13
人が長く住んでいない家には、空き家の気配というものがあって、外から見てもなんとなくわかる。
新幹線の中で弁当をかき込み、浅い眠りを繰り返していた時から、奇妙な思いつきは妄想のように頭から離れなくなり、東京に到着する頃にはほとんど確信に変わっていった。
だから都内で何度か電車を乗り換え、地元の駅の改札を出るときには、たとえ何かが起きたとしても深追いはしないと腹を決めていた。
駐車場から見上げた203号室には、カーテンすらかかっていなかった。このマンションにシャッターや雨戸はない。
間口には、ただの留守ではない気配が漂っている。
スマートフォンに残されているはずの彼女の電話番号は誰につながるのだろう。
もしも彼女が電話に出てくれたとして、おれは何を話せばいいのか。
いつも通りの毎日がまた動き出した。
今日ももうすぐ仕事が終わる。会社を出たら混雑した夕方のスーパーに立ち寄り、家に着いたらシャワーを浴びて、飲んで寝るだけだ。
翌朝分の荷物を積み終えて事務所に戻った。松本さんがいつもの席でいつものように顔をしかめて運行日報を書いていた。
「お疲れです」隣に腰かけておれも用紙を広げた。
松本さんがボールペンをぱちんと鳴らし、胸ポケットにしまいながら言った。
「向井さん、こないだシルビア乗ってたじゃん? つか、あれワンエイティか」
おれはなるべく表情を変えないように自分に言い聞かせる。
「あ、うん。同じマンションの人の車」
「そうなんだ。すげえ似てるから驚いちゃってさ」
「似てる?」
「知ってる車。おれも2回ぐらい見かけただけなんだけど、あんなスバルみたいな色のやつ、ふつういないじゃん?」
「色のことはよくわかんないけど――」あれが純正カラーではないのはおれでもわかる。
「とりあえず最近あんまりいないよね、ああいう派手な改造車」
「おれの友だちのもそうだけど、いるとこにはいるんだわ。おれも何回か見物にいった」
知り合いというわけではないらしい。おれはなんだか胸をなでおろす。
松本さんが言った。
「でもさ、おれが見たやつは峠でクラッシュしちゃったんだって」
深呼吸でもしたいような気分だ。運行日報を書く手が止まり、視線が泳いだ。
「だから違う車に決まってんだよな」
松本さんはそう言いながら緑茶のペットボトルを口に運んだ。おれは関心があるわけでもなさそうに訊いてみる。
「けっこうでかい事故?」
「絡んでた2台とも全損。ドライバーもアウト」彼が口元をゆがめた。
いつも通り夕礼が始まる。全身の力が抜けてしまったように感じながら椅子から立ち上がった。
その仕事の疲れとはまた別の虚脱感を引きずって、そのまま真っ直ぐ帰宅した。マンションの駐車場に車を停める。鮎川さんのクーペがいたスペースはあれから空いたままだ。
あの日以来、なるべく何も考えないように過ごすようにしていた。
鮎川さんの電話番号は削除した。正確には、削除しようとした。しかし、登録も履歴も見当たらなかった。
だからもう考えるのを止めた。ほかにどうしろというのだろう。203号室のドアの前に行ってみることすらしなかった。違う階をうろうろして住民の目についても面倒が増えるだけだ。
駐車場から203号室を見上げる。
虚脱感の正体は悲しみなのだと、おれはようやく理解した。怖れは感じなかった。
別れるときの鮎川さんの笑顔を思い出す。
おれが誰かにあれほど喜んでもらえることなんて、めったにありはしない。
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