11

 深夜に運転を続けていると自分がいま空白の中にいたと気づく瞬間がある。

 いた、というのは、その中にいるあいだは気づかないからだ。眠っていたわけではない。眠いとも感じていない。

 むしろ眠気に苛まれていたときのほうが、後からいろいろなことを思い出せる。あれは何時ごろだったか、どの辺りを走っているときだったか。

 あの空白の中にいるあいだ、本当はどこを走っているんだろう。


 後続車のハイビームに気づくまで、おれはそんな空白の中にいた。鮎川さんはシートにきちんと腰掛け、うつむき加減で目を閉じている。

 後続車の眩しいヘッドライトがずっと追ってくる。純正のバルブではない。このクーペと同じようなチューニングカーだろうという気がした。

 速度計の表示は時速100キロというところで、確かに深夜にしてはゆっくりかもしれない。が、こちらは走行車線を流しているだけなので煽られる理由もない。

 おれは少し苛立ってきた。

 アクセルを踏み込もうかという思いが頭をよぎる。助手席を一瞥すると、彼女はやはり同じ姿勢のまま眠っていた。アクセルを踏むのではなく、逆に緩めることにした。

 車間距離が縮まる。おれは深く息を吸ってからゆっくり細く吐き出し、速度計の数字が落ちていくのを見つめた。

 街路灯に照らされて、ルームミラーからも後続車のディテールがわかる。走り屋風の古いスポーツセダンだ。ボディカラーはたぶんパールホワイトなのだが、くすんでやつれているように感じる。年式はこのクーペとそう変わらないだろう。

 運転席の様子まではわからない。黒い闇が詰まっていた。

 相手がそれ以上車間を詰めてくることはなかったが、ヘッドライトはハイビームのままだった。ずいぶん長く後ろに付かれている気がしてくる。が、実際はまだほんの数分しか経っていないだろう。

 突然、セダンはウィンカーも出さずに追い越し車線に移り、一気に加速した。並走する間もなく、赤いテールランプがかなりの速度で遠ざかっていく。おれが速度を維持したまま大きなカーブを曲がり終えたとき、前方にセダンの姿はすでになかった。


 次の小さなパーキングエリアに入ることにした。鮎川さんを起こさないようにゆっくりと停車する。

 ――とにかく、落ち着こう。

 自分に言い聞かせながらトイレに行った。耳鳴りとも静寂ともつかない何かが両耳にまとわりついている。顔を洗って車に戻ると、鮎川さんはそのまま眠っていた。声はかけずに出発することにする。必要ならば、また停まればいい。

 けれど、予感のようなものはあった。

 本線に戻ってからそれほど時間は経っていなかっただろう。また後方にハイビームの車が貼りついた。

 痛いような鼓動をどうすることもできない。深呼吸をする。どうする?

 そもそもあの白いセダンがなぜまた自分の後ろにいるのか。さっきのパーキングエリアにいたのか、それとも路肩で停車していたのか。

 いずれにしても偶然とは思えないかった。相手にしてはいけない、と思う。

 高速道路は再び山地にかかりつつある。アップダウンが目立つようになり、きつめのカーブも増えてきた。高速道路を降りる手もあるが、下道に逃れたところで追ってこられたら土地勘がない。鮎川さんも同じだろう。

 こうして迷っている間もセダンはぴたりとついてくる。

 アクセルを少しずつ踏み込んで徐々に速度を上げてみる。時速120キロを超えてもセダンとの距離は開かない。

 さらに踏む。何かをくぐり抜けたような感覚があってタコメーターが跳ね上がる。時速140キロを超えてもクーペは安定していた。おれのコンパクトカーではありえない感覚だ。

 が、セダンは即座に車線を変えると一気にこちらを追い抜き、前方に割り込んできた。テールランプの赤い光が目を射た。

 舌打ちが出る。かっとなった。自分が自分ではないような気がする。

 こちらの動揺を見透かしたようにセダンは車線を変えた。速度を落とし、またクーペの後方に回る。

 カーブが続き始める。回転数を落とさないようにエンジンブレーキを使いながらクリアする。時折、おれはラインをまたいで外に膨らんだ。自分の腕のなさにまた苛立つ。けれど、テクニックもへったくれもありはしない。こんな競争まがいのことなどやったことがない。

 コーナーを抜ける。鼻先が直線を向いたところで加速する、はずが、シフトミスで速度がするすると落ちていく。

 これ以上相手にしたら負ける。負けることが具体的にどういう状況を招くのかよくわからないが、負ける。

 ムリだ、おりるんだ。相手をするな。

 リヤに鈍い衝撃を感じた。瞬間、おれは何が起きたかを理解する。

 ――当てやがった。

 どうするべきか。その判断さえつかず、おれはルームミラーを睨みつけながらアクセルを踏み続ける。

 はっきりと、鮎川さんの声が聞こえた。

「加速してください」

 思わず助手席に顔を向けた。彼女はまっすぐに正面を見つめている。瞳に街路灯の光が映り、流れていくのが見えた気がした。

 彼女はもう一度、落ち着いた口調で言った。

「アクセルを踏んで。大丈夫です。向井さんも、この車も――」

 おれはシフトをひとつ落としてからアクセルを踏み込む。エンジンの悲鳴を気にせず引っ張り続けてから六速に放り込んだ。

 セダンとの車間が開いていく。R=300のプレートが視界をかすめた。

 シフトを落とし、車内に響く轟音に顔をしかめる。クーペは踏ん張りながらコーナーを抜けていく。ほんとに行ける――チューニングカーのことなんか何も知らないがそれがわかる。

 速度が落ちると、セダンは即座に詰めてきた。が、ルームミラーに映ったヘッドライトは、詰め切れずに外に膨らんでいく。次のカーブが迫る。いま何キロ出ているのか。メーターを見ている余裕がない。

 また躊躇なく車間を詰めてくるセダンにうろたえて、おれは外に膨らんだ。セダンがインに入り込む。このまま並走して寄せられたら中央分離帯に激突してしまう。おれは速度を落とす。が、やつも減速し、並走を止めない。

 クッソ野郎!――頭の中が激しく泡立ち、真っ白になる。

 アクセルを踏み込み、セダンの前に出ようとする。やつは即座に反応し、おれたちは並んだまま次のカーブに突っ込んでいく。

 一瞬だけ鮎川さんの姿を視界の端にとらえる。彼女は無言のまま声も上げない。何かを抱きしめるように自分の両腕を肩に回している。見開いた目が、それでも正面をにらんでいる。

 何者かがおれに言う――逃げるのは、終わりにしな。

 カーブが来る。

 おれはサイドブレーキを引く。後輪が滑り出し、車体が大きくスライドする。

 そう、ハンドルは外だ。

 ドリフトなんて雪の日のお遊びでしか知らない。

 けれど、わかる。どうすれば、どう車体が動くのかがわかる。

 セダンもカーブでは減速せざるを得ない。おれはセダンの鼻先に一気に突っ込むようにアクセルを踏み込む。セダンは車線を変えてクーペとの衝突を免れた。

 直線に向き直ると、2台は車線を入れ替わって再び並んだ。右肩にセダンの気配を感じながらおれは前方を凝視する。

 異様に拡がった感覚の中でおれは気づく。微かだがこれまでなかった振動を感じる。

 ――まずい。

 轟音に耳を澄ます。足まわりから異音が出ている。

「鮎川さん! やっちゃったみたいだ!」

 彼女は何も言わない。顔を向ける余裕はないが、彼女が黙ってうなずいたと思った。おれはアクセルを踏みつけていた足を浮かせた。

 白いスポーツセダンもスピードを緩める。まだ並んで走る気か。それともまたテールに当ててくるか。だが、セダンはさらに減速してかなりの車間を開けてクーペの後方に回った。

 ルームミラーに映るセダンのヘッドライトがふっと暗くなった。ロービームに切り替えたかと思ったが違う。黄ばみ、衰えた光が、年式相応の古びた車を思わせる。

 おれは深く息を吐いた。

 ――そっちもトラブルか。お互いここまでだ。

 セダンとの車間距離が少しずつ開いていく。おれはコンソールに目をやる。ガソリンがかなり減っている。

 ルームミラーから視線を外したのは、ほんの一瞬のはずだった。しかし、すでに白いスポーツセダンの姿はそこになかった。

 ――なんだ。いなくなっちまった。

 おれは何かに押しつぶされそうな気分になる。なぜ、こんなに寂しいんだ。いったい何が悲しいんだ。

 ルームミラーの奥へと街路灯だけが置き去りにされるように流れていく。

「向井さん――」やさしい声だった。

「車は平気です。まだ走れます」

 おれは彼女に顔を向けられなくて、正面を向いたままうなずいた。

「少し、休みましょう」彼女が言った。

 サービスエリアのグリーンの標識が目に入り、おれは考える。

 ――顔を洗おう。このわけのわからない涙をなんとかしないと。

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