06


 メタリックブルーのクーペのそばに、日傘を差した鮎川さんが立っているのが見えた。褪せたデニムにカットソー、セミロングの髪はすっきりと束ねられている。服装はいつもと印象が違うが、物静かな雰囲気は変わらない。

「この車で行ってみませんか?」日傘を畳みながら彼女は言った。

「よかったら運転してみてもらうのがいいと思って」

「そうですね」

 おれは気安く返事をした。が、運転席のドアを開けた瞬間、腰が引けた。座ったこともないようなバケットシートが目に入った。

「思ってたよりすごいや」

 素直に言葉を漏らすと、彼女は眉をよせて困ったような笑みを浮かべた。

窮屈そうに見えたシートは腰かけてみると意外なほど身体になじんだ。が、4点式のシートベルトなど締めたことがない。

「これ、どうやって締めるんだろう」

「そこにある普通のシートベルトをしてもらえば大丈夫です」

 鮎川さんはそういいながら自分も助手席でベルトを締めた。

ハンドルとシフトレバーに手を置いて、あらためてダッシュボードを眺める。小さなメーターが後付けで設置されている。ブースト計ってやつか、な? 聞きかじりの知識でなんとなく想像はついても、それが何の役に立つのかよくわからない。

 重い――と感じながらクラッチペダルを踏み込んだ。シフトレバーを左右に振るように動かして、ニュートラルであることを確認した。

 アクセルペダルに軽く足を乗せ、イグニッションをひねった。くぐもった排気音が車内に満ちる。ゆっくりアクセルを踏み込んでみる。

吹き上がるエンジンに驚き、おれは思わずアクセルから足を浮かせた。

「こりゃまいった」

 助手席に顔を向けると、鮎川さんはにっこりと微笑んだ。

 仕事でトラックに乗っていると、普通の乗用車でもアクセルの感覚が違って感じられる。自分の車でも仕事帰りにはしばらく違和感があるが、ギャップはそれ以上だった。

「じゃ、いってみますね」

 シフトを1速に入れて、あまりアクセルを吹かさないようにしながら、重いクラッチを静かにつなぐ。

 がくんと振動があってエンジンが止まる。

エアコンのファンの音だけが車内に流れる。

 エンストなんて何年ぶりだろう。

「強化クラッチというのに変えてあるそうです」他人事のように鮎川さんが言う。

「つなぐ前にアクセルを少し煽ってみてください。大丈夫、すぐ慣れます」

 もう一度エンジンをスタートして言われた通りにアクセルを煽り、回転を上げたところでつなぐようにしてみる。

 クーペはぎこちなく動き出した。

 低い車高で車幅感覚がうまくつかめない。車が変わると慣れるまでがもどかしい。運転は好きだが腕に覚えがあるというわけではなく、なにかにつけて要領も悪い。いつものことだ。

 おれは慎重に住宅地を抜けて幹線道路に出た。おずおずと走行車線を流す。

 目的のファミリーレストランの看板が見えてきた。減速し、ゆっくり駐車場に左折する。店は道路よりも少しだけ高い位置にあって、入口にはスロープが切ってある。普通ならそれほど気にかけるような傾斜ではないのだが、この車のアンダーに張り巡らされたエアロパーツはさすがに気になった。

 駐車スペースに車をバックで入れる。ウィンドウの向こうに仰々しいリアウィングが見える。

「古いターボ車なので、一応、という感じです」という鮎川さんの指示で、しばらくアイドリングをしてからエンジンを切った。

「青森は遠そうだ」

 溜め込んでいた息を大きく吐きだすと、鮎川さんは隣でくすりと笑った。


 交代でドリンクバーに行き、結局テーブルにはアイスコーヒーがふたつ並んだ。打ち合わせといっても簡単なもので、話すことはそれほどなかった。

「お盆休みはどうですか?」

 その時期なら深夜でもサービスエリアにはそれなりに人がいる。その方が彼女も安心だろう。口には出さなかったが、そう考えていた。

「私もそう思いながら来ました」

「日付が変わる頃に出発すれば渋滞はないし、それほど無理しなくても午前中に着けると思います」

「眠らなくていいんですか?」

「途中ちょっとウトウトさせてもらうかも知れないですけど、夜中に走るのはもともと好きだから」

 下道は使わない。距離は七百キロ程度だ。彼女と車は向こうに置いて帰るから、帰り道のことも気にしなくていい。特に問題はない。


 帰りの運転はいくらかスムーズだった。これなら行けそうだと少し安心する。

 信号で停止すると対向車線に会社のトラックがいた。毎日見ているとボディのくすみ具合で自分の会社のトラックはわかる。ナンバーを見なくてもどの社員の車両かまでなんとなく判別できるから妙なものだと思う。あれは松本さんだ。

 トラックにパッシングした。彼はいぶかし気にこちらを見てから、対向車線のドライバーがおれだと気づくと、手のひらをこちらに向けてダンスでもするようにくるくる回した。彼は仕事中にすれ違うときも必ず何かしらおどけたしぐさをする。

「あれ、うちの会社のトラックです」

「会社はお近くなんですか?」

「そう。土曜日だとみんなそろそろ営業所に戻ってくる」

「大変ですね。でも向井さんは?」

「おれは非番です。土曜日は隔週で休み」

 答えながら、帰ったら今日はもうすることがないな、とふと考える。

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