第9話「狼さんの朝です。早朝です」


 昨日の話でございます。狼さんに伝えられたのは、魔法の本にイタズラをしたのは、原初の魔女であって、なぜだか、狼さんがその被害にあっていたこと。それを聞いて、さぁ、詳しく話を聞かせてもらおうかと狼さんが住まいを正すと、魔女さんはキセルから息を吸い込み、吐き出しながらのついでに語るのです。


「詳しい話を聞きたいでしょうけど、残念ですがブラブ。明日にしましょう。私もあなたへ伝えるための準備をしたいのです」


 そう断られたのです。しかし、仕方ないのです。その夜はそこそこ冷えていたのもありますし、こういった場面で魔女さんが狼さんに内緒にしていたであろう喫煙をしていたのですから。なにか、魔女さんにも思うところがあるのでしょう。

 なにより、ここで「でも」と引き下がらないのは、狼さんにとっても良くないことなのです。なにせ、狼さんの状況を察して、なんとかしてくれている魔女さんに仇を返すことにもなるのですから。

 だから、叱られた子犬のようにしょげながら帰宅の道を進む狼さん。その後ろ姿を見ながら、魔女さんは申し訳なさといまいち覚悟の決まっていない顔で見送るのです。


「…………なんで、ブラブ」


 その言葉が煙に巻かれて、空気に消えた頃。辺りを優雅に飛行する妖精達は、あちらこちらの草花を思いつくままの変化を促していました。



 そんなこともあるわけですから、狼さんも気になって気になって、夜もなかなか眠れない――寝付けない朝を迎えたわけです。身に入らない中でも歯磨きをして、簡単な朝食を胃袋の中へ押し込めば、いつの間にか出掛けていたのであります。日課ですから、虚ろ虚ろの思考でもなんとなくの行動ができるのです。

 ちゃんと、魔女さんのところへ持っていく籠も手にして、借りた一室から出ていきます。アパートみたいなものです。一室借りて、家賃を払っている限りは住居としても問題ないものです。まぁ、その中に狼男が住むことなど家主は想定していなかったでしょうけど。

 それでも、狼さんが大きな扉を開いて、外に出るとまだ太陽が寝ているようでした。冬ですからね。


「…………さっむ」


 早朝の空気はよく澄んでいる分、人間の脳みそを震わせます。おかげで生きていることを実感するような、命の温かさもこの輝いた不在者の空間は、さすがの狼さんでも鼻をすするわけです。

 街並みは静かに。空気も静かに。辺り一帯の気配がしんなりとしていて、狼さんだけの世界かと錯覚してしまいそうですけど、そうもいかないのです。そうじゃないのです。狼さん以外にも、人はいます。


「毎朝早いわね。ブラブさん」


 玄関先に出てきた狼さんへ話し掛けてきたのは、穏やかな表情をして、それでもなぜか右手に携えているのは箒でも食材の入った籠でもなく、酒瓶を持った老婦人と呼べるくらいの美魔女さんでした。

 えぇ、酒瓶です。空いています。というか、狼さんに話し掛けては、一口直飲みしています。恐ろしい酒豪です。ですが、狼さんはそんなことも慣れっこなんでしょう。驚いた様子はありません。


「おはようございます。大家さん」


「はい。おはようございます。毎朝、魔女さんのお手伝いで精がでますね」


 またもや、大家さんと呼ばれた女性は、茶褐色の髪をなびかせながら、口に酒を含みます。

 ほわー、と狼さんの鼻には果実酒ではない、純粋なアルコールの匂いがするのです。それこそ、狼さんの鋭敏な嗅覚では刺激的な臭気に、思わず涙目になります。


「大家さんは朝から飲みすぎじゃ。体を悪くしますよ、こんな寒い時に体の内外を冷やしちゃ」


「これはただの水です」


 強情なのでしょうか。いいや、そうじゃないのでしょう。すっとぼけるのがいつものことなのです。狼さんが毎回出会う度に、毎回酒瓶を飲んでいく人の、軽快な冗談とやらです。

 つまりは、聞くつもりがないのです。狼さんからの忠告も、わかった上で聞かなかったことにするのです。

 だから、狼さんも意地悪にもなりますし、こう言われた時のために、籠の中へ仕込んでいた物を取り出す嬉しさもあるのです。


「じゃあ、マッチをつけましょうか。水なら燃えませんよね?」


「これは可燃性の水なので、火気厳禁ですよ。なにより、玄関先でマッチを使うことは大家の私が許しません」


「大家権限使うのは卑怯でしょ……。まぁ、風邪は引かないように、飲みすぎないようにしてくださいよ」


「はい、肝に銘じておきますよ」


「その肝が信用できないから言ってるんですけど……」


 こうやって、結局、大家さんには逆らえない狼さんでしたが、それがいつも通りの朝であるわけです。だから、狼さんも幾分か、気持ち的に動きやすくなったのは言わずもがな。大家さんの酒瓶に振られながら、石畳を履きなれたシューズで歩きます。軽快とはいえなくても、痛快ではあるので。自分の体が狼男であることは、これ以上ない自慢でもあり、自賛でもあるわけで、その理由を魔女さんから聞かせてもらうのも、楽観した方がいいのです。

 だって、毎日は変わりません。

 変わるとすれば、狼さんの見た目がスマートになるくらいのもので。後は、魔女さんの家へ持っていく籠の重さが軽くなるくらいなもので。

 つまるとこ、今より愉快ではなくなるけど、楽しくなるのは、違わないのです。

 そんな気持ちを――かつての自分だったら抱けなかったものを、大きく抱え、狼さんは朝市へと向かっていくのでした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る