月華の舞 10



      10



 首輪と細剣。

 二人の美麗をきわめた装いが、粗末なものを身につけたことで台無しになった――と思ったのは、ほんの一瞬だけだった。


 学ぶべきものを学び終えた女神と、それを理解した姫君とが、互いに見つめ合い、笑い合った。


 二人の心がつながった。


 そこまでは、美しく踊ってはいたが、練習にすぎなかった。


 二人の本当の踊り、世界とつながるものである舞踏という行為は、これからが始まりなのだった。


「…………」


 再び姫君の視線が投げかけられ、楽団がみな夢見るような目つきでそれぞれの楽器を構える。


『トリュス』が流れ始めた。

 初拍を強調する『トリュス・プレ』だ。


 三拍子の楽曲に合わせて、美しい二人が踊り始めた。


 自分が教えた基本を身につけた上で、その応用が始まったことを、ジールは即座に感じ取った。


 二人は、お互いだけを見つめて、幸福に包まれていた。


 粗末なものを身につけた同士が、もう何一つ確認することなく、舞踏の楽しさに全てを投じる。


 首輪に長剣。どちらも美を阻害するように思えたものが、二人が動き始めると、むしろそれがあってこそと思えるような調和を示す。

 それを身につけている方が本来の姿、本来の動作であると理解できてしまう。

 ダンスを阻害するはずの長剣を肩に吊った黒髪の女神のそのお姿こそがあるべきものだ、粗末な首輪を巻いたお姿こそが姫君ご本人の最も望んでいる姿だ、と感得してしまう。


 体を揺らす。

 互いを支える。

 向きを変える。

 共に地を踏む。

 それらひとつひとつに喜びが伴う。


 踊る二人は、二人だけの世界を築いていた。

 誰も踏みこむことの許されない、絶対的な――愛の世界。


 しかし、それもまたわずかな間だけのことだった。


 姫君が、そして男装の女神もまた、優美な動作を繰り返すうちに、周囲に自分たちの世界を広げていた。


 視線。あるいは動作。気配。

 言葉ではないものが、まわりの者たちを引きこむ。――いや、引きずりこむ。


 そう、舞踏とは、自分あるいは自分とパートナーが楽しむだけのものではない。

 自分たちを含めた、周囲の全てとつながるものでもあるのだ。


 ゆるやかな律動に合わせて、深い情愛を交わしながら踊り続ける二人。

 その周囲に、うずうずとして体が自然と動き出す、不可思議な感覚が広まっていった。


 ジールが真っ先にそれに捕らわれた。


 

 あの二人、いやお二方は天上の舞踏をおられるが、それでは舞踏というものは完成しない。


 皆が固まった中で二人だけで体を動かすというのは、ほんとうの舞踏ではないのだ。


 ジールの体は勝手に動き出し、進み出ていた。


 自分の隣には、愛しい相手がいた。

 踊るお二方に涙ぐんだ目を向けているアイナに、ジールは手を差し伸べた。


 人の身である二人は、美しいお二方の隣で踊り出した。


 すぐに吸いこまれた。


 愛に満ちた世界に、自分たちも加わることを許された。

 

 どうぞ、と。

 ご一緒に。どうぞ。あなたたちも。


 美しいお二方をつなぐとてつもない愛情が、自分たちにも伝播して、同じように舞い踊り互いの愛情を深め、より大きなものをふくらませる力となった。


 決勝進出者たちが、続いてきた。


 それぞれ卓越した技量と感覚の持ち主たちが、神々の舞踏に反応し、自分も美しい世界の一員とならんと集まってきたのだ。


 美神二柱を囲んで、人間たちが踊り始める。


 それにより素晴らしい世界はさらに拡大して、加わる者が増えてゆき――貴賓席の審査員たちも、本選出場者たちも、その周囲の若者たちも、ただの観客たちまでも、気がつけばこの場に居合わせる全ての者たちが、神々の世界の一員となっていた。


 全員が、同じ動きをしていた。

 同じ踊り。同じ手足の動き。

 それ以外のことができない。

 他の動きをするということがまったく頭に浮かばない。


 だが楽しい。

 たまらなく楽しい。


 楽しいゆえに、もっと上を求める。

 その心に律動が重なり、理性は追いやられて、ひたすら体を動かし喜びに酔いしれる時間と空間が出現する。


 中央にいる美の女神たち。

 二人が動きを変えると、周囲もたちまち変化する。


 三拍子の『トリュス』から、軽やかな二拍子の『リッツ』へ。

 女神たちと共に周囲の全員が飛び跳ね、無数の頭部の上下動が波となる。


 中央の楽団員たちも周囲の民間の楽士たちも、見えない何かに指示を受けているかのように、みな同じ曲をそれぞれの場所で奏で続ける。

 美の女神の眼差しを一度でも受けてしまうと、そうする以外に何もできなくなってしまうのだった。


 場のすべてが、和音と律動と、舞踏と快感だけになり――。


 いつの間にか、誰もが『カラントペンティラン』――五拍子のリズムに合わせて地を踏んでいた。


 カラント、この国に生まれ育った者として、魂に根付いている律動だった。

 五拍のそれぞれに、大神が反応していた。


 女神の化身たちが踊ることで、神々が注目し、この場に力を及ぼし始めていた。


 五拍の律動はひたすら繰り返される。


 律動に付随して力を及ぼしはじめた、五つの、あるいは五柱の、巨大な、人智を超えたものを誰もが感じ……畏怖し、飲まれ、歓喜し――それに浸る以外のことができなくなる。


 ジールもまた、いつの間にか頬に熱いものを流しつつ、同じ状態のアイナと共に五拍を踏み、踊り続けていた。


 今、自分は恋人とつながり、この場にいるあらゆる人とつながり、神々とつながり、生きているこの世界の全てとひとつになっている。


 巨大すぎるのままに――。


 どれほど時が経ったのか、自分が何をしているのかすらわからなくなってきて……。


(楽しいでしょう、ご主人さま?)

(ああ…………こんなに楽しいものだったのだな)

(よかった。誘った甲斐がありました)

(今になって、新しく知ることがあるとは)

(まだまだ、沢山ありますよ。一緒に経験してゆきましょう、めんどくさいなんて言わないで)

(ぬう)

(わたくし、ずっと――あの時、月の下で、踊ってみたかったのですよ)

(すまなかった。あの時は知らなかったからな)

(また、あそこに行って、踊りましょう。グライルの最も深き場所で。二人きりで)

(ああ。お前と、二人で)


 どこかで、愛に満ちたやりとりが聞こえたような気がする。


(感謝いたします、ジール様)


 自分に向けられた声を聞いたような気もする。


(あなたには、舞踏の才はもちろんですが、たぐいまれな、『部下を幸せにする才能』があります。あなたの奥方にもまたきわめて優れた『助言する才能』があります。あなたはお父さまの後を継いで良き知事となり、どの場所であろうと治める地の人々を幸せにすることができるでしょう。ぜひとも、この愛すべき人の世のために、その才を生かしてくださいませ)


 美しい声と、並び立つ美麗な存在は、静かに訪れた宵闇、その奥へ踏みこんでいったかのように、静かに消えていった……。



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