3.
カムジェッタ国は歴史ある建造物が建ち並ぶ、美しい街並みが魅力だと言われている。
サンセットをバックに光り輝く、レンガ調のカムジェッタ・ホテルは特に美しい、と世界的に有名だ。
しかし――今の私には、そんなカムジェッタの朝の風景を楽しむ余裕なんてどこにもなかった。
(八時からだと思って油断した……!)
あえて、時計は見ない。
やばいやばいマジでやばい。
目覚まし時計のアラームをセットするのを忘れていた。
最 悪 だ 。
間抜け過ぎて笑えない。
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「おはようございます、申し訳ございません! 本日よりこちらで働かせて頂きます、倉間です」
「え? おはよう。ガーレです。……大丈夫だよ。まだ時間に余裕があるし」
ほら、と彼は腕時計を見せてくれる。そこには、七時四十五分の表示。
「……いいえ。初日なのだし、早めに出勤するべきでした。本当に申し訳ございません」
再び謝ると、ガーレさんは苦笑した。
「前評判に違わず、あなたは真面目だなあ」
彼は守衛さんに声をかけて私用のスタッフカードを用意してくれた。
このカードを忘れたらホテル内へ入ることができないらしい。
出勤時・退勤時には、裏口の受付にあるチェックボードに入退館時刻を書くようにも言われた。
「スタッフカードで入退館処理をできるようにしたいとは思ってるんだけどね……。今時、チェックボードで入退館を管理するなんて、古いだろ?」
「いえ……」
(むしろ、クローバー・ホテルは時刻ボードすらないし)
良い意味でも悪い意味でもゆるゆるなのが私が勤めているクローバー・ホテルである。
それに比べると、――当たり前だが――カムジェッタ・ホテルのセキュリティーは非常にしっかりしていた。
「ここが更衣室だよ」
更衣室のドアの前で説明を受けていると、女性スタッフが顔を覗かせた。
「あら、新入りさんですか? ガーレさん」
「うん。今回の式典パーティーで助っ人やってくれる、倉間マドカさん」
ガーレさんがそう答えるや否や、わあっと周囲をスタッフに囲まれてしまった。
「あなたが主要国の言葉全部喋れる人!? すごい……もっと年齢上かと思ってた!」
「何歳?」
「に、二十五歳です……」
「二十五! その年で主要国の言葉全部喋れるとかすごすぎ~! 海外に住んでたとか?」
「いえ……」
彼女達のパワーに圧されていると、ガーレさんが助け船を出してくれた。
「はいはい、倉間さんは今から着替えなきゃいけないから……皆は早く持ち場について」
「はいっ」
清々しい返事を残し、女性スタッフたちは私に手を振りながら去っていった。
「ごめんね、皆良い子たちだから。……ちょっとうるさいかもしれないけど、よろしく」
「は、はい」
イジメとかは、なさそうな雰囲気だ。
その後、私はガーレさんから渡された制服に着替えてホテル内を案内してもらうことになった。
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パリッと糊のきいたブラウスに、タイトなベストと膝丈のスカート。
額を丸出しにしてシニョンでお団子にした艶めく髪。
そして、舞台メイクかというくらいに濃いメイク。
カムジェッタ・ホテルで働く女性スタッフは、身だしなみに対して気を遣わなければならない。
そんなカムジェッタ・ホテルのロビーにて、私は花瓶やイスなどを整えつつ、窓ガラスに映った自分の髪をチェックしていた。
ワックスでガチガチに固めているものの、気を抜くとすぐに跳ねてしまう自分の髪が憎たらしい。
ガーレさんにホテル内を一通り案内してもらった私は現在、ロビーの清掃を任されていた。
(すぐ戻るって言ってたけど、かれこれ一時間戻ってこないよ……ガーレさん)
かなり心細い。しかし、弱音を吐くわけにもいかない。私は黙々と清掃にいそしむ。
カムジェッタ・ホテルのロビーは広いため一時間経とうが清掃が終わる気配はない。
もし、清掃が終わってしまったら手持ちぶさたとなってしまうため、非常にありがたかった。
「あれ? ……あ、マドカちゃーん♪」
私の名前を呼ぶ声がするが、きっと気のせいだ。そう思うことにした。
声を無視して、私は花瓶を磨き続ける。
「もう……いつもどおりつれないなぁ~」
声の主はそう言って黙り込んだ。
(気のせい、気のせい)
カムジェッタ・ホテルでこの声の主と出会う可能性なんて微塵もない。
と、ふわっと良い香りがした……と思ったら。
や わ ら か な 体 温 を 感 じ た 。
花瓶を取り落としそうになりながら、私に抱きついてきた人物を振り返る。
「マドカちゃん、お・は・よ♪」
「ちょっ、変態! やめて下さい!」
ここがカムジェッタ・ホテルのロビーじゃなくてクローバー・ホテルのロビーだったら、張り手を喰らわせているところだ。
私はなおもギュッと抱きついてくる男性の腕から逃れようともがく。しかし、男性は拘束を緩めてくれない。
「ひどいなあ。その言い方」
私に抱きついている男性は、人懐こい笑顔を見せる。
八重歯が覗く口許が、屈託ない彼の笑顔に華を添えている。
前髪をセンター分けした巻き毛。煌めく瞳がまぶしい。
薔薇の花みたいな華美なものが似合う華やかな面立ちをしている彼は、端から見るとかっこいい部類に入るかもしれない。
が、やっていることはただの変態である。
「グレイさん、あなた……どうしてこんなところにいるんですか?」
彼――グレイさんは、クローバー・ホテルの常連客だ。その彼がこんな一流ホテルにいるなんて。
(や、やっぱりストーカー……っ)
「マドカちゃん、今めちゃくちゃ失礼なこと思ったでしょ」
「いやいや、滅相もない……って、放して下さい」
「い~や~」
「この……変態!」
彼とは会う度に、毎回毎回このやり取りをしている。
正直、もうウンザリ気味だ。
クローバー・ホテルだったら強引に抵抗をすることができるのだが、ここはカムジェッタ・ホテルだ。
下手に暴れたらホテルの品格が下がってしまうだろう。……と考えると、抵抗できない。すごく悔しい。
クローバー・ホテルで働き出して早十年。
働き出してすぐに出会ったグレイさんから何故か気に入られてしまった私は、こうしてずーっと纏わりつかれ続けている。
いつもなら、ここいらでクローバー・ホテルの支配人がやって来て、苦笑しながらグレイさんを制止してくれるのだが……。
ここはクローバー・ホテルではない。そのため、助けを期待することはできなかった。
そのことに、グレイさんも気づいているのだろう。きらん、と目を輝かせながら耳打ちしてくる。
「ねえねえ、今日は
「しません!」
即答で拒否した。
しかし、グレイさんは「いいじゃん♪」と言って、抱きしめる腕を緩めてくれない。
誰か助けてくれと思って辺りを見回すも、受付スタッフが宿泊客の応対をしている以外に行き交っているスタッフはおらず。
もうこうなったら、肘鉄を食らわせるしか方法はない、という考えが脳裏に過ぎり始めたそのとき。
「……何してるの、グレイ」
ボヤッとした感じの声が響いた。
くすんだ金髪にスミレ色のキリッとした双眸。
独特な空気感を持つ男性が目の前に立っていた。
「セルジュ!」
グレイさんは瞬時に私を解放し、男性と握手を交わす。
「うわ~、来てくれたんだね! ボク、来てくれないかと思ってたよ!」
「ああ……本当は来たくなかったけど、無理矢理……」
嫌なことを思い出したのか、セルジュ様の瞳が暗くなる。
私はグレイさんから解放されたことにホッと安堵の溜め息を吐いた。
(助かった。セルジュ様……あなたは神様です)
心の中で、グレイさんと話しているセルジュ様をあがめ奉る。
「倉間さん、待たせてごめん」
ようやくガーレさんがその場に現れた。
「げ・ガーレ」
グレイさんはガーレさんと知り合いなのか、ちょっと及び腰になる。
ガーレさんは私の隣に立つと、優雅にグレイさんとセルジュ様に向かってお辞儀をした。
「お久しぶりでございます。セルジュ様」
「……久しぶり」
セルジュ様はペコリとお辞儀を返す。
しかし、グレイさんはお辞儀を返すでもなく居心地悪そうにそわそわしている。
後ろめたいことでもあるかのように。
「……ところで、グレイ様」
「はい……」
「倉間さんに手を出さないで下さい、と申し上げたはずですが?」
「いやいやいやいや、ボクは手なんて出してないよ! 濡れ衣ってやつじゃない?」
「いえ、私は階段上でスタッフと打ち合わせをしておりましたから、グレイ様が倉間さんに抱きついていたのをしっかりと目撃しております」
ぐっと言葉に詰まるグレイさん。
そんなグレイさんを尻目に、ガーレさんはセルジュ様に再び90度に腰を曲げて礼の体勢を取る。
「セルジュ様、グレイ様をお止め頂き、誠にありがとうございます」
そして、ガーレさんは私に『君も頭を下げて』とアイコンタクトを送ってきた。
「あ、ありがとうございました。助かりました」
「……何が?」
「いえ、ですからグレイ様の行動をお止め頂いたので――」
ガーレさんの言葉に、ああ、とセルジュ様は納得したように軽く頷いた。
「お礼は要らない。ただ、グレイが目に入ったから声かけただけだし」
(……って、ん? セルジュ様?)
今更ながら、“セルジュ”という名前をどこかで聞いたような気がしてきた。だが、どこで聞いたか、はっきりと思い出せない。
「本当にもう……グレイ様には困ったものだ。倉間さんも災な――」
そう言いつつガーレさんは、私の方を向き……顔色を変えた。
「倉間さん」
「はい?」
「……髪」
ガーレさんにそう言われた私は、窓ガラスに映る自分の髪を見て青ざめる。
「…………げ……」
頭頂部の短い毛が、ピンピンと立っていた。
「す、すぐに直して参ります!」
何か言われる前に立ち去るべく、私は急いで踵を返した。
……が、もう一度きちんとお礼を述べておこうと思い、セルジュ様の前でお辞儀をした。
「セルジュ様、本当に助かりました。心から感謝致します」
セルジュ様は私に目線を向けないまま、何を考えているのかうかがい知れない表情で「うん」と短く答えた。
心を込めて感謝の言葉を告げる私に対し、慌てた様子でグレイさんが口を挟んでくる。
「ちょっとマドカちゃん! その言い方だと、マジでボクが悪いヤツみたいだから!」
「実際悪いですから」
「またまた~♪ 照れちゃって~♪」
「いい加減にしてくださ――」
「倉間さん」
「…………」
ガーレさんはそれはそれは恐い形相で立っていて……。
「それでは失礼致します!」
私は脱兎の如く逃げ出した。
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