狛守さんの嫁入り:後編

「なに、そんなことか」


その質問への第一声はこれだった。

大きな檜の浴槽の中、紹は拍子抜けした顔で犬神を見つめている。

「まあ、さて、妻の願いは聞き届けねばなるまい。ふむ、どこから話してやろうか」

ごくり、と紹の喉が動く。それを犬神は横目で見て笑った。

「大層な話ではない。まず土台無理な話であったのだよ。神だと言われる私の子を、人が宿そうなどとするのは」

「──────え?」

「そうさね、昔は、まだをしていた頃はまだな、人が自然への信仰心を持っていたと言っても、まあ、かろうじてよかろう。私からすれば不十分だったが、かろうじて、よかろう。その頃まではまだ産めたのだ、神の子を」

紹は古い家だと思っていた自分の家が想像以上に古い事、そして昔は宿せた事実にも驚いている。

紹の目が溢れそうなほど大きくなり、犬神はそんな紹を見て口に笑みをたたえた。

「神の子は人間へのだ。神が感服するほどの強い想いで願い、自分の身を捧げた人間の願いを叶えるための、贄なのだよ、紹」

「じ、じゃぁ」

「そう、私の子は皆死んでいる」

だから男にしたのか、と聞こうとする前に犬神が言う。

「それがだ。お前と同じであろうが」

定め、と三文字で片付けて

「信仰心が薄れてもなお、時は巡る。私の変わらぬ魂が叫ぶのだ。『今年生まれる子を、あの魂を持つ子を嫁にせねば』と」

「なら、どうして」

「お前らはであった。女でなければならぬ理由は一つもない」

「でも、なんで」

「神とて疲れる。産めぬと知り交わり殺す事も、一人になる事も。もう些か、私は疲れた。疲れてしもうた」

犬髪の赤い目が瞼に隠れた。

それがまるで泣いているようで紹は唇を噛む。


紹は嫁になると聞いたその時から、これは定めだと思い暮らしていた。なぜと思ったのは事実だが、として生を受けたのだからだとのだ。

それに狛守家に生まれ育てば、誰もが自然と犬神を敬う気持ちを持つ。

しかしそれでもだ、怒りはあった。

今だって正直なところ諦められない気持ちだってある。家族に会いたい気持ちは消えない。

なのにこの短い犬神の話より、目を閉じた今目の前で犬神が見せる顔に紹は諦めではない気持ちで、“定め”と向かい合いたいと思った。

なのは自分だけではない、と彼はで感じたのだ。


「犬神様は可愛いところがあると、白烏さんが言ってました」


白濁した湯船の中で犬神の大きな手を紹は握る。

「女ではない俺は犬神様が死ねと言うまで死ねないんだって、白烏さんがこれも言っておりました」

「ああ。思えば勝手な生き物なのは神の方かもしれぬな。一人になるのが疲れたのだと、お前を選んで。笑えるものだ」

「ならば、勝手な人間だった俺は、自称勝手な神様と、定めだって言いながら素敵な関係を作りたいと思います」

紹は笑った。犬神は赤い瞳を丸くする。

「犬神様が魂で俺を選んで下さったのならば、俺の魂もきっと犬神様を選びます」

ぱしゃん、と湯が跳ねた。

紹の黒い髪が犬神の厚い胸板に張り付く。細い腕はたくましい背中に回った。

「俺を妻にして下さい。俺も死ねない時間、お飾りの妻では一人のようで寂しいです」

「お飾りの妻とは思うてない」

「優しいとは思います。ジェントルマンです。でも、妻だから、犬神様は俺に優しい。俺の魂を選んだ時のように、紹だからと優しくして愛して下さい」

犬神は自由になった二つの大きな手のやり場に困っている。

抱きしめてやりたいと思う気持ちがさて、なのかと自問自答しているのだ。

今すぐに答えなどでないだろうに。


「俺は物心ついた時からずっと犬神様の事を聞いて過ごしました。は本物です。でも、定めだからと諦めて犬神様の妻になったのも事実です。けれど、これからは犬神様の妻になりたいと、あなたを好きになるように、あなたのことを多く知れるよう時間を過ごしますから、犬神様。どうか」


胸元から紹が顔を離し、黒い犬の顔を見上げる。

その紹の顔はどこか晴れやかだ。

それを前に犬神の目に力が籠る。


「──────良く聞け、狛守紹。良いか、その清き心に留めよ。我が名は。犬神という名ではない」


晴れやかな顔の紹に犬神の口は自然と動いた。

動き口から音がこぼれて、彼は表情には出さなかったけれど、心臓が止まる──なんて事は現実にはないけれど──ほど驚いた。


「……つかね様」

「その名は今までの妻にも教えておらぬ、我がいみな。この名をこの世で一人。お前だけだ」

「俺だけ?」

「私は定めしか知らぬ。だから今までせずにいた事をしよう。今、紹の目を見てそう思うた。私を消すことさえ可能とする諱を妻に教える事、それが何より最初にすべき事だと思うた」


消す、と聞いた紹は犬神──────束が瞬くほど目を見開く。

「諱を私から聞いた者だけが許される、方法だ。諱とともに消えろと言えばいい」

なんという事はなく言われ、ますます紹の目は困惑の色を濃くしていく。

「定めで優しくするのではのうて、紹、お前のいうを作ろうと、まあ、思っての事だ」

紹の腕から力が抜けきった所で束がざばりと音を立てて立ち上がる。紹は続こうとしたが力が入らないようで立ち上がれない。

それに可笑しそうに束は笑って、そんな姿に驚く紹をそっちのけで抱き上げた。


となった暁にはどれ、お前を食ろうてみるか。男は知らぬが、なかなかどうして、紹、お前はうまそうだ」


べろり、と首元を舐められた紹の叫びは屋敷に響き渡り、実のところ誰よりも心配性の白烏が飛び込んでくるまであと少ししかない。

その少しの間に紹は頭の片隅で

(大変なところに嫁に来たんだ)

とこの時初めて、実感したのであった。

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