10
いくつもの街灯を置き去りにしていく。時間と空間がそのまま重なり合ってひとつの流れになる。やがて、また別の街の灯りが視界に入ってくる。
眠れない夜には、この深夜の灯りのことを考える。いつか通り過ぎたあの街には、今夜も同じ灯りがともっている。その時間には車なんてほとんど通らないかも知れない。それでも街灯は誰も通らない道路を夜通し照らし続けているに違いない。
そして、あそこにはたぶん一生出会うこともない人々が暮らしている。試験勉強に頭を抱えている高校生がいるかもしれないし、焦りや不安を感じながら缶チューハイをすすっている若者もいるかもしれない。ケンカしている両親のかたわらで泣いている子どもはいないだろうか。見も知らないはずの人々は、すべて自分でもあった。
自分がしばらく黙り込んでしまっていたことに気づく。何は話さなくては、と思う。
「鮎川さんは、旅行とかしないしないんですか? 友達とか、彼氏とか」
ちょっと露骨な訊き方になってしまったかな、と思う。
「まわりにあまりそういう友達っていなくて」と彼女は戸惑い気味に話し始める。
「――つき合っていた人も、車に乗る時は峠道とか? そういうところでレースみたいなことをするのが好きで」
そこまで話すと窓の外の暗闇に顔を向けた。
この車のオーナーのことだろう。余計なことを訊いてしまった気がした。
「ああ、車好きはそういう人もいるよね。誰もいっしょにきてくれないのはおれと同じだ」
彼女は笑顔を見せると「そうそう」というように無言で何度かうなずいた。
胸ポケットのスマートフォンが振動する。運転をしながらディスプレイを見ると美咲からだった。メッセージではなく通話だ。何ごとかだろうか、と心がざわつく。もう深夜3時が近い。
「出ないと思ってた。ごめん」
美咲は声をひそめて済まなそうに言った。
「いいよ。今日は起きてた」
「なんか電波へん?」
「ドライブ中。ちょっと待ってて」
おれは後席に置いてあるデイパックを引っ張ってこようと手を回す。鮎川さんが気を利かせて手伝ってくれた。おれはジェスチャーで済まないと詫びる。
彼女も人差し指を「しー」というように唇に当てて微笑んだ。
イヤホンを出して耳に入れる。接続を知らせる短い発信音が鳴った。
「オッケー。話せる」
「いいなー。あたしもどっかいっちゃいたい」
「残念ながら津田沼はもうはるか後方です」
美咲は千葉県の実家暮らしだ。
「ちっ。どこいくの?」
「青森」
「えー? 何しにー? とか、あんま意味ないんだよね。向井さんの場合」
「よくごぞんじで」
彼女がしゃべるのを止めた。
「もしもーし、美咲さーん。起きてますかー?」おれは声をあげた。
助手席で鮎川さんが笑いをこらえて俯いている。
「うるさいなあ、寝てないって。えーっと、さ」
美咲にしては珍しく何かを言い出しかねている。おれは訊いてみた。
「この電話、何人目?」
「向井さんが3人目」
「へぇ皆さんご苦労なこった」おれは呆れた。
「1人目が問題でさ」
「――佐山さんか」
「当たり」ふてくされたように声を濁らせて、美咲はまた黙る。
おれはシートの上で腰の位置を少しずらし、美咲が話し始めるのを待ちながらメーターに目を向ける。上り坂が続き、エンジンの回転数が上がっていく。カーブも増えてきた。また山を越えるのだろう。
「ねえ」美咲の声が聞こえる。
「ん?」
「会うなって言って」
「はい?」
「もう会うなって」
助手席の鮎川さんは努めて気配を消しているといった様子で窓の外を見ている。
「うーん、確かにもう会わないほうがいいと思うぜ? 実際」
「いつもそういう言い方」
下りの大きなカーブにさしかかった。曲がり切り、直線に戻る。おれは言った。
「もう会うな。メシぐらいおれがいつでも連れてってやる」
返事はない。また次のカーブをシフトダウンして慎重にトレースする。
「ありがと――」美咲の声がした。「もう寝る」
クーペはなだらかな下り坂を素軽く転がっていく。きつそうなコーナーは見えない。
「ありゃ、切れちゃった」おれはイヤホンを外した。そして「すみませんでした」と鮎川さんに詫びた。
「彼女さん、とかじゃないんですか?」
「ぜんぜん。前の会社の同僚で」
「でもとっても仲がよさそう」
「どうなんでしょうね」
おれは鮎川さんに美咲のことを手短に説明した。
「けっこう気分屋なとこがあって、前にみんなでうちに来た時も、ぷいっと出て行って戻ってこないもんだから大騒ぎになっちゃったり」
「それってあのマンションですよね?」
あの騒ぎに気付いていたのだろう。いつもはひっそりしたマンションだから気になった住人はそれなりにいたと思う。
「だったら私、その人をお見かけしたかもしれないです」
美咲が外に出ていくときだろうか。それとも戻ってくるときか。結局、美咲は駐車場にいて、仲間のひとりが部屋に連れ帰ってきた。
「とても可愛らしい人――」
鮎川さんの声はやさしくて、親しい誰かを思い出しているようにも聞こえた。
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