August Last

悠帆堂

01

 夕立の中を帰ってきた。

 浴室に直行してシャワーを浴びた。髪を拭きながらバルコニーの向こうを眺める。雨に煙った住宅が広がっていた。

 部屋は古いマンションの最上階にあった。最上階といっても4階に過ぎないが、視界を遮るような高い建物はない。バルコニーがある南側は広い駐車場だった。砂利が敷いてあるだけの空き地みたいなものだが、普通の乗用車なら20台分ぐらいのスペースがある。おれの車もそこに置いてある。

 マンションは多摩エリアの一角にあった。この辺りには計画的に整備された雰囲気はほとんどなく、かつての農道がそのまま道路になったような雑然とした街並みが広がっている。面白味のある風景ではないが、どこか落ち着く眺めでもあった。おれも似たような町で育った。近所に大きなニュータウンがあるのも似ていた。

 仕事を終えて帰宅しても、外はまだ明るい。家に着いてしまえば、激しい雨もどこか小気味いいものに感じられた。


 おれは耳を澄ます。

 雨音にまぎれて、今日もあの車の排気音が響いてくる。

 メタリックブルーのクーペが、ゆっくりと駐車場に入ってくるのが見えた。年式はかなり古い。発売から20年ぐらいは経っているモデルだ。

 クーペは未舗装の駐車場をぎこちなく進んだ。サスペンションをいじっているのが、さほど車には詳しくないおれにもわかる。ボディカラーもおそらく塗り替えたものだ。太く低い排気音は、これだけの雨の中でも4階のおれの部屋まで届いた。

 クーペはいつもの駐車スペースに収まった。

 これじゃまるでストーカーだ、と思う。古ぼけたマンションの窓辺で、おれは後ろめたさを感じながらもその車から目が離せない。

 運転席のドアが開く。車内から差し出された傘が開き、若い女がすっとクーペの外に降り立った。ドアをロックする。ピッという施錠音が、今日は雨で聞こえない。

 女は雨にあわてる様子もなく、静かにエントランスに向かって歩き出した。長いスカートと薄手のサマーニットが微かにそよぐ。あのヒールのサンダルで水たまりだらけの駐車場を歩くのか。つまらないおれの心配をよそに、彼女は静かに歩いていく。  仕事着の堅苦しさはないがすっきりとしたファッションは、例えばインテリアや雑貨のショップにいる店員を思わせた。

 つまり、車高をローダウンし、ボディをエアロパーツで固めた改造車を運転している女の格好ではないのだ。

 初めて見かけた時からそのギャップが気になり、今日のように帰宅のタイミングがあると彼女の様子を眺めてしまう。

 どの部屋に住んでいるのかは知らないし、さほど興味もなかった。普通に考えて、改造車は同居している男のものだろう。車も似つかわしくないが、この古ぼけたマンションも彼女にはあまり似合っていない気がする。

 彼女が視界から消えてしまうと、おれは窓際を離れてようやく照明のスイッチを入れた。


 なんとなく眺めていただけのバラエティ番組が終わり、おれはチャンネルをニュースに合わせた。まだ21時過ぎだが、ずいぶん夜が更けたように感じる。

 平日は部屋で酒を飲んでさっさと寝てしまうことが多い。今の仕事に就いてから、日付が変わるまで起きていることはめったにない。ついこの間までは帰宅が深夜になるのはいつものことだった。アルコールの匂いが澱んだ電車の空気をたまに思い出すことがある。

 半年ほど前、春にはまだ少し遠いかという時期にそれまでいた会社を辞めた。

 朝と夜で気持ちが変わり、日によって違う理由を探しているような何ヶ月かを経て、結局耐えきれなくなった。

 過ぎてしまえば大したことではなかったような気もする。

 大学を中退してから、こんなことを繰り返していた。仕事は真面目にやるほうだと思う。が、どうしようもなく煮詰まる時期がやってくる。どうやら周期的なものらしいと、今回の転職でようやく気がついた。

 とにかく、また辞めてしまった。

 転職ばかりの不安定な生活を続けてきたおれに、まとまった額の貯金などあるわけもない。おまけに働いていた広告の制作プロダクションでは、雇用保険にも加入していなかった。まともな企業に勤める友人は「考えられない」と首を傾げるが、おれのような人間でも潜り込めるような職場にはそんなところがざらにある。わかっていたし、諦めてもいた。

 しばらくしてあっさり食い詰まると、おれは以前に経験があった配送関係の仕事に落ち着いた。

 朝の6時過ぎに家を出て、夕方には帰宅する。いわゆる残業はほとんどなく、早出の手当てがつく。運送会社といっても大手の製品を運ぶグループ企業だから社会保険も雇用保険もある。普通の会社に正社員として雇われたのは初めてだった。


 ぼんやりとニュースを眺めていると、テーブルに放り出してあったスマートフォンが振動音を立てた。ひとりの部屋に振動音は驚くほど大きく響いた。

 画面の通知に目をやる。アプリは開かず放置することにした。

「さて、と」

 わざと声に出して立ち上がり、冷蔵庫に向かう。

「飲み終わると10時か」

 ひとりごとをいいながら、サワーの缶を開けた。

 メッセージは坂下美咲からだった。前の会社の同僚だ。きっと帰宅の途中なのだろう。やりとりをするのは気が進まなかった。話すこともない。

 いつもより一本多くなったサワーに口をつける。

 前の仕事を選んだとき、自分には見栄があったと思う。カタカナ商売を名乗るといくらか何かを挽回できたような気持ちになれた。やってみたかった仕事でもあったから、辞めたことに挫折感がないと言えば嘘になる。

 それでも、今のおれには安堵のほうが大きい。夜が更ければ自然に眠くなるし、目が覚めれば腹が減っている。慣れてしまえば妙なプレッシャーもない。あの頃のどこか無理をしていた自分を感じないわけにはいかなかった。

 けれど、今の生活も結局、長くは続かないのかも知れない。

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