02
寝覚めはあまりよくなかった。
美咲のことが意識に引っかかったまま顔を洗う。昨夜は彼女が会社で引き起こした不倫騒動を思い出して、何度が寝返りを打つことになってしまった。
彼女は妻子持ちの上司と関係を持っていた。程度の差こそあれ、社内のほとんどの者が気づいていたことだ。
結局、男の妻が証拠を握って社長に知らせ、どういうやりとりがあったのかは知らないが男は退職していった。おれが辞める2ヶ月くらい前の話だ。
あの頃、おれはランチタイムの定食屋とか夜の居酒屋でよく美咲の話し相手になった。男について彼女が何かを話すわけでもないし、おれから訊くわけでもない。カマをかけるようなこともしなかった。会えない男の代わりといったところだろう、と思いながら他愛のない会話につきあった。
彼女はなかなかの美人だったから、正直なところおれも連れ歩くのは悪い気分ではなかった。ともすればおかしな方向に傾いてしまいそうになるつきあいを、おれはおれなりの慎重さでやり過ごしていたと思う。職場の人間関係はあまり深入りしたくなかった。
もうすでにその頃には、おれはおれで仕事にも職場にもうんざりしていた。
彼女の件に気づいていた連中には、おれに様子を探らせようとしたり、説得させようとしたりする者までいた。そういう話も適当に受け流した。
そうでもなくても消耗していたから、そんな空気に苛立ちを覚えた。口を挟みたいなら自分でやればいい。そもそも相手の男の方に何かを言おうという者もいないのだ。自分も含めて。
思えば滑稽な時期だった。社内の誰も彼もが美咲ひとりに振り回されていたように感じる。直接の原因ではないが、おれの退職を後押ししたのは間違いない。
「まじ、くだらね」歯ブラシを動かしながら、もごもごつぶやく。
玄関を出るとよく晴れた空が広がっていた。鍵を閉めて外階段を降りる。エレベーターはない。支給されてからそれほど経っていない半袖の作業着が心地いい。
――朝は平等だ。
ときどきそんなことを感じる。夜にはいろいろな過ごし方があるが、そこには自分では手が届かないものが多すぎる気がする。自分には手に入らない時間や体験。きっとおれはひがんでいる。
けれど、朝の気分のよさには、そんなことはほとんど関係がない。
今日も夕方の18時には帰宅できる。きっと大汗をかいてくたくたになっているだろうが、精神的に追い込まれるようなことはないルーティンワークだ。
憂鬱ではない朝。今のおれは、それだけで安堵できる。
早朝の駐車場は、ほとんどのスペースがまだ埋まっている。あのメタリックブルーのクーペもいつもの位置にあった。
いつもと違うのは、運転席にあの女がいたことだ。
カツン、カツンとボンネットのあたりから断続的に音がする。セルが回っていない。
おれは運転席の女に窓を開けるよう合図した。
パワーウィンドウは下がらず、女はドアを開けた。
「バッテリーが上がっちゃったみたいで」
「ロードサービスとかは?」
「車の持ち主がいなくて保険の書類とかよくわからないんです」
女は表情を曇らせた。
「ケーブルあるから、ちょっと待ってて」
おれは自分の車まで行き、エンジンをかけた。通勤用に買った中古のコンパクトカーで、年式は女のクーペに負けないぐらい古い。他人に言うのも恥ずかしいような値段だった。
そのポンコツをクーペの前に停め、それぞれのボンネットを開いてブースターケーブルをつないだ。
「いけると思うよ」おれは女にエンジンをかけてみるように促した。
何かが回転し、擦れるような乾いた音が鳴る。そしてすぐに図太い排気音が朝の澄んだ空気の中に吐き出された。
ありがとうございます――声は聞こえないが彼女の口元でそう言っているらしいのがわかる。
パワーウィンドウが静かに下がったので声をかけた。
「降りなくていいですよ。そのままエンジン回してて」
おれはケーブルを外して、自分の車の荷室に放り込む。そして両方の車のボンネットを閉じた。
女は言われた通り、運転席で行儀よくハンドルに両手を置いていた。
「すみません」
「動いてよかった。そこのコンビニがある交差点知ってるでしょ?」
女はうなずいた。
「こっちから行くとあの交差点を左折して1キロぐらいかな。スタンドがあって24時間だから。今の時間だとあそこぐらいしかないんじゃないですかね」
「はい。あの――」
「じゃ悪いけど、おれ行きますね」
おれは急いで自分の車に乗り込む。女はクーペの運転席でハンドルに手をかけたままうなずくように会釈した。
何かを言おうとする彼女を遮るようになってしまい少しやましさを感じたが、今ならまだ多少いつもより遅い程度で遅刻にはならない。運転席から軽く片手をあげて彼女の視線に応えると、おれは駐車場から車を出した。
会社に向かってハンドルを握りながら思う。
もしかすると近くで見たら遠目とはずいぶん印象が違うのではないか。以前からそう考えていた。
しかし、実際に目の前で顔を合わせた彼女は、やはりどうしてもあの改造車とは結びつかなかった。
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