12

 目が覚めると、すでに陽は昇りきっていた。ラジオからは小さなノイズが流れている。周波数が合っていない。

 助手席には誰もいなかった。

ずらした身体を引き起こすように座り直して窓を開けた。朝のさらりとした空気が入ってくる。人はまだそれほど多くなかったが、サービスエリアの駐車場は連休らしい活気を帯びつつあった。

 鮎川さんが戻ってくる。

「おはようございます」

 彼女が助手席に乗り込むと、石鹸の匂いがふわりと薫った。

「これどうぞ」と缶コーヒーを手渡された。

謝らなければいけない、と思う。

「すみません、無茶して。だいじな車なのに――」

 鮎川さんは、なんで謝るのかわからないという様子で、ただ小首をかしげておれの目を見た。自分が寝ぼけて何かおかしなことを言ってしまったような気分になる。けれど、そんなわけはない。

 どう言葉をつないだらいいのかわからくなって、おれは「いただきます」と缶コーヒーのタブを引いた。

「窓、いいですか?」という彼女のためにイグニッションをひねる。彼女は助手席側の窓を全開にした。

「とってもいいお天気です。着いてしまうのが惜しいくらい」


 コーヒーを飲みながらぼやけた頭でスマートフォンを確認する。美咲からのメッセージが入っていた。あの後もしばらく起きていたのだろう。

 ――事故ったりしてませんか?

 返信をした。

 ――東北の夏の朝はすげえ気持ちいいよ

 即座に返信がある。眠らなかったのか、と思う。

 ――いいなー自分だけ

 ――すごい美人のおねえさんもいっしょなんだぜ

 おれはスマートフォンをポケットにしまった。

「ぼちぼち行きますか。目が覚めました」

 セルの回転音に引きずり出されるように排気音を吐き出して、鮎川さんのクーペも目を覚ました。


 本線にはすでにそれなりの数の車が流れていた。ファミリーカーが多い。おれはクーペの振動や異音を気にかけながらアクセルを踏む。これくらいの速度なら問題がないのか。それでもどこかが壊れていることに変わりはない。

 また、美咲から着信があった。

 ――うそくせー

 返信はせずにそのままスマートフォンをしまう。おれがニヤついているのに気づいたのだろう。鮎川さんが言った。

「いいですね。なかよし」

 おれは何も言わず、苦笑いのままで首を傾げてみせる。

「つきあっちゃえばいいのに。ふふ」彼女はいたずらっぽく笑った。

 クーペはすでに県境を越えて青森県に入っていた。

見覚えのある風景でも見かけたのか、彼女は背筋を伸ばすようにして遠くに視線を投げた。そして、明るい声で言った。

「これ、私が好きな人の車なんです」

 おれはすっかりそのつもりで運転してきたのだが、考えてみれば彼女の口からそれを聞いたことはなかった。

「彼は向こうにいるの?」

「今はまた、別のところに行っているかも」

「はっきりわかんないんだ?」

「ええ。なんだかおかしな話でごめんなさい」

「運んじゃって大丈夫かな」

「それは――」彼女は少し間をおいて続けた。

「あの人の実家に話してあります」

 大鰐弘前インターの案内板の下をくぐった。これまでの距離を考えたら、もう着いたようなものだ。

「やっと返してあげられる。きっと喜びます」

聞こえない異音に、それでも耳を澄ますように、おれはクーペを静かにゆっくりと高速道路から一般道に降ろした。


「ここまで来たら道がわかります。この先のコンビニで交代しましょう」

 国道をしばらく走ったところで彼女が言い出し、おれたちは運転を交代した。助手席に座ると、自分が安堵とも疲労ともつかないもやもやしたものの中に倒れ込んだような気がした。

 澄んだ空気を抜けてくる朝の光がまぶしい。

歩道を中学生が自転車で走っていく。部活でもあるのだろう。律儀なヘルメット姿はいかにも純朴そうに見えたが、実際は毎朝だらだらとおれのトラックの進路をふさぐ東京の中学生と変わらないだろう。

 ぼんやりした頭に断片的な思いが浮かんでは消えていく。

鮎川さんの運転は、やっぱりスムーズで気負いも不安も感じさせない。これなら時間さえかければ、十分にここまで運転してくることができたはずだ。

 ――それにしても、昨夜のあいつは何だったんだ?

「あれでよかったんです」おれの心を読んだように鮎川さんが言った。

やはり夢を見ていたわけではなかったのだ。

「これなら目的地まで走れます。LSDの不具合はこの車の持病みたいなものです」

――LSD? ああ、足まわりを制御するやつのことか。

おれはあいまいにうなずく。

「私だけではここまでは来られませんでした。向井さんが運転してくれたからです」

「でも、今だっておれよりこの車にはずっと慣れている感じだ」

 鮎川さんがシフトをゆっくりと落としていき、信号で停まる。

「おかげさまで帰ってくることができました」

 そして彼女は静かに付け加える。微笑んでいるらしいのが声でわかる。

「もう追ってくるものはありません」

 脱力した身体に、得体の知れない寒気が走る――この人は、何をいっているのか。

「鮎川さん、もしかしてあの車のこと知ってたりするの?」

「もうすぐ着きます。駅前で降ろしていいんですか?」

 はぐらかされてしまった、と思う。しかたなくおれは答える。

「大丈夫。弘前は初めてじゃないから」

「来たことがあるんですね」

「うん。例によってひとりだったけどね」

 鮎川さんはハンドルに両手をかけたまま、ちょっと肩をすくめた。


 駅前のターミナルでクーペから降りて、大きく伸びをする。ほぼ予定通りの到着だった。メタリックブルーのボディがなめらかに輝いていた。

「本当にここでいいですか? まだお店も開いてない時間ですけど」

 一緒に降りてきた鮎川さんがすまなそうに言って辺りを見まわす。おれは駅のドーナツショップが朝早めの時間から開いていることを知っていた。

「とりあえずコーヒーでも飲んでから今日どうするか考えます」

 遠かったようであっという間だった気もする。時間の体感速度が夢に似ていた。ここでひとつ用事が済んで、鮎川さんともひとまずお別れだということが、なんだかうまく飲み込めない。

「気をつけてお帰りになってくださいね」

「ありがとう。鮎川さんも」

 彼女が再び運転席に乗り込むのを見守る。静かな朝のバスターミナルを這うように排気音が響き始めた。

 助手席側のウィンドウが、すっと下がる。

「ありがとうございました!」

運転席から彼女がのぞきこむようにして礼を言った。

 本当にうれしい時にはこういう笑顔をする女性なんだなと思う。おれも笑顔で片手を挙げて応じた。

 かつんとギアの入る音がしてクーペが滑り出し、おれから離れていく。昨夜ぶつけられたテールに目立った傷は見当たらない。おれはメタリックブルーの車体が県道に出ていくまで見送った。

ひとりになると、どんな顔をすればいいのかわからなくなった。とりあえず、空を見上げる。

 ――こっちは空が高いな。

 夢が続いているみたいだ。おれにとって朝は、夜よりもリアルなはずなのに。

到着後のことは本当に決めていなかった。どこか温泉にでも寄ろうかとも考えたが、ひとりで行ってもしかたがない。

 ――ひとりで行ってもしかたがない? おれが?

 ドーナツショップで一服しながらしばらく迷ったが、結局そのまま奥羽本線に乗ることにした。新青森で新幹線に乗り換えて東京に帰る。

 昨夜のドライブだけで今のおれには十分だったのだ。たぶん。

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