月華の舞 09

      9


 美しい「存在もの」だった。


 人のかたちをしているが、人であるとはとても信じられない、超絶の美しさ。


 長い黒髪。

 宵闇そのものの結晶のよう。なめらかで、つややかで、見ているだけで心地良い闇に吸いこまれてゆきそうな深い色合い。


 女性の肢体。

 成人男性であるジールとほとんど同じくらいの、女性としてはかなりの長身。

 その姿が、男性のような装いに包まれている。


 ドレスではなく、軍服を思わせる、あちこちを詰めたぴったりした上下。

 脚が長く、腰が豊かで、くびれは美しく、胸元は見事に張り詰めている。魅惑的な女性の肢体が、デザインだけは男性ものの衣服によって、逆にこの上なく強調されている。


 色合いは地味きわまりない薄灰色が基調。

 しかし布地が最高級の艶を帯びたものである上に、到るところにきらびやかな白銀があしらわれており、ボタンやちょっとした縫い付けにも金や真紅など目を引く色合いが使われていて、全体としては地味とはほど遠い、最高級の装いであった。


 そしてその地味さは――相手の存在によって、逆に最高の美しさへと変化するように考えられていた。


 かぶりものを取り、華やかな髪から美麗な顔貌からすべてをあらわにした、カルナリア姫。


 白を基調にした古風なドレスの上にあちこち華やかな色合いの装身具を身につけ、何より輝かしい色合いの美しい髪の彼女と共にあることによって、漆黒髪の男装姿は、二人でいるからこそ完成されるこの上なく調和した美の化身となるように仕向けられていたのだった。


 ある鳥の形状の刺繍ししゅうが、男装の麗人の襟元に縫い付けられていた。

 突如店を閉じた名店の看板に採用されている意匠だった。

 先日、その店で大勢の失神者が出た理由がであることは、事情を知る者には即座に理解された。


 それも当然だと納得しうる、麗しさをきわめた肢体と、美しすぎる顔貌がそこにあった。


 目はスッと切れ上がって、鼻筋は通り、唇は色鮮やか。

 造形のすべてが光彩を帯びているようだ。

 およそこの世のものとは思われない、美の極限。


 まさに地上に降臨した女神。


 その天上の女神に、地にあるものとしての美をきわめた姫君が寄り添っている。


 美麗そのものの二人は、手に手を重ねて、踊りの場に進み出てきた。


「さあ」


 姫の声が聞こえてきた。


 ただ一言だが、喜びをきわめた、耳にした誰もが温かいものを胸に宿す――愛に満ちた声。


 姫が手を引く女神は、女性のはずなのだが男性側の立ち位置をとって、姫と向かい合い、手を重ね、腰に手を回した。


 姫は、圧倒され硬直していた楽団に、ほんのわずかに視線を向けた。


 それだけで、弾けたように楽士たちは動き始めて、たちまち優雅な音楽が流れ始めた。


『ドゥルム』。ゆったりした四拍子の、簡易な踊り。


 美姫と女神は、ダンスを学び始めた子供のように、ごくごく基礎的な動きから始めた。


(………………ああああああああああっ! そういうことかあああっ!)


 言葉を失っていたジールは、心の中で絶叫した。


 わかった。

 すべてが理解できた。

 あの姫君の、不思議な要求の理由も、ねらいも。


 美しすぎる二人の動作が、徐々に難易度の高いものとなってゆく。

 ジールが先刻、求められるまま披露した通りに。


 ――そう、あの「カルナリア姫」は、ジールを教師として、模範として、として、基本から上級まで、ひととおりの動作をしてみせるように要求したのだ。


 あの女神に見せるために。

 自分の相手をする男性側の、お手本として。


 ジールにはすぐにわかった。

 黒髪の女神は、カルナリア姫の相手をする自分を、どこかから注視していたのだ。

 見て、学んだ通りに、体を動かしている。


 恐らくダンスなど一度もしたことのない身だ。

 人のものである舞踏を、女神が経験していないことには何の不思議もない。


 だからこそ、基礎の基礎から初めて、徐々に難しいものをと姫は要求してきた。

 あの女神に見せるために。

 教えるために。


 そして、ジールから学んだ男装の女神は、ジールの動きを正確に再現して、学んでゆき、みるみるうちに技量を高めていって……。


「…………」


 姫が、また楽団に視線でうながした。


 予告の前奏もなしに、即座に『トリュス・プレ』が始まった。第一拍を強調する三拍子の舞曲。

 ……ジールがあの姫君と踊った、そのままの順番だった。


 ここでもまた、基礎から始めて、女神はジールの動きをなぞり、自分のものとしていった。


 楽団以外の誰もが魅入られ、言葉はおろか呼吸すら忘れているような停止した世界の中で、女神はジールのお手本をひたすらに学んでゆく。


 そして――『カラントペンティラン』を含む、ジールが姫君と踊った全てが終わったところで。


 音楽が止まり、人々の時間が戻ってきて、賛美と動揺と困惑が渦巻いた。


 すべての者たちが注視する異様な状況の中で、遠巻きにされている二人は――いやカルナリア姫の方が、装いを変えた。


 額に、鏡を装着した。

 薄板状の額飾り、カルナリス。

 ただ、アイナをはじめ他の女性がつけているものとまるで違い、装着するなり虹色のような不思議な色合いに輝いてから、他のどれよりも鮮明にものを映し出すすばらしい鏡となった。

 なぜか遠くで、観客の老人が絶叫した。カランティス・ファーラと。


 その上で姫は、首にものを巻いた。


 若者たちの流行りの、色鮮やかな布――ではない。


 恐らく革の、何一つ飾りのない、質素どころかみすぼらしくすらある、首輪だった。


 そういうものを身につけるというのは、この国にわずかながらもまだ存在する奴隷階級の証。


 ジールは歴史の勉強の中で習った、偉大な女帝カルナリアの逸話を思い出した。

 まだ幼いと言っていい年齢で即位しなければならなくなった、辛苦の只中にあった女帝が、成人を迎えた際に堂々と宣言した文言。


 自分はこの国と結婚することとし、この小さな身は巨大な存在の持ち物であることを忘れないために、生涯この首輪をつけ続けることを誓います。


 舞踏がしたくてたまらず退屈な歴史の講義などどうやって抜け出すかしか考えていなかった少年時代に、捕まって無理矢理受けさせられた授業で、興味ないまま目に入れた女帝の肖像画の首まわりには確か、そのような粗末な首輪が描かれていたように思う。

 思い出してみれば、あの鏡の額飾りカルナリスもつけていたような。


(女帝その人を真似ているのか)


 そう思った次の瞬間、目を限界まで見開いた。


 姫君と向き合う女神が、剣を携えていた。


 つい先ほどまでは持っていなかったはずなのに。


 武人が腰につける剣、どころではない。

 長身女性の背丈そのものほどもある、湾曲した細剣だ。

 こちらもまた、姫君の首輪と同じく粗末きわまりない、粗布をぐるぐる巻きにした鞘と何一つ飾り気のない柄という、美麗な容姿と衣装に比べてどうしようもなくみすぼらしい代物。

 それをひもで、肩に吊している。


 姫君も女神も、どちらもみすぼらしいものを身につけた。

 ――そこでジールの脳裡に、女帝が慕っていたという剣士の話が浮かんだ。

 幼い女帝を助けてグライル山脈の逃避行を成し遂げ、女帝が最も信頼する者として側に置き続けた凄腕の女性剣士がいたという。

 悪辣な山賊を斬り捨てた、大蛇を一閃のもとに切断したなどの逸話をおぼえている。そういう強い者の話には興味を引かれ、記憶していた。

 何だか変わった名前だったが、思い出せない。


 あの二人は、偉大な女帝とその護衛剣士を模しているのか。

 人の世に降臨するにあたって、そういうをすることにしたのか。ジールはそう思い至り、納得した。


 いや――そんなことはどうでもよくなった、というのが本当のところだった。


 ジールを手本とした動きを学び終えた女神と、それを確信した姫君の表情が、変化したのだ。

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