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 美咲のことが意識のどこかに引っかかったまま顔を洗う。昨夜は彼女が引き起こした不倫騒動のことを思い出し、何度か寝返りを打つことになった。

 彼女は妻子持ちの上司と関係を持っていた。程度の差こそあれ、社内のほとんどの者が気づいていたことだった。

 結局、男の妻が証拠を握って社長に知らせ、どういうやり取りがあったのかは知らないが、男は退職した。おれが会社を辞める二ヵ月ほど前の話だ。

 あの頃、ランチタイムの定食屋や夜の居酒屋で、おれはよく美咲の話し相手になった。相手の男について彼女が何かを話すわけでもないし、おれが何かを訊くわけでもない。カマをかけるようなこともしなかった。あの男の代わりといったところだろうと思いながら他愛のない会話につき合った。ただ、美咲はなかなかの美人だった。ともすればおかしな方に傾いてしまいそうになるつき合いを、おれはおれなりの慎重さでやり過ごしていたと思う。

 正直なところ、もう職場の人間関係には深入りしたくなかった。すでにその頃にはおれはおれで仕事にも職場にもうんざりしていたのだ。

 不倫に気づいていた連中の中には、おれに彼女の様子を探らせようとしたり、説得させようとする者もいた。そういう話も適当に受け流した。口を挟みたいなら自分でやればいい。そうでなくても消耗していたから、そんな空気に苛立ちを覚えた。

 いま思えば、滑稽な時期だった。あの会社の誰も彼もが美咲ひとりに振り回されていたように感じられる。

 ――ほんと、くだらね。

 歯ブラシを動かしながら、もごもごとつぶやく。

 だから、おれが退職したのは、美咲が直接の原因ではない。だが、それを後押しする出来事のひとつではあった。そして、彼女の件が少しとはいえ、自分の転職に引っかかりを持っていることが我ながら気に入らない。

 作業着に着替えて玄関を出た。まだ昼間のような力強さはないが、よく晴れた空が広がっている。

 朝は平等だ――好天の朝、時々そう思うことがある。

 夜にはいろいろな過ごし方があるが、そこには何かいつも格差のようなものがつきまとっているように感じる。自分には手に入れられない時間、自分には手が届かない体験。きっとおれはひがんでいるのだ。

 けれど、朝の気持ちよさには、そんなことはほとんど関係がない。

 玄関の鍵を閉め、外階段を降りる。エレベーターはない。

 今日も夕方六時頃には帰宅しているだろう。きっと大汗をかいてくたくただろうが、精神的に追い込まれるようなことはないルーティンワークだ。

 憂鬱ではない朝――それだけで今のおれは安堵できる。

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