゆっくりと、そして速く、速くなって・・・そして、突然、仲間たちが歌いだした】

 

 合唱が始まる。


【聞け、イスラエルよ、主は我らの神、主は唯一なり。主を愛せ、汝らの全ての心と魂と力で。これらの言葉を心に留め、汝らの子に伝え、語るのだ、汝らが寝るときも起きるときも」】


 トランペットが音階を幾つも飛ばしながら駆け上がり、弦楽器はせわしなくピチカートを弾く。太鼓とシンバルの強烈な響き。

 不安と恐怖と、これでもかという不協和音・・・突如、途切れる。


 緒方祐衣と本西健人は、音楽が始まったときには背もたれに背中をあずけて深く座っていた。だが、『ワルシャワの生き残り』が進むにつれ、どんどん前のめりの姿勢をとった。

 『ワルシャワの生き残り』は初めて聴く曲だった。

 苦し気に、また、怒りをぶつけるように叫ぶナレーター、楽器が壊れたような演奏法。人の神経を逆撫でする音楽だった。

 何だ、これは。これは何なのだ、『ワルシャワの生き残り』は。

 曲が終わった・・・終わったという感じはないが、終わったらしい。

 しかし、会場から拍手は起きなかった。ややあってから、おそらく三秒ぐらいの間があって、ドッと大きな拍手が起こった。

 二人は『ワルシャワの生き残り』が演奏されている間中、ずっと手を握り合ったまま放さなかった。曲に引き込まれて、思わず身体が前に傾いたとき、二人の動きは見事にシンクロしていた。

 短い曲だった。七、八分くらいだったと思う。美しいメロディー、というより、どんなメロディーもなかった。トランペットもフルートも弦楽器も、断片的に短い音を奏でるだけだった。しかも、その音は、これまで聴いたことのないくらい不気味であり、不安を感じさせるものだった。『ワルシャワの生き残り』は、口ずさめるような旋律が一片たりとも流れなかった。

 健人は、これが、クラッシク音楽なのだろうかと思った。

 隣に座っている祐衣も目を見開いて呆然としている。その彼女の頬には一筋、二筋、涙が流れている。きれいだと思った。

 『ワルシャワの生き残り』は、ナチスによって殺害されたユダヤ人の受けた苦痛を描いた作品だった。そして、七十年の時空を超えて、ウクライナで起きた惨劇をも思い起こさせるものだった。

 健人が知っているのは、つい数週間ほど前に明らかにされた出来事である。

 キーウ近郊のブチャという町でそれは起こった。ブチャの町はロシア軍の侵攻直後、一時的に占領された。ロシア軍が逃げ去った後、多数のウクライナの一般市民の遺体が発見された。ニュースで、破壊されたブチャの町並み、道路の端に残されたままの遺体、後ろ手に縛られ殺された人々の映像を見た。映像にはモザイク処理がされていたが、大きな衝撃を受けた。教会の墓地に臨時に埋められた多くの遺体もあった。ロシア側は、フェイクニュースであり、遺体はウクライナが置いたのだと主張した。だが、ウクライナが自国民を殺害する理由はどこにもない。すべてはロシア軍の手によるものだった。

 ロシア軍に家族を奪われ、友人を殺された人たち。

 恋人を失った人もいるだろう。予想もしない突然の別れ。愛する人と、ずっと一緒にいると思っていたのに、彼が、彼女が何も言わずに遠くへ旅立ってしまった。

 運命と言えばそれまでだが、侵略に巻き込まれて、こんな過酷で理不尽な運命が待っていようとは・・・

 健人は祐衣と手を繋いだまま顔を見合わせる。


 祐衣は涙。

 堪えきれずにホロホロ泣いた。

 祐衣は鳥肌が立った。『ワルシャワの生き残り』が演奏されている間中も、終わってからも、言いようのない感情に取りつかれた。涙は止まらず、心臓の鼓動が高まり、身体はまだ小刻みに震えて続けている。

 これが、クラシック音楽なのだろうかと祐衣は疑問に思った。バッハやモーツァルトの延長上に存在する音楽なのだろうか。トランペットは怖い音を出し、バイオリンは引っ掻くような悲鳴を奏でた。英語を翻訳した字幕を見なくても、舞台の上で、とてつもなく重大なことが起き、進行していることが分かった。

 それは、人間の根源に関わる大事なことだ。アウシュビッツ収容所に送られた人たちが命を奪われたこと。抗いようのない嵐に翻弄された人たちの運命。そして、それは決して過去の物語ではなく、この瞬間もウクライナで現実に起きていることだった。

 『ワルシャワの生き残り』は、不安や恐怖をかき立てる音楽だった。けれども、聴きおわってみると、不思議と、解放された気持ちになり、救われたような気持ちになった。

 十二音技法とか不協和音とか、詳しいことは理解できないが、この曲、『ワルシャワの生き残り』は、未来に残さなければいけない音楽だと思う。

 祐衣はこのコンサートに健人と一緒に来ることができて良かったと思った。

 何故だろう。こんなに怖い音楽だったのに、何故か、幸せだと思った。

 そして、今夜は何と運命的なのだろう。



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