第8話 それかバシルーラが使いたい

 まいった。


 林に近いとはいえ、まさかこんな家の付近に魔物がうろついているとは思わなかった。このあたりの魔物は父さんやアリーシャの親御さんを筆頭にした冒険者の方々が根絶やしにしているという話だった。なんだってこんな場所に魔物が出没したのか。


 魔物なんてそうそう見るものではなく、俺だって本物を目にするのはこれが初めてである。俺の初めてがこうもあっさり無理矢理奪われてしまうとは。

 初めての遭遇だというのにソレは、一目で魔物であると理解できてしまう禍々しく、どす黒い瘴気のようなもを纏っている。これが魔物でないのなら何が魔物なのか。


「ゆ、ユノくん……」


 いつもは底抜けに明るいアリーシャの震えて怯え切った声を初めてきいた。俺だけではなくアリーシャの初めてまで奪うとは、魔物許すまじ。

 

「大丈夫だよアリーシャ。まずは背中をみせずにゆっくり岩から降りよう。慌てず、騒がず、そーっと降りて」

 

 アリーシャに指示を出すと、言いつけを守るために唇をかたく引き結び大きな目で俺を見つめながらゆっくりと岩から降りる。横目には黒い体毛に覆われた狼の姿に似た魔物をとらえながら、アリーシャが岩から降りたのを確認すると、俺も続いて岩から降りる。


「いい子だ。大きな声も出さずにちゃんと言うことを聞けたね」

「うんっ」


 気の毒なほどに震えてしまっている。そんな場合ではないとわかっていてもアリーシャへの愛情が高まり、庇護欲は雲を突き抜ける。


「大丈夫、大丈夫だから。アリーシャは僕が絶対に守るよ」


 噛みそうになりながらなんとか最後まで言えた。父さんのセリフを真似てみたもののまるで説得力が足らなかったように思える。何一つ大丈夫な要素がないのだからそれはそうだろう。


 それでもアリーシャを体でかばうように、自分が前に出ておく。


 魔物は狼よりも太い足を一歩、また一歩と前に進め、こちらに少しずつ近づいてきていた。

 近づいてきてわかったが、姿かたちは確かに狼に似ているが、しかし、狼とはまったく違う、巨大な化物であった。


 狼にしては体格がよく、体も全体的に大きすぎる。狼の腕は本来あんなに大きく逞しく発達しない。背も盛り上がり体毛の上からでも筋肉の躍動が見て取れる。

 あれでは虎か、グリズリーのような大型の熊の別種だと言われた方がよほどしっくりくる。


「どれだけの魔力をたくわえれば、あんな歪な姿になるんだ……」


 知識は力になる。こんな時こそ冷静に、敵対者を知る必要がある。


 依然読んでいた本の内容を思い出す――


 魔力とは攻撃的な力として活用するのが一般的であると捉えられているが、それは誤りである。生物における魔力の主な役割は一種の栄養。例外はあるものの、動物はほとんどの場合において魔力を制御しきれない。魔術として魔力を放出することもかなわないため魔力を栄養として体内で循環させるほかなく、結果、骨を補強し骨格を大きくさせ、骨の巨大化に伴い筋力も増加させていく。(骨と筋肉の前後は諸説あり)

 元はただの動物だったものが、外的要因や突然変異により魔物に変化したのか。はたまたそのように進化したのかはまだ研究が進んでいない。


 魔物を手なずけることはほぼ不可能であるとされており、ただひたすらに他の生物に対して害意を示すことを特徴とする。

 他者を殺すこと。食うこと。破壊すること。魔物はそれ以外のことを考えることはない。

 極まれに懐いたという例も報告されているが、情報が不足しすぎているため真偽のほどはわからない――


 以上が、母に抱かれながら読んだ魔力について書かれた本。その内容の一部である。


 母は、「勉強するユノは良い子ね」と言って頬や頭にキスの雨を降らせ、ルイスはそれを羨むのではなく、尊敬の眼差しを向けてきていた……が、今はそんなことはどうでもいい。


 今は林からこちらを窺っている魔物をどうするか。その一点に集中しなければならない。


 人は未知なるものを恐れる傾向にある。新しい事に挑戦するとき、程度の差はあれどみな緊張してしまう。それは無知からくる恐怖ゆえのこと。正体の判然としない未知なるものに人は本能的な恐怖を覚え、躊躇ってしまうものなのだ。


 例えば入学式の日、誰もが緊張しただろう。それは未知への挑戦であるからにほかならず。入学式に慣れて、手順を知っている教員はさほど緊張をしない。

 テスト勉強をしてきた者と、してこなかった者ではテストが始まる前の緊張感は意味合いが違う。何事もそうなのだ。知っているからこそ自信を持って挑むことができて、知らないからこそ怯えてしまう。ゆえに、知っているということ、知識とは力になるのだ。


 だから俺は魔物を知っている分……いや、やはり怖い。知っていても魔物は怖い。怖いものは怖いに決まっている。魔物に詳しかろうが薀蓄を持っていようが、殺意を向けてくる相手に恐怖を和らげる効果はない。

 檻の中にいるライオンや虎ですら恐ろしいのに、何の囲いも無いこの状況で魔物と対峙して恐怖を感じない方がどうかしている。魔物について知っているからとかそんな話は無意味で無駄な思考だった。


 明らかにこちらを獲物として認識している様子の魔物が、ゆっくりと近づいてくる。体は既に林から完全に抜け出している。


「あれが魔物なの……?」

「顔を出しちゃだめだ。このまま僕の後ろにいてくれ。アリーシャはいい子だからできるだろ?」

「うん、アリーシャはいい子だからユノくんの言う事はなんでもききます」


 では俺の尻にキスしろ。今すぐにだ。

 言質はとった。あとになってやっぱりなしとは言わせないからな。


「いい子だ。あとで頭を撫でてあげよう」

「うんっ……」


 この緊迫した状況でもアリーシャは健気にも嬉しそうな声音で返事をした。

 愛しさが愛棒から溢れてしまいそうだ。お返しにと言ってはなんだが、大人になったら俺の愛棒の頭もいっぱい撫でておくれよ。


 アリーシャは俺の背中に張り付き、恐怖から体を震わせているのが伝わってくる。いつかリモコン式のバイブレーションする例の大人のオモチャをアリーシャに使い、街中をこんな風にして歩きたい……と、今考えるべきは遠い未来ではなく、現状をどう切り抜けるかだ。


 切り抜けられなければ今後もくそもないのだ。リモバイデート後は狼となってアリーシャを食べるつもりだったのに、このままでは狼のような魔物に俺たちが食べられてしまう。

 こんな事ならば母さんに魔術の手ほどきでも受けていればよかったか。一方的に依存されているようで、自分もべったりと母に依存して甘えていたのが仇になったか。

 精神は四百歳でも体は六歳なのだ。どうしたって思考が体に引っ張られてしまい、ただの六歳児として母からの愛情を貪ってしまっていた。


 折角記憶を引き継いで生まれたというのに、六年間も何をしていたんだ俺は。知識は力じゃなかったのかよ。


 しかしこの場面、物語の主人公ならば自身と幼馴染のピンチという状況に反応し秘められた才能や眠っていた力が開花。超絶的な力で問題を解決して「凄い! 抱いて!」と嫁を一人確定させる流れではないだろうか。


 例えば、俺が勇者であったり……なんてな。そういう期待はしない方がいい。

 神様から貰った特別な力は前世の記憶の引継ぎのみ。残念ながらそれ以外の特別な力など俺には備わってはいない。何をしても六歳児並みの力しか出ない。四百年分の現実を見てきた俺が、今さら窮地を乗り越えられる都合のいい奇跡など本気で信じているはずがないのだ。


 状況は絶望的。ツーアウトツーストライク、走者なしの100対0の九回裏だ。ここは一つコールドゲームということにして帰らせてくれないだろうか。或いは雨でも降って試合が中止になってくれればいいのだが。


「ごめんね、ユノくん。大丈夫っていってくれたのに、やっぱりこわいよぉ……」


 現実逃避をしている場合ではなかった。どうにかしてアリーシャだけでも守らなければ。

 

 川を泳いで逃げるというのはどうだろう。

 不可能だ。二人で反対岸まで泳ぎ切る体力などないし、仮に泳ぎきれても魔物が泳げないとも限らない。

 では走って逃げるというのはどうだろう。

 これはより不可能だ。少しも行かぬうちにあっさりと捕まるだろう。

 だが逃げるという作戦の方向性は限りなく正解に近く、生き延びる可能性が高いはずだ。


 一人が犠牲になりさえすれば確率は高くなくとも0でもなくなる。

 そう、何も二人が助からなくともいいのだ。一人だけでも無事ならば、町へと戻り母さんたちに魔物が現れたことを伝えられる。そうなれば町の冒険者や駐屯騎士団が魔物を討伐してくれるはずだ。残念ながら残った一人は確実に死ぬだろう。


 そして、もし今、どちらかが死ななければならないのだとしたら。それは間違いなく俺であるべきだ。


 アリーシャだけは絶対に死なせてはいけない。怪我の一つだっておわせたくはない。俺は彼女のために死んだっていい。死ぬ覚悟がある。

 損得勘定でも理屈でもない。心の底から湧きあがる気持ち。言葉では言い表わせぬ、複雑に絡み合う感情の集合体が、俺の体を操り突き動かそうとしている。


 俺の勝利条件は一つだけ。アリーシャを生きて家にかえすことだ。


「よし……」


 勝ち目などは万に一つも億に一つもなくとも、それでもやらなければいけない。

 アリーシャの命を守るために俺が戦わなければいけないのだ。


 狼型の魔物は一歩ずつ、確実にこちらへと向かってきている。見たことのない獲物に警戒しているのか足取りは重い。こちらの力を測りかねている様子で、それはこれ以上なく好都合だ。


「アリーシャ、少しずつ下がるんだ。僕があいつと戦うから、その間に逃げてほしい」

「だめだよ、勝てないよ。まものは強くて恐いんだよ!?」

「ふふん、実はこんなこともあろうかと前々から父さんに剣を習っていたんだ。こう見えて僕は大人よりもずっと強いんだぞ」


 嘘である。前世で剣道を習っていた記憶すらないので剣など振れるわけがない。俺が振れるのせいぜい愛棒ぐらいなもので、それだって誰にも命中したことはない。


「ほんとうにやっつけれるの……?」

「ああ、任せておいてよ」

「嘘だよ、ユノくん弱そうだもん!」

「…………」


 子供らしいストレートな物言いだ。嫌いじゃないぜ、むしろ癖になりそうだった。

 この調子で大人になったら、将来はどんな言葉で俺を罵ってくれるのだろうと期待に股間が膨らむ。


 罵ってもらいながら愛棒を踏んでもらうためにも、これで意地でも生きなければならなくなったな。


「弱いかもしれないけれど今ならアリーシャを守れるぐらいには強いんだ」

「ううぅ……やぁ……!」

「さあ、時間がないから早く下がるんだ。僕があいつの気を引いておくから、十分に距離があいたら一気に走るんだよ」


 剣は使えないかもしれないが、空手と柔道を習っていた記憶ならほんのりある。

 繰り返し反復し体に覚えさせた動きは最後の最後まで裏切らない――前世で読んだボクシング漫画に出てくるジムの会長はそんなようなことを言っていた。会長の言うことなら間違いはないはずだ。


 問題は六歳児の体でどこまで戦えるかという点だ。魔物どころか普通の狼すら倒せるはずがない。前世の小学生時分、友達の家の大型犬にがっつり後背位で組み敷かれた苦い思いでもある。


 肉体が大人であったとしても対人用に習得し、厳密なルールに守られ、試合という場でのみ使用することを前提として磨いた技術が、野生の獣に通用するとは思えない。


 だが、今回は倒す必要はないのだ。

 アリーシャを守れたらそれで俺の勝利だ。


「ユノくん――やだよ」


 濡れた声でアリーシャが言う。

 表情はうかがえないが絶対可愛い顔しているはずだ。


「よぉし魔物にも勝てる気しかしないや。これはもしかしたら秘められた勇者の血が覚醒するかもしれないな」


 魔物は怯えているこちらの空気を目ざとく察知したのか、狩ることに方針を固めたらしく勢いよくこちらへ駆け始める。


 判断が非常に早い。

 早い男は嫌われるぞ。


「きゃあ!」


 怯えたアリーシャが後ろに倒れてしまう。

 まずい――どうするかを考えるよりも先に体は動いていた。

 少しでもアリーシャと魔物の距離を離すための方法はこれしかないと、俺のほうから魔物に向かって走りだした。


 近づいてから改めてわかったが、魔物の大きさは相当なものだった。

 勝ち目などない。また童貞のまま死ぬのか俺は。今回は最短記録更新だ。


 死ぬとわかっていても諦めるには早い。

 せめて時間を稼ぐのだ。アリーシャが十分に逃げられるだけの時間を稼ぐ。体が動くうちは指一つでも動かして魔物の気を引くんだ。


 無駄死にをするつもりはない。せめて怪我の一つでも負わせてやる。

 魔物の動きに意識を集中し目を凝らして見てみれば、思ったほどには魔物の動きが速くはないと感じた。不思議なことに遅すぎるとすら感じた。むしろスローモーションのようだと。


 ああ、わかった。死ぬと理解した直前の、時間がゆっくり進む感覚がこれか。

 タキサイキア現象と言ったか。感情によって時間の進み方に変動が生じるというあれだ。

 これはまるで初期の黄金体験ゴールドエクスペリエンスだ。ブチャラティがくらったやつな。

 

「これから死ぬからか」


 魔物と激突しようかという寸前に足を止め、飛びかからんとする魔物の攻撃を横へ飛んで躱す。体ごと振り向き魔物を再び視界に入れると、遅れて魔物も体を翻してこちらの様子を窺っていた。


「ハッ、躱されたのが意外で驚いてるのか?」


 馬鹿め、俺も存外うまくいったのが意外だったから驚いているわ。二度同じ芸当が可能だと思うなよ。それに躱せたところで、そのままアリーシャに向かわれたら俺の負けだった。喜んでいる場合ではない。


 そうだアリーシャはどうなった。


 すぐさま視線をアリーシャのいた場所へ移すと、さっきと同じ場所でへたり込んでいる。へたり込んで、一歩も離れていない。


「ゆ、ユノくぅん……ごめんなさい、あ、足が動かないよぉ」


 左からは魔物の低いうなり声。

 右からは涙まじりで懺悔するような声。




 すみません、今から入れる保険ってありませんかね。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る