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 けれど、ひとつだけ確かめておきたいことがあった。

 金曜日の夜、美咲はすぐに電話に出た。

「おおっと! 電話くれた」

 外にいるらしい様子が電話口からも分かる。

「また残業か」

「もう駅出たとこ。もうすぐおうち。青森どうだった?」

「気が済んだ」

 毎日暑くてイヤになる。そんな世間話の後、彼女は「やっと会社辞めることになった」と言った。

「こんなこといったらアレだけど加賀くんは帰ってこないし、向井さんもいないし」

「まだ空気悪い感じなのか?」

「今はそうでもない。吉田さんの産休の話ってしたっけ?」

 吉田というのはおれたちよりも歳上で、あそこでけっこう長く働いている女性だ。

「聞いてない」

「いなくなってけっこう雰囲気変わった。あの人なんだよ、騒いでたの」

 おれも在職時には吉田の言動にうんざりさせられたから「うん」とだけ返事をした。

「でも電話くれてよかった。あんまりしつこくしてもヘンかなって思ってたから」

「つい約束しちゃったからな。メシ連れてくって」

「“つい”ってなんだよ」美咲は電話口でむくれる。

 おれは訊きたかったことを切り出すことにした。

「冬にさ、おれんとこで鍋やったじゃん?」

「うん。なんか――まあ、楽しかったよね」

 彼女はちょっととぼけるように答えた。あまり思い出したくないのかも知れない。

「でもあの時、急にいなくなったろ」

「ああ、あれね」

 これまで理由はあえて訊かないでいた。あのとき来ていた他の連中もそうだろう。

「ケータイ鳴って。佐山さんから」

「なるほどね」おれはため息をつくようにあいづちを打った。

「それがけっこう緊急事態で」

「緊急事態?」

「奥さんに知らせたやつがいたんだよ。奥さんから社長に連絡があって、それでって感じ」

「吉田さんか」

「たぶんね。で、そんな話、みんながいるとこでできないし」

 歩いている美咲の気配が伝わる。嫌なことを思い出させてしまったなと電話口に耳を澄ます。

「でも、どうして急にそんな前のこと?」

 おれはなんとなく用意していた言い訳をする。

「いつも行く居酒屋で飲んでたら、大将がお前のこと見たことがあるっていうからさ」

「なにそれ」

「たまには誰か連れてこいっていうから、おれ友だちいねえしって話をしてた」

「しょうもな」美咲が鼻で笑う。

「でも、いつの話だろ?」

「駅で待ち合わせしたじゃん。そのときだって」

「なんだ、ひとりで出ていった話、関係ないじゃん」

「まあ、思い出したから訊いておこうと思ってさ」

「でも外出たときじゃなくてよかったよ」

「なんで」

 美咲のふぅという吐息が聞こえた。

「あたし、あのときボロボロ泣いててさ」

「お前が?」

「なんかあたしバカみたいって情けなくなっちゃった。で、駐車場のすみっこで隠れて泣いてましたですよ、ええ」

 しゃべっていて自分でも恥ずかしくなったのか、彼女は少しおどけた。

「隠れるとこなんかないだろ、あそこ」

「車の陰でしゃがんでた」

 きっとそれだ、とおれは思う。

「青い車じゃなかった? スポーツカーみたいなやつ」

「そこまで覚えてないけど――」美咲は戸惑ったように黙った。

 そして何かを思い出したらしく、また自分から喋りだした。

「あの夜ってめちゃめちゃ寒かったじゃん?」

「そうだったかな」

「うん。でね、すごくあったかかったんだよ。その車にくっついてると」

「くっついてた? しゃがんで?」おれはちょっと呆れる。

「そう。思い出した。タイヤとかぶっとくてさ、こんな車でどっか行っちゃいたいなーとかも思った」

 彼女の姿を想像して、悪いとは思ったがおれはつい笑ってしまった。

「ほんとあんなの怪しすぎだって」美咲も笑った。

「でもさ、よくその車だってわかったね」

 おれは適当にごまかす。

「誰かかお前見つけたとき、駐車場の奥の方にいたって言ってたから。あの車かなって思って」

「ほんと、みんなには心配かけちゃった」

 美咲もそのあたりの記憶はあいまいなのかさらりと流した。そして「ちょうどいいや」といって話題を変えた。

「向井さんってもともと横浜とかあっちの人だよね。横須賀とかも詳しい?」

「最近はめったに行かない」

「海のそばに美術館あるとこ知ってる?」

「ああ観音崎か。あの辺なら子どもの頃によく連れていかれた」

 海は好きだが渋滞や人ごみが嫌いだった父親のせいで、家族で海水浴というとあの辺りが多かった。地味だけど大人になっても好きな場所だ。

「いっしょに行かない? 見たい企画展やってる」

「千葉からだとかなり遠いよ?」

「だから誰かにつきあってほしいんですってば」

 美咲はなんだかおばさんのような口調で言って、へへっと笑った。


                   ◎


 自分の町から南武線で終点の川崎まで行き、京急川崎のホームで美咲が乗ってくる電車を待った。美咲が品川を出るときによこしたメッセージの通り、彼女は一番後の車両のさらに後のほうの席に座っていた。

 車内はそこそこ混んでいて、席を立ってこちらへ来ようとする彼女に、おれは身振りでそのまま座っていろと合図した。

 横浜に着くと乗客がごっそりと入れ替わり、そのタイミングでおれは美咲の隣に座った。

「そっか、横浜だもんね。みんな降りるよね」

 直接会うのは加賀の葬式以来だったが、彼女は毎日顔を合わせているような調子で言った。

「津田沼からじゃさすがにうんざりだろ」

 やっぱり車を出してやればよかったか、と軽く後悔する。が、仕事以外でハンドルを握るのが、このところ少し面倒になっていた。美咲も電車でいいと言った。

「そうでもない。こういうの久しぶりだから」彼女は後を振り返るようにして窓の外を見た。

 車窓にひしめいていたビルやマンションは、電車が進むにつれて線路から遠のいていった。金沢八景を過ぎると、なんとなく陽ざしの角度や空気が変わったような気がした。気のせいかもしれない。

「こっちは山? 崖? すごいとこに駅あるよね」美咲がまた背後の窓を振り返る。

 電車は追浜に停車していた。

「反対側は平たくて街になってるんだよ」

 この電車は快特じゃなかったんだなとぼんやり考えながら答えた。

「あっちにずっと行くと海。でかい自動車工場がある」

 言いながら、鮎川さんの言葉を思い出す。

 ――私も生まれたのは神奈川なんです。

 追浜に限らず神奈川県には自動車工場が多い。おれも子どもの頃に社会科見学で行った記憶がある。

 おれには薄気味が悪いとか、そうした感情はなかった。オーナーの元に帰りたかった彼女の健気さに、微かな痛みを感じるだけだ。それにしてもなぜおれだったのだろう。というか、おれは一体何を真剣に考えているのか。

「どしたの?」美咲が黙ってしまったおれに声をかける。

「なあ、小学校の社会科見学ってどこ行った?」

「お菓子の工場とかだったかな、ってか何それ」

 堀の内で浦賀行に乗り換え、馬堀海岸という駅で降りた。

 駅の近くから乗ったバスは、海岸沿いの道を、曲がり、登り、下りながら観音崎へ向かっている。美咲は窓の外を何も言わずに眺めている。だからおれも黙って東京湾を見ていた。もうすぐバスは着くだろう。美術館のすぐそばにバス停があるはずだ。

 秋の気配が微かに混ざった空は、あの東北の朝を思わせた。

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August Last 悠帆堂 @youhodoh

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