★ 狛守さんと鼬くん:前編

神様が守る森の始まる山の裾、そこに立つのは山伏衣装の紹である。

「奥方様、帰りましょう。おいら、奥方様が泣くと、苦しくてここンところがぎゅうってなるよ」

後ろ足で立つ状態の今は、百五十程度になる金色の毛並みのいたちは胸のあたりに前足を揃え握った。

鼬の瞳には涙の膜が張り、目を閉じればそれがポロポロ零れそうだ。


紹はただ目の前の景色を見ながら、小さく呟く。

「うん」

紹の足元から少し先まではまだ山道であり、今でも『山の神様が使う神聖な道』とされて地元の人たちが月に一度、季節によっては月に二度、綺麗に整地している砂利道。

紹も狛守家の人間として、それには毎月欠かさず参加していた。

(なんだか、懐かしい話みたいだ)

これからはこの整地に参加する事は二度とない。

二度とできない。

そして、その砂利道が途切れ『山神様の住まう山』が終わったちょうど先からは、コンクリートで舗装された公道がある。

──────ここから先が人が住まう下界である。

そう言ってずっとずっと守られてきた。

この地域はこの山を、神聖なものと思いそれを大切にしているから今も、変わらなければこの先も、この山をコンクリートで歩きやすい山にするつもりはない。そもそも誰もそれを提案したことがない。

ここの人たちは皆、誰も知らない昔から決められた『ここまでが神界、ここからが下界』とされた境界線を守っていた。

それが当然の地域なのだ。


その境界線を見つめる紹を、泣きそうなのを堪えた鼬が見上げる。


「うん、って奥方様、何度目だい?嫌だよ、おいら、奥方様は笑ってるのがいっとう好きだ」

正面に回り飛び跳ねても紹の視線は山ではなくて街を見ていて、鼬は後ろに回り白く揃えた山伏衣装で唯一色の付いている引敷を前足で握ると引っ張る。

「奥方様、おいらを見てよ、奥方様」

「鼬さん」

「奥方様、帰ろう帰ろう。ね?帰ろう」

青い目から金の毛に今にも涙が落ちそうな鼬に、紹はようやく気がついた。

「ごめん。また、泣かせちゃうね」

また、と紹が言うには理由がある。

紹がこうしてを見つめるのは初めてではない。

悲しそうな顔をしている紹を見たくなくて、でも助けたくて、笑って欲しくて、帰って欲しくないと願う、素直にそれを口に出して顔に出せる鼬は、紹がここに来るたびに一緒にきていた。

この山で鼬ほど素直に真っ直ぐ、こんな事を言えるはいないかもしれない。


ごめんね、と言って鼬の泣きそうな目の下を優しく撫でた紹の指を、鼬がぎゅっと握り締める。

「いいよ、いいよぅ、おいらが泣くのはかまわねぇもン。おいらが泣いたっていいんだよぅ。でも、おいら、嫌だ。奥方様が泣くのは嫌だ。それだけは嫌だ。奥方様はあったかく笑っててほしいよ。おいら、それがいっとう好き。おいら、好きな奥方様は一人だけ、奥方様だけだよ。一番好きな大好きな一等好きな奥方様だもん」

「うん、ありがとう」

嘘偽りない青い目でも必死に伝えてくる鼬に、紹は胸が痛い。

こんなに好きだと慕われて、一緒にいてほしいと望まれて。

それでもまだ紹は“下界”が恋しく思うし、まだ忘れられない。

狛守家の人間だからと言い聞かせても、紹は家族の愛を忘れる事は出来ないし、どうしたらその気持ちとともに生きていけるのかも解らない。

可愛い鼬に山に暮らす優しい妖たち、そして慈しもうと関係を築き上げようとしてくれる

そんな彼らを裏切っているようで心が苦しい。


紹は一度街を振り返り見てから、急かす鼬と屋敷の方へと歩いていく。

唇を噛み締めたのは無意識だった。


「して、、紹は何をしておる?屋敷におらぬぞ」


赤い鳥居に寄りかかり立ち、隣に立つ黒い烏に束は聞く。

黒い烏は麓を見ながら

「街を見に降りたようでございますよ。鼬が追いかけ傍におります」

「恋しい気持ちは捨てられぬ。咎めはせぬよ。咎めるべきか否かと考えること自体、間違いであろう」

「ええ、存じております。犬神様はそうでございましょう。しかし、鼬は些か気にしております。奥方様を泣かせてしまう、奥方様を止められない、奥方様を笑顔に出来ない、そう庭の隅で小さくなっては誰かしらに慰められておりますよ」

は気にしすぎであろう。しかしそれもまた、致し方がないかもしれぬ。なにせあれは子供であるが、中々にして甘えぬ子じゃ。そんなキンは今までの妻には誰一人懐かなんだが、紹は特別だ。昼寝をしよう、遊びに行こうと誘いまでしておる。そんなキンだから紹を『この一歩先へ行こう』と言う思いとどまらせるのだろうの。ほかのではどうして止めればいいのかと、オロオロしてそれで終わりであろう?それが出来る事を誇れば良いのにの」

ほんに子供だ、と束は目を細める。


「犬神様、お伝えしなくてよろしいのですか?共にならば森から出る事が出来るのだと」


黒烏はその目を細め、街を見下ろす。

束は頭を振って

「一層辛くなる事を伝える事が優しさとは私には思えぬ。それとも、それが優しさか?クロ、お前はどう思う。私はそれを伝えて、紹を傷つけとうない」

黒烏は黙ってしまった。

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