【個別】ダリオ・ドゥーガルド

「――オマエは、生きろ。這いつくばってでも、生き抜け」

1章 事件勃発!?

「osnsuernjfp,ekjuabjpokwn! abjufjnerhhidfjdkcas」

「えっ?」


 高級スーツを着用した小太りの男性が私の手を後ろから引いた。

 目深にシルクハットをかぶっているため、男性の顔は見えない。


 男性はそのまま私の手を引き、強制的に路地裏まで引っ張っていく。

 まずい……ここらへんは治安が良いから油断してた……!

 抗おうとするも、力で男性に勝つことはできない。


「sdfjosf? Ksjjuhdkum,okjuuhrpsu」


 夜であるにも関わらずサングラスをしている彼は、薄い唇をめくりあげるようにして早口で喋り続けていた。

 初めて聞く言葉だ。少なくとも、主要国で使用されている言語ではない。


「plav bareneya,seirsdfjuhasrm.okokjijetuhuuwyh!」

「……ぷ、プラヴ バレンヤ……?」


 唯一、その言葉だけ聞き取ることができたが、あとの言葉は耳の上を滑っていくような独特のイントネーション・発音であるため全く聞き取れない。

 ここに至り、ようやく男性は何かがおかしいということに気が付いたらしい。

 怪訝そうに私の顔を覗き込んできた。路地裏の排水溝から立ち上ってくるえたような臭いに、うっと胃酸が逆流してきそうになる。


『人違いか……』


 男性はヴァンリーブ語でそう言うと、舌打ちして何やらごそごそとスーツの内ポケットを探り出す。


「あの……」


 取り敢えず、公用語であるカムジェッタ語で対応しようと思い、口を開いたそのとき。


「sdtisjdrgf!?」


 鋭い声が飛んできた。

 声がした方――路地裏と表通りが交錯する場所を振り返ると、そこには長身の男性が佇んでいた。

 長身の男性もまた、私をここまで連れてきた男性と同じようにシルクハットとサングラスを着用している。


 コツコツと、くぐもった靴音が響く。

 オイルやらゴミやらヘドロやらで元の色が何色だったかも分からないようなレンガ張りの地面。

 そんな汚い地面に似つかわしくない、高級感たっぷりな光沢ある革靴を履いた長身の男性。

 彼は私の目の前まで来ると、唇を引き結んだ。


『おい、この女性は誰だ?』


 まるで変声機をつけたような声で、長身の男性は小太りの男性に鋭い声で訊いた。

 こちらの男性もヴァンリーブ語を使っている。

 ふっと、長身の男性とダリオさんがダブって見えた。


(そう言えば、あの人も背が高かったな)


『ボス、大丈夫です。ここで射殺しますから』

「…………」


 小太りの男性が何を言ったのか、数秒間理解できなかった。

 声を発することも、身動きすることもできない。


『見る限り、カムジェッタ国の一般市民だろう。面倒は起こしたくない』

『ボス。さっき、ちょっとこちらの言語を解読されてしまったんです。念のため殺しておいた方が良いですよ』


 私を射殺することに躊躇している様子の長身男性に対し、

 小太りの男性はさも当たり前のことを話すかのように軽やかな口調で言ってのけた。


『だが……』


 ボスと呼ばれた長身男性はなおも渋る。


『まあ――ボスがどうしてもと言うなら殺さずに、そのままアジトへ連れて行って、人体実験要員にしても良いですけどね』


 人体実験なんて、冗談ではない。


『じょ、冗談じゃないんですけど……』


 思わず、心の声が漏れ出てしまった。

 やばい、と思った時は時既に遅し。

 長身男性と小太り男性の視線が、私へ注がれる。

 彼らはまさか、私がヴァンリーブ語を理解できるとは思っていなかったようだ。

 明らかに狼狽している。


『馬鹿なヤツだ。ヴァンリーブ語を理解していさえいなければ、ボスが助けてくれたかもしれないのに』


 小太り男性はそう言ってスーツの内ポケットから手を出した。その手には、一丁の銃が握られている。

 長身男性は、こうなった以上仕方がないとでも言うように腕を組んで一歩後ろへ下がった。

 カチッと銃から音がする。

 安全装置か何かを外したのだろうか。

 カムジェッタ国のような平和な国ではついぞ目にすることがない拳銃を前に、私の思考は限界を迎えた。


『大人しくしとけよ~』


 小太り男性は、私の方へ銃口を向ける。

 足が、凍りついたように動かない。

 男性は、引き金を引いた。


 乾いた音がしたと同時に、私の右耳がヒリッと痛んだ。


 小太り男性はニヤニヤと下品な笑い顔で私を見やる。


 ――面白がっているのだ。


『……早く殺さないと、人が来るぞ』


 小太り男性を急くように、長身男性は言った。

 小太り男性は、わかってますって、と答えて再び私に銃口を向ける。

 火薬のにおいが鼻についた。

 恐怖が体中を支配する。

 強い恐怖を覚えたら、人間は声を出すことができないのだといま知った。


 ぐらぐらと脳が小刻みに揺さぶられているような感覚と、嘔吐感。


 連日の仕事疲れがピークに達している上に、極限状態の恐怖と緊張。悪条件が重なった。

 頭が揺れた瞬間、視界がぐにゃりと歪む。

 私はそのまま、固いアスファルトの上に倒れ込んで両膝をついた。


 そんな私の行動に合わせて、小太りの男性が持っている銃も移動する。


 乾いた発砲音が響いた。


 私はそのまま命を手放し――――。


 …………。


 ………………。


(…………あれ?)


 何の痛みも感じない。


 その代わり、私を撃とうとしていた小太りの男性が右手首を押さえてうずくまっていた。


 ――夜闇の中、薄暗く灯る街灯の光に照らし出された彼の手首からは、多量のぬめった血液が流れ出していた。


「うううぅ…………」

「く…………ッ」


 ボスと呼ばれていた長身の男性は身を翻し、路地裏の暗がりに溶け込んでいった。

 高い靴音を立てて彼は去って行く。それに引き続き、小太りの男性も路地裏へ逃げ込もうとするも――……。


『動くな』


 背筋が凍るような、ひやりとした温度の声がした。


 いつの間にか一人の男性が、私と小太りの男性の間に佇んでいた。

 男性は小太りの男性の心臓部分に銃口を押し当て、グリグリとめり込ませる。

 男性は口端を上げ、ひどく冷淡な視線を小太りの男性に向けている。


『カムジェッタ国で活動するとは、良い度胸だな』


 男性はそう言うと、銃のグリップ部分で思いきり小太りの男性の脳天をついた。

 小太りの男性はそのまま地面に顔から突っ伏す。


「あ……」


 衝撃的過ぎる出来事を前にして、視界がだんだんブラックアウトしてくる。


「…………オイッ!」


 ――……意識の果てで聞いたことがある声がした。


 









 ━-━-━-━-━-━-━-━-━-━-







 パチッと目が覚める。


 目に飛び込んできた光景は冷たいアスファルト……ではなく、柔らかなオレンジ色の光を放つシャンデリアだった。


 靄がかかったように朧げだった頭の中が、急速に鮮明になっていく。


(……あれ? 拳銃持った男は……)


 たしか、何やら色々あって私は気を失ったはず。

 近くにまだ、小太りの男性やその男性を気絶させた男性がいるのではないだろうか。


 私は今まで体験したことがないくらいのふかふかベッドから飛び降りて、頭をフル回転させる。


「……っと」


 ベッドから飛び降りた拍子に、微かに左足首が痛んだ。

 そうだった。足をくじいていたんだった、と今頃になって思い出す。

 しかし、足をくじいた割には痛みが少ないな……と思って足首を見下ろすと――。

 何故か、きっちりテーピングが施してある。


(一体、誰がこのテーピングを……)


 謎は深まるばかりだ。


 冷たいアスファルトの上で、拳銃を撃たれてあの世へ……という展開は、どうやらまぬがれたらしい。


 状況把握に自信があるわけではないけれど、見知らぬ部屋だということだけはわかる。

 部屋の造りや調度品、そしてベッド脇に置かれた内線電話などから、ここがどこかのホテルの一室であるだろうと推測できた。

 私は寝室と思われる部屋から抜け出した。




 ガチャリと開く、重い扉。

 その向こう側には、高級感漂うリビングルームがあった。

 壁一面に広がる窓の外には、キラキラとした夜景が煌めいている。

 しかも、ほとんどの建物が遥か下にある。

 ふと遠方を見やると、先程まで勤務していたカムジェッタ・ホテルの姿が目に入った。

 ……これで、今いるこの場所がカムジェッタ国のどこかだ、ということだけはハッキリした。


「……ようやく起きたか」


 背後からそう声をかけられ、慌てて振り返る。


 そこには、バスルームとリビングルームとを繋ぐ扉に寄りかかっている――パーティー会場で出会ったムカつく警官――ダリオさんの姿があった。


「ど、どうしてあなたが……って、ぎゃーーーー!」


 私は彼の格好を認識した瞬間、その場に座り込んで手で目を覆った。

 ポタポタと滴る滴。引き締まった上半身……。


(や、やばい……残像が消えない……!)


 なんとダリオさんは、こともあろうに 上 半 身 裸 で扉に寄りかかっていたのだ!


「ギャーギャーうるせぇな。素っ裸だったわけじゃあるまいし」


 ダリオさんは煩わしそうな声で言い放つ。


「素っぱ……!? ……ほぼ初対面の人の前で、上半身裸で姿を現すなんて……変態! グレイさんも変態ですけど、あなたも充分変態です!」

「はあ!? このオレのどこが変態なんだよ! ……って、なるほど」


 ツカツカとダリオさんが近寄ってくるのが足音でわかる。

 しかし、私は頑として顔を覆った手を外さず座り込んでいた。


「オマエ、男の裸に慣れてないんだろ」

「当っっっったり前です! 何を馬鹿なことを……!」


 思わず、目を覆っていた手を外して抗議した。

 すると、ニヤニヤとしたダリオさんの顔が視界一面に広がる。

 それにともない、裸の上半身も……。

 顔に血がのぼってきた。

 顔が真っ赤になっているということが認識できるくらい、顔が熱い。

 そんな私の表情の変化を珍しいものでも見るようにマジマジと見ていた彼は首を傾げた。


「……面白いな、オマエの顔」

「……っ。おもしろがらなくて結構ですから、早く服着て下さい!」


 うるせぇな……と言いつつ、ダリオさんは手に持っていた服を着た。


(それ着て脱衣所から出て来てよ!)


 ようやく衣服を着てくれたダリオさんは、こちらに目を向ける。


「……で?」

「?」

「もう知ってるだろうが、先に名乗ってやる。オレは、ダリオ・ドゥーガルド。ぽんこつスタッフ、オマエの名前は?」


(ぽ、ぽんこつスタッフって……!)


「私は」


 名前を尋ねられた瞬間、脳裏によぎったのは、路上で出会った小太りの男性と長身の男性。

 彼らはヴァンリーブ語を喋っていた。

 ダリオさんはヴァンリーブ王国の警察官。……警察官だから悪事をしないとは限らない。

 先程のシルクハットを被った長身の男性はダリオさん、という可能性だってある。


 ――そこまで思考を巡せた私は、だんまりを決め込むことにした。


(というか、私を助けてくれたあの男性はいずこに……)


 あの、冷たい風貌の男性はどこへ行ったのだろうか。


(まさか、捕まって……!?)


「オイ、答えろ」


 高圧的で命令し慣れた声だ。

 しかし、屈するわけにはいかなかった。

 自分の名前を知られれば、もしかすると家族にも危害が加えられるかもしれない。


 こんな状況でよく家族の心配ができるな、と自分自身にびっくりだ。


 私はさしずめ聖人だ。

 すごい、私。

 よっ、カムジェッタ国一の女!


 ……と、自分で自分を心の中で褒めてみる。


 そうでも思っていないと、緊張でまた倒れてしまいそうだった。


「あー……何となく、オマエが考えてることがわかった。安心しろ。オレはオマエを殺そうとしてたヤツらの仲間じゃない」


 美しい栗色のゆるやかな髪の毛を弄びながら、ダリオさんは言った。

 私はダリオさんの双眸を見つめる。タイガーアイの瞳はどこまでも濁りがない。


「オマエを助けたのはオレの同期だ。アイツがオマエを保護した」


 私からの不審さを内包した視線から目を逸らすことなく、彼は自信満々に口角を吊り上げ腕を組んだ。


「大体、オレがあんなしみったれた――すぐ足がつくような方法で追い詰めるわけないだろ。やるなら完璧にやる。……こんな風にな」


 ダンッと壁を足蹴にし、彼は私を見下ろしてくる。


「オマエが名乗らねえなら、こっちで勝手に調べるぞ。家族の情報も……全てだ」


 笑みを湛えてはいるものの、目はマジだ。


「今ここですぐに自分の名前を言うなら、余計なことは調べないでおいてやる。どちらが良いか選べ」


 安心しろと言った舌の根が渇かぬうちからこれだ。

 こんなことされたら、安心なんかできるわけがない。


 ……脅しじゃないか。


 この人が警察官ということからして、疑問に思えてくる。

 母や叔父夫婦の笑顔が瞼の裏に浮かぶ。私はぎゅっと唇を噛み、震える声を絞り出した。


「……倉間、マドカです」


 そうか、と言うとダリオさんはどこかに電話をかけ始める。


「支配人とは連絡が取れたか? ああ……名前がわかった。倉間マドカだ。すぐさま手続きしとけ」


『支配人』というフレーズを聞いた瞬間、自分がカムジェッタ・ホテル近くの路地裏で意識を失ったことを改めて思い出した。

 私は、通話を終えたダリオさんに問いかける。


「あの……どうして私はここに?」


「あ? さっき言っただろ。オレの同期がオマエとアイツらがいるのを発見して、ヤツらをを撃退、オマエを保護したんだ。オレもそのあとすぐ到着した。……本当はホテル内に戻ろうと思ったんだけどな」


 すいっとダリオさんは遠い目をした。


「入り口にも裏口にもかなりの数のパパラッチがいて……気絶したオマエを抱えてホテル内に戻ろうとすれば、あっという間に囲まれるだろうとは見当がついたから、戻れなかったから、ここに避難中」

「なるほど……」

「オマエの身元もわからないし、ガーレのヤツもマスコミや要人たちの対応に追われていてるみたいで捕まらないし。で、今に至る」

「そう……だったんですね」


 彼の瞳には嘘がない。

 ダリオさんを信用しても……良いのだろうか。


「あ……もしかして、足の手当てはダリオさんが……?」


「まさか」


 ダリオさんは首を竦めてみせる。


「オレがオマエの足触ってみろ。確実にセクハラ~! とか言われて訴えられるのがオチだろ。このホテルの女性スタッフに任せた」

「…………ありがとうございます」


 ダリオさんはお礼を言う私に対してふんぞり返る。


「良かったな、オレが同期と一緒に外にいて。同期にオマエを助けるよう指示してやったのは、このオレだぜ? マジでやばかったんだ。もっと感謝しろ」


(助けてくれたのはダリオさんの同期なんだけど。……本当に、一言一言がムカつくんだよね、この人!)


 しかし、確かに彼が同期である男性に指示してくれなかったらどうなっていたかわからない。

 あのまま殺されていたかもしれないし、人体実験の材料として使われていたかもしれない。

 ここに来て、私の脈拍が激しくなる。


 ぞわっとした悪寒が背中から駆け上がってきた。

 手足と唇が、なさけないくらいに震えだし、冷や汗が一気に噴き出した。


 私は両腕で自分の体を抱きしめ、ぎゅっと目を瞑る。


(よかった、生きてる……)


 無機質に光る、鈍色の銃口。


(あのまま、殺されててもおかしくなかった)


 小太りの男がこちらへ向けてきた銃口がふと脳裏をかすめた瞬間、吐き気がしてくる。

 私は首を横に振り、思考から銃口のイメージを振り払った。

 こちらの心情に気づきもしないダリオさんは、得意げに言葉を続ける。


「というか、ルヴァンソン・ホテルの最上階にあるこの部屋はヴァンリーブの要人しか入れないところだ。オマエみたいな一般人はこれから先、一生入ることなどないだろうし記念に目に焼き付けておけよ。あ、写真撮影はNGな。オレが王室に怒られる」

「……こ、ここって、ルヴァンソン・ホテルだったんですね。どうりで豪華な……」


 私がそう言うと、彼は得意げに口の端を上げた。


 ルヴァンソン・ホテルと言えば、ヴァンリーブ王国に本社を置く高級ホテルだ。

 カムジェッタ国にしては珍しく、一定レベル以上のステータスがある人でないと宿泊することを許さない――ホテル側が宿泊客を決めるシステムを採用している。


(まさか、ここがルヴァンソン・ホテルだったとは……)


 ……と、あまりのことに頭がボーッとしていた私だったが、リビングルームにあるアンティーク調の柱時計が目に入った瞬間、我に返った。


「ああ!?」

「!」

 ダリオさんはビクッと肩を震わせる。


(もう、23時!?)


 ここ最近の連続勤務の疲れを癒すため……今日はバーの仕事をお休みしていて……なおかつ。

 今日の夕飯は、 焼 き 肉 だ 。

 彼らのことだ。夕飯を食べずに私の帰りを待っているとは思いがたい。


(私の焼き肉が……っ。ひとつ残らず食べられちゃう!)


「まずい……早く帰らないと……」

「オイ、何ブツブツ言って……」


 ダリオさんを無視し、私は携帯を取り出した。


 しかし……。


 なんて間の悪いのだろうか。

 携帯の電源が、 切 れ て い る 。


 四年以上使っているから電池の消耗が早い早いと思っていたが、こんなときに限って……最悪だ。


 ――ルヴァンソン・ホテル最上階のスイートルーム。

 華やかな調度品の数々と広い部屋。

 5つのゲストルームがある最上級スイートのリビングルーム。

 きっともう二度と訪れることはないだろう客室ではあるが、名残惜しいとはこれっぽちも思わない。


 それよりも何よりも、私は焼き肉が食べたい。

 私はダリオさんに頭を下げた。


「本当にありがとうございました。私を助けて下さった同期の方にもお礼を言いたいのですが――……」

「アイツはもう別の案件で動いているから、ここにはいない」

「そうなんですね。では、厚くお礼を言っていたとお伝え下さい」

「ああ……」

「それでは、失礼します!」


 そう言い残し、脱兎の如くスイートルームを出ていこうとした私の行く手をダリオさんが阻んだ。


「待て、何を急いでいる」

「今日は二十二時からのバイトを入れていなかったので、家族に早く帰れると伝えていたんです。こんな時間になってしまったので、きっと心配してるはず……」


 私はもっともらしい理由をスラスラと述べた。


「“今日は”二十二時からバイトを入れてなかったって……先程までホテルで働いていたじゃねえか。いつもは、その後も働いているということか?」

「掛け持ちしてるんですよ、掛け持ち。貯金ペースを上げたいんです」


 ヴァンリーブ王国警察に所属しているエリートのダリオさんには理解できないだろうけどと思いつつそう伝えると、意外にも彼は納得したのか強く首肯した。


「ああ、なるほど。大変だよな、掛け持ちは。オレもやってたから、ちょっとは気持ちわかるぜ」

「え?」

「警察学校通うために、相当バイト掛け持ちしてたんだ。だからオマエの大変さ、少しは理解できる」

「ダリオさんが掛け持ち……い、意外です」


 フン、とダリオさんは鼻を鳴らした。


「どうせ、掛け持ちなんてしたこともない男だとでも思ってたんだろ。……ここまでのし上がるまでに、どれだけ働いてきたと思ってんだ」


 ――と、親近感を覚えたところで、今の状況を思い出した。

 早く家に帰らねば……。


「とりあえず、帰ります。本当にありがとうございました……」


 私は頭を下げて部屋のドアノブを回す。

 すると、そんな私の手に――ダリオさんの手が覆い被さってきた。

 首を捻って頭上を仰ぐと、彼の顔が至近距離にあって。


 彼は苛烈な色彩を宿した瞳を揺らす。


「一つ聞きたいことがある」

「何でしょうか……?」


 内心、近い位置にある彼の顔にドキドキしていたが、冷静を装って返事をした。

 ダリオさんは惑ったように視線を動かし、口火を切る。


「先程、銃口を向けてきた男から、何か聞いたか?」

「え?」

「確認させてほしい。アイツらの会話を聞いたのか否かを。それによって――オマエの今後の生活に支障が出るか出ないかが決まる」

「……今後の生活に……支障?」


 そうだ、とダリオさんは難しい顔をして頷いた。


「もし、アイツらの会話を何も聞いていないのなら、一ヶ月程度、身の回りの護衛すれば良いだろうが……もしも何か聞いていたら――ヤバイ、と思う」


 オレの勘だけど、とダリオさんは付け加える。

 動物並みの鋭さを持っていそうな彼にそう言われると、何だか本気でヤバい気がするのだが。


「………………」


 サーッと私の顔から血の気が引いた。


 そんな私の変化に気づいたのか、ダリオさんはフッと表情を和らげる。


「混乱してるだろうし、聴取は明日以降にするかな。……今日は聞くのやめといてやる」

「そうしていただけると、助かります……」


 ダリオさんは頷くと、私から離れてソファに無造作に脱ぎ捨ててあった自身の上着を羽織り、内ポケットからカードキーを取り出した。


「家まで送る。あの小太りのヤツは取り押さえたけど、もう一人は逃げたからな。オマエを付け狙ってるかもしれない」

「ありがとう……ございます…………」


 消え入りそうな声で感謝の言葉を述べた。

 ダリオさんはそんなこちらを真っ直ぐ見つめたと思ったら、瞳をせわしなく動し――

 そして――……。


「そ、その……さっきは――――った……」

「……え?」

「すみません、語尾が小さすぎて聞き取れなかったんですが」


 首を傾げる私に対し、ダリオさんが苛ついたのが雰囲気で感じ取れた。

 彼は鮮烈な印象を与えるタイガーアイの双眸を一直線にこちらへ向ける。


「悪かったって言ったんだ!」

「…………」


 何故彼が謝ってくるのかわからず思考を巡らせ――カムジェッタ・ホテル内で起こった悪態事件を思い出した。


「ああ、あの悪態のこと……ですか?」

「――オマエが言ってたように、たしかにあれはオレが悪かった。…………少しはな」


 ダリオさんは再度謝罪の言葉を口にした。顔は真っ赤だ。

 俺様で口が悪い器の小さい男性だとばかり思っていたが、どうやら罪悪感とギリギリ範囲内の常識は持ち合わせているらしい。


 素直でないダリオさんに生ぬるい視線を送っていると、


 その視線に耐えられなかったのか、


「だーっ! ――あ、そうだ。オマエ、シャワー浴びていけ!」


 と叫ぶように言って、私をくるりと反転させるとバスルームに押し込んだ。


「ええええええぇぇ!? いやいや、それはちょっと……」

「路地裏の汚ぇ地面に倒れ込んだままのオマエを乗せたら、車が汚れるだろうが!」


(問題そこ!?)




 ━-━-━-━-━-━-━-━-━-━-




 あれからダリオさんに言われるがまま、私はお風呂で汚れを洗い流した。

 私がお風呂に入っている間にルヴァンソン・ホテルの女性スタッフに言いつけて、新しい服まで用意してくれるというダリオさんからの好待遇ぶり。

 至れり尽くせりすぎて、戸惑ってしまう。


(しかも――……)


 ぐるりと自分が乗っている車を見て、私は唾を呑み込んだ。

 ダリオさんが運転しているこの車。


 め ちゃ く ちゃ 高 級 車 だ 。


 テレビや雑誌をとんと見ない私でも知っている、要人御用達の車。

 そんな車の助手席に、私は乗っていた。


「くそっ、王子とか乗せるのに使ってる車だから目立つことこの上ない」

「本当に、目立ってますね……」


 先程から、道行く人々がこの車に注目している。


 どこかの国の要人が乗っているの!?


 ……と後部座席に向かって期待がこもった視線を送る人々。

 そんな人々の期待を裏切っている居心地の悪さと言ったらない。


 ダリオさんいわく、目立たないように一般車で移動するよりもこの車を使うのが安全なんだそうだ。

 たしかに、要人を乗せる車なのだから安全性は文句なしだろう。


「じゃあ、オマエんちまでナビ頼むぜ」

「はい」


 瞬間、ぐうとお腹の虫が鳴った。


「………………」

「………………」


「真後ろにある冷蔵庫ん中、なんか食べ物入ってるはずだから食っとけ」

「…………ありがとうございます」




 ━-━-━-━-━-━-━-━-━-━-




「……で、この道を真っ直ぐ行けば我が家です」

「わかった」


 私は、ふっと息を吐き出した。ようやく自宅に帰り着くという安堵感が体を満たす。


「……今日は疲れただろうから、帰ったらゆっくり休めよ」

「ダリオさん……」


 実は優しい人なのだろうか。

 そんな気持ちで彼の端整な横顔を見ていると――……。


「明日から、みっっっっっっっちり事情聴取だからな」


 サラリと私の心をどん底に突き落とす発言を繰り出した。


「いや、あの……私は明日仕事がありまして」

「知ってる。クローバー・ホテルだろ。さっき報告が上がってきた」

「……私がお風呂を借りている時に調べたんですか?」

「安心しろ。オマエの名前が偽りじゃないかとどこで働いているかしか調べていない」


 ――約束だからな。


 ダリオさんはそう言って、ふっと笑った。


「オマエ、掛け持ちバイト全盛期のオレと同じくらいハードスケジュールで働いてるな。マジで尊敬するぜ。“その年”で」

「! 年……年って! 年齢調べる必要あったんですか!? てか、その発言って差別です! 変態です!」

「いや、本気で敬意込めて言ってんだぜ? オレと同い年でそこまでストイックに働いてるなんてすげえ」


 ダリオさんは怒る私を軽くいなしながら、落ち着いた運転をしてくれている。

 ――きっとダリオさんは、私の恐怖感を和らげようとしてくれているのだ。

 彼の声色や表情、口調の端々から、そういった心遣いが感じ取れた。


「事情聴取はオレがやるから安心しろ。思い出せるまで付き合ってやる。無理に思い出せと強要しないと約束もしてやる」


「……ダリオさんが担当とか……不安です。恫喝どうかつされそう」

「あ!? ……上等だ。お望み通り恫喝してやろうか?」

「冗談です、すみません」




 ━-━-━-━-━-━-━-━-━-━-





 そんなノリで話しているうちに、気が付いたら私の家に到着していた。


「あの、ありがとうございました。お風呂も服も貸して頂いて……。服はクリーニングに出してお返――――」

「いい。その服は持っておけ。返してもらっても処分に困るだけだ」

「そんな――……」


 ダリオさんは短い溜め息を吐き、シートに背をもたれた。


「それをオレが着ると思うか?」

「…………………………。思いません、全然思いません」


 やめてほしい。

 ちょっと……いや、結構鮮明に想像してしまったではないか。

 すぱっと言い切ると、ダリオさんは「だろ?」と肘を窓縁に乗せて笑った。


「じゃあ、ありがたくもらっとけ」


(でもこれ……かなり高いブランドもの……)


 しかし、この服を返してもダリオさんとしては処分に困るのなら。

 ありがたくもらっておこう。

 私はぎゅっと今自分が着ている服の裾を握りしめ、笑った。


「ありがとうございます! 大切にします!」

「おう。あと…………ほら」


 ごそごそとダリオさんはメモ帳に何かを書き付け、それを私へ渡した。


「これ、オレの番号だから登録しとけ。明日バーの仕事終わったら連絡しろ」

「え、いいんですか? 仕事休まなくても」

「当たり前だろ。休んだら、給料減っちまうじゃねえか。んなことさせねえよ。睡眠は削らせてしまうことになるが……」


 ダリオさんはそう言って、グッと唇を引き結んで視線を逸らした。


「悪いな……それくらい、オマエの事情聴取は重要ってことだ。アイツらに関する情報を少しでも得たい。ヴァンリーブ警察の人間として、いや――ヴァンリーブの人間として」


 ――カムジェッタ国の警察ではなく、ヴァンリーブ王国の警察が事情聴取をおこなう。


「私を殺そうとした人たちって、ヴァンリーブ警察が追ってる人間なんですか……?」

「ああ、そうだ。……ヴァンリーブ人かはわからねえけど、ヴァンリーブ王国をメインに活動しているヤツらだってことは確かだ」


 小太りの男も指名手配してたヤツだったし……早く止めないと、と呟くダリオさんの表情は険しい。


「だから、オマエの事情聴取はオレがやるんだ」


 差し迫った事情もあるのだろう。

 銃を所持しているくらいだから、危険な人たちだということは明白。

 私は奥歯を噛みしめて首肯した。


「わかりました。……明日の事情聴取、ご協力します」


 これも人助け。そして自分の身を守るために必要なこと。

 すると、ダリオさんは嬉しそうに表情を明るくした。


「サンキュー」




 ━-━-━-━-━-━-━-━-━-━-




 ダリオさんは玄関口まで着いてきてくれた。


 これから最低一ヶ月、ヴァンリーブ王国警察官もしくはカムジェッタ国警察官が我が家の周囲にこっそり潜み、二十四時間体制で見張ってくれることになったらしい。

 既に複数の男性が、自宅近くにある電柱やら物陰やらに潜んでいる。


「では、本当にありがとうございました。そして、これからよろしくお願いします」

「礼の言葉は聞き飽きた」


 ダリオさんは腕を組みながら、私が玄関のドアを閉めるその瞬間まで玄関の門のところから見守ってくれていた。


「…………ただいまー! お母さん! 叔父さん、叔母さん! 私の分の焼き肉……残してるよね!?」














「……このまま何事もなく、家族と共に暮らせるといいけどな」










 ……ダリオさんが呟いた言葉は、聞き取ることができなかった。



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