第10話「狼さんとの朝です。キャベツを添えて」


「ブラブは、聖域がどういうものか知っていますか?」


 藪から棒にも、魔女さん宅へ訪れた狼さんに問い掛けられたのは、そんな一言でした。他でもない、狼さんが買った食材をそこそこ広めの食卓へ並べていく最中の話であります。ぐうたら魔女さんは、片膝をソファーに立てながら、これまた狼さんを狼さんたらしめる魔導書を浮かせながらのことです。


「聖域て、あれだろ。魔女さんが作ったとかいう、神聖な土地だとか」


 狼さんにとって、突拍子もない質問や話題は慣れっこであります。いつだってそうで、いつもそう。だから、それがないと、狼さんは魔女さんの家に来た気がしないのです。


「大部分――それこそ民衆に広まった内容というのは、いつだって一部の情報でしかありません」


「……つまり、真実でないと?」


「いえ、真実です。事実、神聖な土地に違いありません」


 魔女さんはこれまた器用に、魔導書のページを捲ります。魔法で、ですが。不思議なものです。勝手に、風でも吹いたようなめくれ方をしていて、たった一ページだけしっかりと動くのですから。

 しかし、狼さんはそんなことより、魔女さんの唇の方が気になるのです。


「聖域とは、原初の魔女――ブラブの体を狼男にしてしまった人が、全世界各所に定めたものです。その場所には、必ず魔女――もしくは、魔法を使える者が配置されていなければいけない。そうしたのです。では、何をもって聖域とするか。神聖なものはなんでしょうか」


「…………神がかり的なやつじゃないのか」


「ブラブにとっては、魔法は神がかり的でしょう?」


 狼さんの言葉を否定せず、魔女さんは付け加えます。そう、狼さんにとっては魔法ほど奇想天外なものはないのです。先日の妖精の存在よりも、魔女さんが本を浮かせていることだけじゃなく、面倒が極まった際には寝っ転がった自分自身を浮かせながらこちらに近づいてくることの方が、神がかりなのです。神の所業でしょう。

 しかし、そんなことが目の前で起きていても、なんとも思わないほどに、狼さんは慣れてしまっています。


「試しに、ブラブ。あなたへ問います。この本が浮いているのはどうしてでしょうか?」


「魔女さんが魔法を使っているからだろ」


「はい。魔法を使っています。正解です。……しかし、この本は果たして、どうやって浮いているのでしょうか」


「そりゃ、魔女さんの魔法が――」


 言いかけた銀色の口を閉ざす狼さん。はい、同じ答えになるものを魔女さんが質問するわけもないと気づいたのです。そして、これは二つ目の質問なのです。

 設問なのです。

 だから、狼さんは考えます。キャベツを手にしながら、思考を巡らせます。

 かといって、答えが見つかるほど狼さんは魔法に詳しくありません。魔法による影響が体を縛り付けている存在ではありますが、だからといって長年の魔法体系を説明できるだけの知識もないのです。

 そんな狼さんを見かねて、魔女さんは桃色の舌を覗かせます。


「難しく言いましょう。この本は魔法で浮いています。ですが、私はこの本そのものを魔法で浮かせているわけではないのです」


「……本当に難しく言う人がいることに驚きだよ」


 しかし、それだけ聞いても狼さんは皆目見当もつかないわけです。本は浮いている。けど、本自体は浮いているわけじゃない。じゃあ、どうして浮いているのか。

 そこら辺がさっぱりなわけで、狼さんは手にしたみずみずしい緑色の野菜の塊を持ち上げます。ついでに、空いた手も上げます。


「お手上げだ。降参。答えを教えてくれ」


 そんな狼さんの様子を見られたからでしょうか。魔女さんは、くくく、と少し嬉しそうな反応を示します。


「ごめんなさい。いじめているわけじゃないのですけど、ブラブがどんな反応をするのか知りたくて」


「……これ以上、変なことをされたら今日のおやつは抜きにするところだったぞ」


「あああ!? それは駄目です駄目です。絶対駄目です」


 魔女さんは焦ってしまいます。そりゃそうですよね。魔女さんは狼さんの料理に魅せられているのです。胃袋を掴まれて、ついでに紐で縛られているのです。いつだって狼さん次第で、魔女さんはひもじい思いをすることにもなりますし、美味しい舌鼓をうつことだってできるわけです。これには、魔女さんも慌てて、正解発表せざるをえません。


「正解は、本が備えている魔力を浮かせているのです。ほら、正解を言いました。だから、今日のおやつは無しだと悲しいことを言わないでください」


「いや、そんな泣きそうな顔をしなくても……おやつはちゃんと作るから」


「…………はぁ、良かったです。ブラブのご飯はとても大好きですが、おやつはもっと好きなのです。無いと困りますから」


 ……狼さんは、少し思案します。

 こんな魔女さんだっただろうか、と。過去も思い返します。昔、それこそ、この家へ来たばかりの時は大変頼もしい存在だった彼女が、いつの間にか泣きべそかきそうな、お菓子一つで一喜一憂する感情の起伏を見せるのです。

 だから、狼さんはこんな威厳を感じない魔女さんにしてしまった責任感さえ、不必要にも感じてしまうのです。

 ――そうやって、素直に褒められたことを認められないだけなんですけどね。恥ずかしいだけです。


「そ、それより。魔女さん、本に備わっている魔力て、やっぱりその本は呪いがかかっているてことじゃ」


「いえ。呪いはもう欠片も掛かっていませんよ。安全そのものです」


「じゃあ、魔力て」


 狼さんにとって、一般の人にとってと、魔女さんにとっては、大きな違いがあります。

 それは魔法を使えるだけではないのです。

 魔女さんの赤い瞳が、ルビーの宝石が狼さんの銀毛を照らします。優しく。穏やかに。先程まで子どものように泣きべそかきそうだった彼女が、大人びた淑女の微笑みを狼さんの神経を刺激します。


「この世の全ては、この世のどんな物にも魔力は宿っています。本、机、椅子、木材、土、水、石、火、風にだって。私達、魔女はその宿っている魔力に魔法を掛けて、動かしたり、形を変えたり、時には全くの別物にだって変えたりするのです」


 狼さんは、見蕩れます。魔女さんの姿に。

 同時に、先程まで威厳のへったくれもない姿を見て、罪悪感を抱いていた気持ちにも右の拳を打ち付けます。

 今、狼さんの目の前にいるのは誰でもない、魔女さんです。神々しく照らされた金の絹糸が、艶やかな存在たらしめている彼女は、どれほど狼さんにとって綺麗に見えたことでしょう。

 知的な美しさに、思わず狼さんも息を呑んでしまいましたが、魔女さんはそのことに気づいていないようです。それだけ、狼さんのポーカーフェイスが上手だったからのもあります。というより、魔女さんにとっては話の内容に驚いていると思っているのでしょう。

 愛らしいすれ違いとやつに、魔女さんは勇んで突き進みます。


「つまり、最初の話に戻ると。聖域とは、魔女が介入しなければいけない領域を指しているわけです。定期的に魔力を消費させるか、循環を円滑にしなければいけない土地を聖域としたのです」


 しかし、ここで狼さんは意識を取り戻します。

 大事な話ですからね。魔女さんに見とれるなんて、いつだってできるわけですから。そんな彼は、純粋な質問を投げかけます。


「循環て……妖精とかか?」


「いえ、地球です」


 あら、思ったより大きな話に狼さんはまん丸なお目目を、さらに丸めます。いえ、飛び出させます。


「え、はぁ? 地球て」


「先程も言った通り、物には魔力が宿ります。土だろうと、その場で燃やした火にもその不思議な源を抱いて生まれてきます。だとすれば、私達が今いる世界。この大きな天体にだって、魔力があるのです。

 その大きな存在が抱える、膨大な魔力が交差する点――最も、魔力が集中しているところを『聖域』としているのです」


 どうやら、狼さんの目玉は帰ってきそうになさそうです。このまま、地球旅行をするのでしょうか。

 はたまた、この天体がよく見える成層圏外まで飛んでいくのでしょうか。

 どちらにせよ、スケールの大きな話に手から零れ落ちたキャベツが、狼さんの足に直撃し、生まれて初めて遠吠えをしたくらいには、拍子抜けな話だったのです。

 ケタケタ笑って、起き上がれないほどの爆笑に包まれた魔女さんに、涙目で堪え、恥ずかしさにも耐えている狼さん。


 二人は今、大きな世界の小さな家で。ほんわかと過ごしているのです。

 かつての魔女。悪戯好きな魔女のお陰で。

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