第3章
うだるような暑さの中、三時間の授業を消化した後。
僕は一人、図書館に来ていた。
四時間目の授業は水泳ということで、見学するはずなのだが、プールの周りには日の光を遮る場所がないのだ。
図書館の中はヒンヤリとしていて快適だ。冷房のない教室で、肌にまとわりついていた蒸し暑さも消え失せた。
それに、今は司書の先生もいないため、完全に僕一人。図書館の中は物音ひとつない。
そんな快適な図書館の中で、本を探して歩きまわっていたとき。
突然、ドアの開く音が、僕だけの図書館に響いた。
「わ、誰もいない。しかも涼しー」
「よかったね、美紀」
そう話しながら、二人の女子が入ってきた。せっかくゆっくりできる時間だったのに。
本棚の迷路を縫って進む。机や椅子、ソファや円卓が所狭しと並べられている読書スペースに出ると、女子二人組と遭遇した。
先に口を開いたのは僕ではなかった。
「あ……、高野君」
「ん? あ、誰?」
そのうち一人は、僕が名前を知っている人物だった。
しかし、その隣の女子。後ろで一つにまとめられた、茶色がかった髪。女子にしては高い背。大人っぽさというものがおよそ感じられない顔。
「大凪さん。と……」
「あぁ、私? 私は
違うクラスだ。僕が覚えていないわけではなかった。
「えっと、二人は何でここに?」
一人の時間を奪われたからといって、その言葉が険を含むことはなかった。
壁にかかっている時計を見る。とうに四時間目の授業が始まっている時間だ。
「私は水着を忘れちゃったから。本当は見学するはずだったんだけど、トイレ行ってたら置いて行かれてさ……。それで彷徨ってたら、図書館に行こうとしてた一花を見つけたってわけ」
――まあ、そんなところだろうと見当はついていた。
しかし、一花がここにいる理由に至っては全く分からない。
「私は、その……」
「一花は去年と同じ理由でしょ?」
一花が答えようとしていたところを、美紀が遮る。
どうやら美紀は、見た目から受ける印象通り、口数が多く積極的に前に出ていくタイプの人間だのようだ。
「去年と同じ理由って?」
去年、一花とは別のクラスだったから、僕と同じように授業を休んでいる生徒がいることは初めて知った。
体が弱いわけではないのだろう。彼女は普段の体育の授業には参加している。なにか人に言えない事情があるのだろうか。
そんな推測に反して、答えはあっさりと返ってきた。
「月食病です」
「月食病?」
その言葉の意味を知らなかったわけではない。いきなり口にされた彼女の「病気」と、今ここにいることが全く結びつかなかったからだ。
一花の『月食病』は、月の光を浴びて症状が出るもの。
確かに、昼間にも月は出ている。だけど、その弱々しい光が彼女に届くとは到底思えない。もし届くのだとすれば、それは昼も夜も外に出られないということで、僕よりも大変な生活なはずだ。僕の知らないところで、一花も光を避けて行動していたのか……。
――などと思っていたが、それらは続く言葉で否定された。
「私、初めて発症した時から消えない痣が背中にあるんです。それを見られたくないから、先生に伝えて授業を休んでいます」
「な、なるほど……、って大凪さん」
二人がここにいる理由は分かった。それと同時に、あることに気づく。
一花は、美紀のいる前で『月食病』のことを口にした。
「森島さんは、その、病気のことを知ってるの?」
一花の『月食病』は、僕を除いてどの生徒も知らないはずなのだ。
僕の問いを受けて、一花がアッと口を開ける――ことはなかった。
「『月食病』のことでしょ? 知ってるよー」
「えっ?」
「あ、美紀は、以前言った私の病気を知っている友達です」
以前というのは、砂浜で出会ったあの日のことだろう。そんなこと言っていただろうか。
「私は一花の、幼稚園からの幼馴染。初めて『月食病』の症状が出たときより前から一緒だったから、私にだけ教えてくれたんだよね」
それなら納得できる。一花が『月食病』を話題にできたことだけでなく、名前で呼び合っていることも。
「だから、一花を認めてあげられるのは私だけなんだよね」
美紀がそう呟いたとき、その声も、その目も、ただの友人に向けるそれとは別のものになっていた。
「誰も、一花を認めはしない。話しかけようと、近づくことさえしない。ただ自分たちのグループで仲間意識だけ共有して、異質なもの、気にくわないもの、価値がないと思ったものを切り捨てていくだけ……」
一花がクラスで孤立するようになった理由は前にも聞いた。
彼女は、『月食病』が原因で歩みを止めてしまったのだ。
僕自身も、『月食病』のせいで友達がいなくなり、他人から異質なものと見做され、遠ざけられてきた。『月食病』は、一花とは違ってみんな知っているから、必要最低限の配慮だけされる。向こうから関わってくることは一切ない。こちらから話しかければ、冷たい目を向けられて、さらに距離を置かれるだけだ。
友達と呼べる人間は、一花と同じでただ一人。明斗だけなのだ。
外からは、どこか賑やかなセミたちの鳴き声と、生徒たちの笑い声や悲鳴が聞こえてくる。誰もが皆、今という時を楽しむのに忙しいのだ。
僕も一花も、窓の外に目をやっていた。すべてを飲み込むこの空に、ぽっかりと浮かんだ月。今も幽かな光を放っている。
その様子は絶海の孤島のようで、僕らを表しているようでもあった。
暗い表情になっている僕らを見かねたのか、美紀がパンパンと手を叩いた。
「はいはい、この話は終わり! 誰の幸せにもならないよ!」
美紀はガサツそうに見えても、根は友達思いなのかもしれない。僕らを気遣って言ったなら、だけど。
「ところで」
美紀が話題を変える。
「二人はどんな関係なの? ただのクラスメートってわけじゃなさそうだけど」
両手を組んで大きく伸びをしながら、純粋に気になったという口調で問う。
「美紀、高野君がこの前言った『太陽の子』だよ」
「えっ、そうなの?……へぇ、君があの『太陽の子』」
美紀が、ぐっと顔を近づけた。顎に手を当てて、品定めするような目を僕に向ける。
……というか、「太陽の子」ってなんだ。恥ずかしいからやめてほしい。
それはさておき、美紀が僕のことを「あの」と言ったのは、一花が「あの日」のことを話したからなのだろう。
「道理で、一花がうまく会話できてるわけね。いつもは話しかけただけで小さくなって、まともに話せないのに」
隣で一花が縮こまっている。
「一花ったら、キラキラした目で君の子と話してたよー。男子とあんなに話せたのは初めてだってね。そりゃ一花にとっては、命の恩人で人生初の友達みたいなものだから、忘れられないのは当たり前だと思うけど……。優しく話を聞いてくれたの、とか、心配してくれたの、とか、挙句の果てには『これは運命なのかも』とか言い出して――ふぐっ」
「ちょ、ちょっと、やめてよ美紀……!」
聞いてもいないことをぺらぺらと話していく美紀の口を、一花が慌てた様子で塞いだ。次々と暴露されていく一花の言動を聞きながら、そんな彼女を想像してしまったので手遅れだが。
「今のは忘れてください!」
「あはは……」
一花が顔を真っ赤にして言うが、脳が動かず苦笑いしかできない。美紀が話したことは、それほどまでに衝撃的だった。
――何故一花は、僕を否定しなかったのか。
――何故一花は、僕を忘れようとしなかったのか。
その自問が、脳内を占拠している。
それは一口にこたえられる問いではないのだろう。おそらく、彼女が優しいからという理由でもない。優しいだけの人間なら、嫌というほど見てきた。
彼らは皆、そういう仮面をかぶっているだけで、本質的には他の人間と一緒だ。
ごくまれに、誰に対しても本当にやさしい人間もいる。だが、そんな人間は、いつか自分を偽るようになり、心が死んでしまうだろう。
だからこそ、一花の言葉の意味を、深く考えてしまう。
「あれ、もうこんな時間じゃん」
いつの間にか一花の拘束から抜け出していた美紀が、時計を見る。
本当だ。僕がここに来てから、既に四十分も経っていた。つまり、あと十分で授業が終わる。
「私、教室戻るわ。一花は?」
「あ、私も」
僕はここで昼食をとるので、教室には戻らない。
「そっか、じゃあ――」
見送ろうと立ち上がったその時、気を失いそうなほどの激痛が走った。
「うぐっ、がっ」
―痛い!背中のあたりが、焼けるように痛い。
これは、『日食病』だ。あまりの痛みに膝を折ってへたり込んでしまう。
「うぅっ……」
「どっ、どうしたの高野君!」
「ちょっと、大丈夫!?」
二人が慌てた様子で駆け寄ってくる。
悲鳴を上げる体を、うめきながらもなんとか身をよじる。カーテンが風にたなびいて、日の光がちらちらと入ってきていた。
己の不注意を呪うのみだ。
「大丈夫、これくらいは……」
机をつかんで立ち上がろうとするものの、『月食病』の手はなかなか僕を放れず、ふらふらとして倒れそうになってしまう。
なんとか椅子に座る。ようやく痛みが消えたのは、一分ほど経った頃だった。
「えっと、もう大丈夫? 痛みはない?」
「あんた、あとで保健室行きなさいよ」
……そんな風に、誰かに心配されたのは初めてだ。
一花だけでなく美紀も、僕の痣を見ただろうに、気味悪がることはなかった。抱いた意外感が、口に出てしまう。
「どうして……」
それは、彼女たちの耳には届かなかった。
「ちゃんと周りを見て、常に気をつけなさいよ」
美紀は、一花がまだ何か言いたげにしているのを置いて図書館から出て行く。
「ほら、一花も行こ」
結局彼女は何も言わず、美紀の言葉にこコクンと頷き翻った。
そして、一人になる。
窓の外からはいつの間にか人の声が聞こえなくなっていた。
大勢のセミ達が、変わることのなく、絶えることもない音を鳴らしているだけだ。
そこに、チャイムの音が混じる。
僕の心は、暗く濁った水に一滴の清水を垂らしたかのように、言い表せない複雑なものになっていた。
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