思春期の森

雨の粥

思春期の森

「怪物に食べられたの、隣りのクラスの子なんだって。知ってた?」

 そう言い残してサチが怪物に殺されてしまった。

 あまりにあっけなかった。一体、彼女にどんな落ち度があっただろう。唯一の親友である彼女がいなくなって、わたしはショックを受けた。

 学校じゅうでうわさになっている正体不明の怪物。どこのクラスも、『隣りのクラスの子が食べられた』話で持ちきりになっていた。

 サチが殺されたことはトップシークレット扱いだ。現場にいたわたしはたった一人の目撃者。おかげで同じことを何度も説明させられた。

 詳細がはっきりするまで、誰にも言ってはいけない。

 そんなふうに厳しく言い含められた。だけど、詳細がはっきりしたところで何が変わるというのか。詳細も何も、目の前で親友が殺されたのだ。

 それで思ったのだけど、うわさになっている話は間違いだ。

 怪物に食べられたという隣りのクラスの名無しちゃんは存在しない。

 たぶん、サチが一人目の被害者なのだとわたしは確信している。

 怪物の話が出てきたのは、ゴールデンウィークが明けてしばらく経った頃だった。

 誰からともなく話が広がっていったのを覚えている。最初、もちろん先生たちは相手にしていなかった。

 発端は『異次元に通じるトビラ』といううわさ話だった。そっちの話は以前からあった。わたしも聞いたことがある。

 舞台は第二校舎の東側の階段。

 正門から遠い方に位置しているので通る人は少ない。

 階段を上りきると、そこは屋上だ。その屋上に繋がるとびらが異次元に通じている。

 七不思議と呼ぶほど大したものではない。オカルト系のネタとしてはうちの学校では唯一だと思う。だが、あまり有名ではない。少なくとも、クラスの誰かが話しているのを聞いたことはない。

 たぶんわたしたちは、オカルトに関心が薄い学年なのだろう。

 事実、サチは知らなかったようだ。一年生に詳しい話を知らないかと尋ねられ、反対に教えてもらったと言っていた。


(先輩、何か知ってますか)

(えーっ、そんなの聞いたことないよ)。

(第二校舎の屋上のとびらが異次元に通じてるらしいですよ。正門から見て奥の方だけなんですって。そんなとこ、誰も行かないでしょう。遠いし。掃除してないし。だからですかね。誰にも見とがめられず、密かに口を開けているらしいです)

(とびらが開いているってことなの?)

(そうじゃないです。……うう、何て言ったらいいですかね。とびらとしては、鍵も掛かってるんです。けど、異次元の側からとびらが開くっていうか)


 一年生もよく分かってないみたいだったとサチは言った。

「サチ、その一年生。名前は?」

「ん。理亜ちゃん」

「あぁ、あの学年4位の子。それは難問だね」

「そうなの。理亜ちゃん、普段は説明上手だからさ。で、なんか話をまとめてみるとね、とびらがクニャってなるんだって、何かが出てくるとき」

「何か出てくるんだ」  

「出てくるんだって! 気持ち悪い動物が」

 ――人面で二本足の山羊。全体に汚れていて灰色っぽい。

 そんなものが『異次元に通じるトビラ』からぬっと現われては、屋上に通じる階段の踊り場をうろうろしている。そんな話だった。

 先生たちは学校に入ってきた不審者が、踊り場に居ついていると考えているようだ。ウ●コが落ちていたという話もあり、なんだか不潔で気味が悪い。

 わたし自身はどちらかというと、不審者という説を信じていた。その方があり得そうだし、万一出くわしたらと思うと怖い。3階の端っこといえば英語の授業で使われる視聴覚室があり、月に数回通ることがあった。

 階段の辺りを通る時は、絶対にサチと一緒だった。

 目の前でサチが殺された時も、わたしと彼女は視聴覚室に向かうところだった。 移動教室が続いて、遅刻しそうで焦っていた。

 だから、普段は通らない2階の渡り廊下を走った。

 そこから視聴覚室に行くためには、東側の階段を1階ぶんだけ上がれば良かった。それなのに、いつもの癖で2階ぶん駆けあがってしまった。すると目の前は『異次元に通じるトビラ』がある階段だ。

 怪物は素早かった。

 現われたと思ったら、すぐ目の前に迫っていた。

 太い腕でサチを捕まえ、軽く持ち上げた。

 そのまま喉元に噛みついた。

 グロテスクな雄の象徴が屹立していた。

 サチは声を上げる間もなかった。

 吹きあがった血がわたしの制服を赤く染めた。

 顔は人間のようだったが、毛むくじゃらで額に角があった。

 不審者ではなかったのだ。

 本当に怪物だった。

 悲鳴を上げたのはわたしだった。

 怪物はわたしの声に驚いたのか、階段を一足で上りきり、とびらに飛びこむようにして消えた。わたしの声は視聴覚室にも届いたようで、すぐに人が集まって来た。

 最初にやって来た先生は英語の外国人教師、メリッサ先生だった。

 メリッサ先生は返り血を浴びたわたしを見ると、大きな目を見開いて手を口に当て、「オー、マイ、グッドネス!」と叫んだ。

 メリッサ先生はわたしを抱きかかえるようにして教室の準備室に連れていき、服をめくってあちこちを調べた。血がわたしのものではないと分かると、ダイジョウブ、ダイジョウブと言いながら背中をさすってくれた。

 わたしはというと、その間しゃがみ込んで叫んでいた。大きな声を出していないと恐怖に押しつぶされそうだった。その時の記憶は曖昧だ。

 そして気がついた時には体操着に着替えて保健室にいた。

 何があったのか、何人かの先生に同じ説明をした。

 もちろん、見たままにサチが怪物に襲われた話をした。

 だがこの時点ではまだ、先生たちは怪物の話を信じていなかった。先生たちは、わたしが錯乱していると考えたようで、そのうち何も聞かれなくなった。



 サチと仲良くなったのは今年の四月。新年度が始まってすぐのことだ。

 夜更かしをして動画を見ていたせいで、授業中に眠くなり居眠りしてしまった。わたしはまた同じ夢を見ていた。

 いつも見る決まった夢。

 わたしは森の中にいる。

 時刻は早朝だろうか。森は薄明るい。

 風はそよとも動かない。

 森は眠っている。

 わたしは木々の間を音もなく歩いている。

 木の葉を踏む音もない。

 わたしは浮かんでいるのだろうか。

 ところどころに聖堂のような建物があり、わたしの興味を惹く。聖堂には神話の物語の場面を表した人形が配されている。わたしはステンドグラスをすり抜けていくこともある。まるで視点だけが動いているかのようだ。

 だが、その日はいつもと違うことが一つあった。人がいたのだ。

 それはわたしと同じ制服を着た、同い年ぐらいの少女で……。

 顔に見覚えがあった。彼女は同じクラスの確か……沢村さんだ。

 自分が声を発することができるか自信はなかった。姿を映して見ることができるものは何も置かれていなかったから、自分がその場にいるのだという実感がなかった。

「あの――――」

 わたしは声を出した。

 息を吸うと、ひんやりして気持ちいい。

 沢村さんはわたしに気づいてびっくりしたような顔をした。なぜだろう、と自分の姿を見ると、なんと素っ裸だった。きゃっ、と叫んでその場にへたり込む。

「あの、ちょっと待ってて」沢村さんが言った。「あっちになんか羽織るものあったから」

 しばらくして彼女が持ってきてくれたのは、白いローブだった。

 わたしは受け取ったローブを羽織った。

「ありがとう。沢村さん、だよね同じクラスの」

「うん。サチでいいよ」

 沢村さん、サチは微笑んだ。わたしも下の名前を名乗った。

「……ねぇ、ここって、何?」

 サチに尋ねられて、わたしは答えに困った。

 わたしはこの森をいつも夢で見ている。わたしの認識ではそう、夢であって夢ではない場所だ。わたしがうんうん唸って考えていると、サチは笑って、

「分かるよ。知ってるけど難しいって顔だね」と言った。

「そうなの、わたしはよく来てるんだけど、ここが何なのかは分からないの。たぶん、夢なんだと思う。夢だけど現実と繋がってる夢、みたいな感じ」

「夢とはどう違うの」

「わたしはここで起こったことを忘れないし、何もしなくても時間が流れてる。場面が飛んだりしないで、ずっと繋がってる感じがある。わたしは眠るといつもここにいるの。でも誰かが入ってきたことは今までなかった。サチが一人目だよ」

 その後、なぜかサチはわたしとお揃いのローブに着替えた。そして、お揃いの格好で森を歩いていった。



 驚いたのはその後だ。私は森の中を歩いている途中で、前触れもなく目を覚ました。目覚めた場所は眠った時と同じ教室だった。隣の席を見るとサチの姿がなかった。

 私は閃いた。

 わたしは居眠りをする時に、どうやってかサチを向こうへ引きずり込んだ。そして目を覚ます時に彼女を置いてきたのだ。

 私はこれまでの人生で経験がないほどの集中力を発揮して、森の風景を思い浮かべた。そうすることであの森に行くことができる気がしたのだ。

 予想は的中した。風景が伸びて広がっていくような感触があった。気がつくと再びそこは森の中だった。

 目の前にはサチがいた。

「わっ、びっくりした!」サチが叫んだ。

 私は無事に再会できたことに安心して、泣き出してしまった。

 一方でサチは少し驚いていたぐらいで、心配も恐怖も感じていなかったらしい。

「急に消えちゃったから、びっくりはしたよ。でも、よくこの森に来てるって言ってたから」

 サチを連れて帰るのは難しくなかった。手を繋いだままで目を覚ませばよかった。

 目を覚ますというのは少し違うかもしれない。身体を浮き上がらせるようなイメージで背伸びをするのだ。プツリと糸が切れたような感覚があって、森から出ることができた。



 怪物はギリシャ神話に出てくるサテュロスという半人半獣の生き物に似ている。

 そう言ったのは世界史を担当しているうちのクラスの担任だった。

 だからここからは怪物のことをサテュロスと呼ぼう。

 ほとんどの先生たちは初め、怪物の存在を信じていなかった。そんな中、担任だけは食いついていた。担任は神話マニアで有名だった。わたしとサチは担任と話をするのが好きだった。

「有里先生って神話が好きだから世界史の先生になったの?」

 サチが言った。

「そうね。もともと古代史が好きだったから。後はゲームの影響もあるかな。この2つが頭の中で繋がった時、ピーンと閃いたのよ。ニュータイプみたいに」

「ニュータイプ?」

「うふふ。分かるようになったらまたいらっしゃい。何時間でも語ってあげるから」

 先生が言うにはサテュロスは、後の時代になるほど人間に近い姿で描かれているらしい。反対に古い時代ほど、破壊的で危険な存在とされていたという。肉欲に溺れる傾向が強く、そういった意味でも危険だと有里先生は強調した。

「もしも実際にサテュロスに出会ってしまったら、逃げるに越したことはないわね。学校を徘徊しているのは、もっと質の悪いものかもしれないしね。名前がないと不便だからそう呼ぶけれど、たぶんサテュロスに似た悪鬼の類よ」

 ちょうど有里先生の世界史の授業の時間だった。

 生徒指導の先生が真っ青な顔をして、教室に入ってきた。校内に不審者が侵入したので教室から出ないようにと言った。

 ――施錠をして静かにしているように。

 運動場から悲鳴が聞こえてくることに、廊下側の生徒はみんな気づいていたと思う。そのうち誰かが大きな足音を立てて廊下を走ってきた。チラッと見えたジャージは上級生のものだった。上級生は叫びながら廊下を駆け抜けていった。

「運動場に何かいる! 運動場に何かいる!」

 教室にいた生徒たちが廊下へ殺到した。あまりの勢いに生徒指導の先生も止めることができなかった。廊下の窓から運動場を見た生徒たちは、興奮した様子で口々に何かを叫んだ。

 サチが食べられた時の記憶がフラッシュバックした。雄の象徴を屹立させたグロテスクな姿を思い出し、わたしは気分が悪くなった。

 森の中へ逃げ込もうかとも思った。だがここで、わたしの中に奇妙な正義感のようなものが芽生えた。

 ――森の中にみんなを逃がすことはできないだろうか。

 それこそが今わたしがするべきことのように思えた。そう考え始めると、なんとかしてみんなを助けたいという気持ちが次第に強くなっていった。

 サチの時は、あまりに突然だったから助けられなかった。だが、今は違う。助けられる可能性があるではないか。


 わたしは意識を集中した。

 教室にいる全員を森の夢へと引き込もうとした。

 だが、うまくいかなかった。


 人数が多すぎるのだろうか。それとも、この場がパニック状態で集中できないせいか? 何度も何度も意識を集中し、頭の中のキャンパスに森を描いた。

 だんだん意識が遠のいていくのを感じた。

 唇の周りを拭うと、鼻血が出ていた。

 眠ろうとして鼻血が出るなんて変だな。

 ……わたしにはみんなを救うことはできないんだろうか。

 そんな弱気なことを考えていると、ふと頭の中で閃光が起こった気がした。

 知らないけれど、たぶん先生の言うニュータイプのように。

 わたしはそっと立ち上がった。

 有里先生と目が合った。

 先生は優しく一つ頷いた……ように思えた。まるで、わたしが今からすることを知っていて、わたしにエールを送っているようだった。

 もちろん、そんなはずはない。わたしの思い過ごしなのだが。

 みんなを救う方法が一つある。

 みんなを森に引き込むのではなく、サテュロスだけを森に閉じ込めてしまえばいい。やってみたことはないけれど、わたしの身体を残したまま、相手だけを森に送ってしまうことはできる気がした。

 森にサチを置いたまま教室に戻って来ることはできたのだから。

 なぜ今まで思いつかなかったんだろう。これでもう、重い荷物を運ぶ必要はなくなったな。こんな大変な時にくだらない使い道を考えている自分に、クスリと笑う。

 教室中、叫び交わす声でパニック状態だ。

 わたし一人が教室を抜け出したところで、見とがめる者はすでにない。

 わたしは決意を固め、サテュロスが待つ運動場に向け階段を降りていった。  

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思春期の森 雨の粥 @amenokayu

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