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 日が暮れるのを待って駅前の居酒屋に向かった。

 明日も休みだし、自分で言いだしたこととはいえ、やはり鮎川さんとの青森行にプレッシャーを感じていたのかもしれない。

 駅前は、近隣の住人たちにとってあまり生活の中心という感じではなく、街の商店街も駅から少し離れている。駅自体もさほど大きいとはいえず、後から街に付け加えられた、どこかとってつけたような雰囲気があった。

 それでも改札に面した道路にはコンビニエンスストアがあり、いくつかの飲食店が並んでいた。どれもこぢんまりとした個人経営の古い店だった。

 その中の一軒に、たまに訪れる居酒屋があった。古くさい店の構えに反して大将は思いのほか若く、詳しく聞いたことはなかったが年齢は自分とそう変わらないだろうと思う。

 店の引き戸を開けると、いつもとは違った賑わいが圧になって向かってくるように感じられた。

「今日、忙しそうだね」

 大将は一人で店を切り盛りしている。たまに彼女らしき若い女性が手伝いにくるが、今夜はそれもないようだった。

「ぜんぜん大丈夫よ。寄ってって」

 手前に五席分のカウンターがあり、そこを抜けると奥は六畳間ぐらいの小上がりになっている。その小上がりに珍しく六、七人の客が詰め込まれていた。

 カウンター席に腰かけると、いつも通りに生ビールを頼んだ。選んだ肴もいつも通りだった。

 団体の幹事役らしい男性がカウンターまでくると、少し声をひそめるように「今日予算五万までなんだけど大丈夫かな?」と訊いた。

 成り行き上、駅前のこの店で飲むことになった一見さんなのだろう。少し離れた商店街まで行かないと他に居酒屋はない。

 大将が忙しく手を動かしながら「了解でーす」と答えた。オーダーにも彼はいつもそう返事をする。居酒屋ではあまり聞かない返事だ。口癖みたいなものらしい。

 ジョッキと突き出しの小鉢をおれの前に置きながら大将が苦笑した。

「うちで五万とかいったら食いきれないよ」

 向井も苦笑で返す。

 実際、安くて気楽に入れる赤ちょうちんといった風情だった。それでいて、近所には繁華街もギャンブル場も大学キャンパスもないから、タチの悪い酔客と居合わせるようなことがまずない。それが気に入っていた。

「景気いいねえ、団体さん」

「向井さんもどんどん連れてきてよ」

 いつも一人だ。まだ誰ともここに来たことはない。

「友だち少ないんだよ」

「またまた。前に改札のとこでいっぱいつるんでたじゃん」

 年が明けてすぐの頃か。まだ冬の話だ。前の会社の連中がマンションに来たことがあった。駅まで迎えに来た時に、たまたま大将が通りかかった。

「あんときは誰かの家で鍋パーティーやろうって言いだしたのが会社にいてさ」

 もう二、三年ぐらい前の出来事のような気がする。

「結局、一人暮らしでいちばん歳いってるのがおれだったから」

「なんだ、会場にされちゃったんだ」と笑いながら、大将は出来上がった料理を何品か小上がりに運んでいった。

 あの頃、若手社員たちの仲は悪くなかった。

 ただ、加賀が入院してあまり時間が経っていなかったし、美咲の不倫の件が徐々に露呈しつつあった。社内に何かしら澱んだものを感じていたのはおれだけではなかったのかもしれない。たまには誰かの家で飲もう、という話になった。

 その時は二十代の社員四人が、広いとは言えないおれの1LⅮKにやってきた。その中には美咲もいた。

 そういえば――小鉢の酢の物をつつきながら思い当たる。先週から美咲は連絡をしてこなくなった。

 とにかく加賀の状況を伝えようとしていたのだろう。心の中に今さらのように「済まないことをした」という後悔がくっきりと姿を現した。

 こういう鈍さには自分でもうんざりだった。


「お代わりどうしますっ?」

 厨房が落ち着いて手が空いた大将が声をかけてきた。

「ああ、うん。もうひとつ同じの」

 新しいジョッキが置かれる。酒は二杯ぐらい前からサワーに替わっていた。おれは言った。

「これでお勘定お願い。最近朝が早いからすぐ眠くなっちゃうわ」

 もう彼女が連絡をしてくることはないだろう――そう考えることで、逆になんとか後悔の念から逃れようとする。

 だが、思いのほか大きな欠落感のようなものをおれは持て余した。

 ――まあ、しかたないよな。

 本当はその欠落感にこそ正直になるべきなのに。おれはまたそれを酔いの中に放置してしまう。

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