月華の舞 07


      7


「1、2、3、」「1、2。」

 三拍子と二拍子を組み合わせた五拍のリズム。


 慣れていないと、つい六拍目を三拍子のつもりで踏んでしまう。

 慣れたつもりでも、気分が乗って油断すると六拍目をやってしまうことは珍しくない。


「第六神の信者」というのは、いにしえのカラント王国ではリズム感の悪い者への罵倒表現だったものだ。


 やや長めの前奏が続き、その間に自信のない者はぞろぞろと会場端へ下がってゆく。

 後に残った、決勝進出を目指す技量と経験の深い者たちが、分厚い人垣に囲まれる状態になった。


 そしてその残った中に、ジールは婚約者アイナの姿を見つけてしまった。

 やはり彼女も本選に進んできていたのだ。


 婚約者ではない令嬢と組んでいる自分。

 向こうも、自分ではない男性と組んでいる。


 ダンスの場ではよくあることではあったが、居心地の悪い思いを、ジールは抱かずにはいられなかった。


 ………………しかし。


 音楽が本格的に始まってしまい、カルナリア嬢と共に踊り出した途端に、ジールの頭からアイナのことが消えてしまった。


 完璧だった。


 一拍目、いやその前の組んだ時点でもう、ふわりとしたものがジールを包みこみ、踊ることそのものの快感が押し寄せてきていた。


 三拍、二拍。最初の五拍を終えただけでもう、このダンスに関しては、相手の方が自分よりはるかな高みにいることがわかってしまった。


 だがそれがまったくいやではない。

 敵愾心てきがいしんや劣等感などは一切湧いてこない。


 相手に引きこまれる。

 優しく、美しく、母のように姉のように、自分を導いていってくれる。

 自分もついていく。ついていける喜び。相手に追いつこうとする気持ちよさ、追いつけた達成感。

 そして共に並び立つようになって、五拍子のリズムが自分たちそのものとなって、肉体と精神が重なりあって、こころよい高みへ昇ってゆく。


 舞踏とは自分の体を動かすだけのものではない。

 相手と心身全てを調和させ、感動させ、自分もまた感動し、喜びを得るものだ。

 表情、動作、律動、音曲、さらに周囲の視線までも、すべてを感じ取ることができるようになり、また周囲に自分たちの存在を伝え広めることができるようになる。


 その真髄を、今まさにジールは体現できていた。


 理想の対手がここにいた。


 ジールは自分の知る限り、できる限りの技量を尽くした。

 その全てに美しき令嬢は難なく応えてきた。

 相手の瞳には心からの喜びが輝いていた。


「……失礼いたします。これを外します」


 わずかな停滞と別離。

 五拍が二度繰り返される間に、カルナリア嬢は、顔の下半分を覆い隠していた布を取り去った。


「これを踊るには、無粋ぶすいです」


「…………!」


 ジールの心臓が危険なほど跳ねた。


 目元と顔かたちだけでも、素晴らしく美しい女性であることは間違いなかったのに。

 あらわにされた顔貌は、高貴なる美、そのものだった。


 造形がすばらしく整っているというだけではない。

 若いことは間違いないのに老成を感じさせる底知れぬ瞳。

 高い技量を身につけるに到る長い研鑽けんさんを積んだ、すなわち相応の年齢のはずなのに、童女を思わせる本物のあどけなさをたたえた表情。

 一切正体を見抜くことができないのに、これは常人ではない、制度や家柄によるものではない本当の意味での「貴人」だと肌で感じてしまう。


「どうかなさいまして?」


 五拍子の動作を一切揺るがすことなく、美女、いや美少女、いや姫君は、不思議そうに訊ねてきた。


「どこかでお会いいたしましたでしょうか?」


 ジールは動揺し、ついそう訊ねてしまっていた。


 自分はこの姫君をどこかで知っている。そんな気がしてならない。脳髄を搾り尽くしても思い出せないのだが。


 カルナリア嬢、いやカルナリア姫は、小さく笑った。

 その瞬間は不思議なことに、この若々しさにあふれた美貌が、老婆のもののように感じられた。


「わたくしのことを知る人は、この場所にはいらっしゃらないと思いますよ。ここはこの時だけの場所、今はただ踊るだけの時。そうではありませんこと?」


「……おっしゃる通りです」


 ジールはうなずいた。

 踊ること以外は一切無用。カルナリア姫はそれを、踊りそのもので伝えてきた。

 ジールをもってしても対応に冷や汗をかくきわめて難しいステップを軽々とこなし、ドレスを美しくひるがえして一回転して、さああなたの番ですよと促してくる。どれだけ美しい容姿をしており気の利いた会話ができるとしても、ここで失敗するようでは意味がない。ジールの頭から余計なことが消えた。今しがた自分が支える手の下でカルナリア姫がターンを決めたように、カルナリア姫の手を取りつつ自分が一回転するのだ。体の全てを完全に制御しなければならない。

 決まった瞬間、すばらしい快感に包まれた。

 続いて手を離し二人が同時に回転し、再び向かい合いまた手を重ねた瞬間には、自分はこの時のために生まれてきたのだと確信した。


(ああ…………何と言う愉しさだ!)


 ジールは舞踏だけの存在となり、カルナリア姫もまた、自分と共に舞うことのできる相手がいてくれることに心から感謝し、喜びに満ちて踊っていることを深いところで確信する。


 そうだ、踊るとは、他人と――自分の外のものと、こうしてつながることなのだ。


 いつまでもいつまでもこうして二人で踊っていたいとジールは願った。


 ……だが時が来てしまった。

 終止和音が鳴り響き、五拍子の、神々につながる世界は終結する。


 二人は手を離し、互いへの敬愛を示して深々と礼をした。


 大きな拍手が耳を打った。


 気がつけば、無数の視線が自分たちに向けられていた。


 いや、周囲の全員が、自分たちを見つめていた。


 自分とカルナリア姫が周囲の者たちとは冠絶した踊りを披露していたことに、ジールはそこで初めて気がついた。


 アイナが、感動の面持ちで拍手してくれていた。


 世俗的なことが頭に戻ってきて、ジールは名残惜しくもカルナリア姫から離れようとする。

 すばらしく魅力的な、一生忘れられないかもしれない相手ではあったが、婚約者のいる身で違う女性に執着するのは良いことではない。


 ――しかし、今度はカルナリア姫が、ジールの手をとらえた。


「『トリュス・ロワ』ですわね。お願いします」


 上気した肌、快感と興奮に潤んだ瞳で求められ――すぐ始められた前奏からそれとわかると、ジールは断ることができなかった。


 五拍子の『カラントペンティラン』の直後に、三拍目を強調する『トリュス・ロワ』というのは、格式高いものを緊張して踊り終えひと息ついた者たちにさらに試練を与えようとする、意地悪い審査員の目論見に間違いなかった。


 実際、始まると、「第六神の信者」が続出した。1、2、「3」の強調拍を踏むと、先ほどまでの名残でつい次を二拍にしてしまい、乱れてしまうのである。


 ジールは乱れることはなかったが――カルナリア姫もまた、まったく心配いらなかった。


 そしてここでもカルナリア姫は、あれほどの卓越した技量を示したばかりだというのに、『トリュス・ロワ』の基礎の基礎から、段階を踏んでの動作を要求してきた。


 舞踏そのものの最高度の魅力を体感したばかりでのそれは、不満といえば不満ではあったが、もちろんジールにはこの謎の多すぎる姫君の望みに反するような真似はできない。

 そもそも、この相手は導けば導いただけ進んできて、どこまでも高いところに達することができる存在だということをすでに知っている。


 乾いた布が水を吸収するように、カルナリア姫はたちまちジールの持つ技術の全てを引き出し、自分のものにしていって……ジールもまた己の全てを出し尽くし、再び踊りそのものの魅力に没入できる域に入りこめそうになり……。


「君、いいかね」


 そこで音曲は終了してしまい、さらに横合いから現実そのものの声をかけられた。


 華やかな衣装を身につけた、審査員の使いだった。


「舞台へ」


 ひとことだが、その意味は明白だった。

 決勝進出だ。


 まだ日没までには猶予があるのに――ジールのこれまでの経験でも、この時間に進出者が決まるのは異例だった。


 目立つ格好の使者が来たということで注目されており、その意味も当然よく知られており、周囲から大きな喝采が投げかけられた。


 そして当然、対象は自分だけではなく――。


「カルナリア嬢、あなたも……ですが……」


 ジールの胸は落ちつかない高鳴りを示した。


 素性はまったくわからないが魂が共感しあう心地を得ることのできた、この素晴らしい姫君とさらに舞踏を共にしたいという欲望。


 一方で、婚約者および父親や周囲の人々の目の前でそのような振る舞いは許されるのかという現世のしがらみも心によぎっている。


「辞退させていただきますわ」


 カルナリア姫は、まったくためらいなく、笑顔で告げた。


「わたくしは、心に決めた方と踊りたいのです」


「………………」


 辞退は、そう珍しいことではなかった。

 ジール自身がそもそも、優勝し「月華の君」の称号を得た後は、婚約者のアイナと踊りたいと思っている身である。


 したがって使いの者も無表情でうなずき、ジールのみに、決勝進出者の証の、五色の花を飾った頭冠をかぶせた。


 巨大な喪失感と共に、ジールは離れてゆくカルナリア姫を見送った。

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