第39話


『諦めるな!』


 マツリの体がまばゆい炎を吹き上げた。ほんの一瞬だけの、閃光のような炎だった。疫神の目がくらむ。体の中に張り巡らされた全ての糸が燃え上がり、耐え難い苦痛をマツリにもたらす。しかし、目は醒めた。


「ありがとうございます、ナマハゲさん!」


 喉が焼け、言葉が出ない。ナガサを握るだけでも耐えられない痛みが襲う。それでも両手でしっかりと握りこみ、振り上げる。疫神の体を逆袈裟に両断した。まるで固体であるかのような濃さの煙が噴き出し、疫神が絶叫する。


「どうだ……!」


 疫神の下半身がほどけて倒れ、上半身もうつぶせに地面に落ちた。まだ息がある。マツリはトドメを刺そうとするが、彼女の体もまた限界を向かえて膝をついた。


「ナマハゲごときが……だが……!」


 疫神が残った腕を小さく動かす。上空に僅かに残った糸が旋回する。マツリは自分の体に全ての糸を潜り込ませ、それを燃やしきるつもりだった。一瞬の炎なら耐えられると踏んでの作戦だった。そして実際に大半の糸を燃やし、疫神に重大な一撃を加える事はできた。しかし数千の糸は残り、しかも自分はまともに動けない。


「私の勝ちだな!」


 薄明かりの空で糸が停止する。そして無慈悲に降り注いだ。


「マツリ! 心を強く持てよ!」

「ウゥ……!」


 全身に力を込めて糸の着弾を待つ。それだけでも痛みがひどい。もう一度炎を纏えばそれこそ自殺行為だ。マツリはこの痛みによって意識を保とうと覚悟を決めてぎゅっと目を閉じた。


 だが、いつまで経っても糸が潜り込む感触はなかった。タイミングをずらすつもりか? 何もできない様子を見て楽しんでいるのか? マツリはゆっくりと目を開けた。正面の疫神は空を見上げている。自身の体が焼ける匂いの中に濃密な土の匂いが混じり、マツリと疫神との間に何者かが着地した。


「遅くなった」

「バカな! お前の仮面は砕いた!」


 パーントゥだ。いや、その見た目はほとんど宮古のままだ。仮面と同じような無表情だが、全身に泥を纏った宮古だ。痛む体を捻って周囲を見渡すと、大量の泥によって絡め取られた糸が地面に落ちている。


「やられたのか」


 パーントゥは腕を伸ばし、手のひらから滴り落とすようにしてマツリに泥をかけた。それに触れるだけでも刺すような痛みがあったが、じわじわと痛みの根が消えていくような感覚があった。これがパーントゥの癒しの力なのだろう。


「あ……ありがとう」掠れていたが声が出た。

「ん。あとはコイツか」


 パーントゥが疫神に向き直る。両手を振って泥を浴びせかけ、さらに飛びかかって踏みつける。薄い煙が上がった。


「ダメだ」

「どうしたの?」

「時間切れだ」


 パーントゥが疫神から距離を取る。全身の泥が固まり、ぽろぽろと崩れていく。


「そんな、夜明けはまだ……」

「パーントゥは早い。とっくに時間切れだ。無理をしてくれた」


 宮古は空を見上げる。彼には見えていたのかもしれない。無理をしてでも力を貸してくれたパーントゥの姿が。そんな彼を見て疫神は再び笑い出す。全身の糸をほどき、新たな形へと再構築していく。


「少し……ほんの少し焦ったが……ハハ! ここまでということか!」

「いや。それはパーントゥだけだ」

「なに?」


 宮古は全く動じずに言ってのける。その理由は彼の視線の先にあった。疫神の後ろの、正面エントランスの中で、切りそろえられた髪の男が叫ぶ。


「結界の再構築完了! やれ! クロ!」

「おう」


 宮古が一歩脚を引き、狙いを定めるようにして駆けていく。まるでフリーキックでもするかのように軽快にステップを踏んで鋭く振り抜き、疫神の上半身を蹴り飛ばした。それはきりもみしながら猛烈な勢いでエントランスをくぐり、見えない結界に衝突。濃い煙と悲鳴を噴出させた。


「なに? 今の……」

「知らなかったんですか? クロは普段から強いんです」

「限度ってもんがあるべしゃ」


 マツリがゆっくりと立ち上がる。観客席はにわかに色めき立っていた。結界の下で疫神がうごめき、体を起こそうとしている。


「押さえつけろ! 全員でかかるぞ!」


 多くの足音が迫り、一斉に疫神にのしかかる。鹿又をはじめとしたオニ部隊の面々だ。バイザーは壊れ、装備もボロボロだ。それでも愚直に身を投じている。マツリは思わず一歩踏み出した。


「鹿又さん! 危ないですよ!」

「それが何だというんだ! 我々は執行隊だ! 全ての警察官が私たちを動かすために努力してくれている! その我々が今動かなくてどうする!」


 隊員たちがその言葉にオウと応える。マツリの足に力が宿った。一歩を踏み出し、さらにもう一歩踏み出す。


「この! 人間ごときが!」

「頼むぞ! ナマハゲ!」


 疫神の糸がオニ部隊たちを貫き、命令を与える。諦めろと。しかしそれでも動かない。彼らの心にはシンプルかつ強靭な信念だけがあった。耐えろと。仲間を信じ、来訪神を信じ、ただ耐えろと。その心が疫神の命令をギリギリのところで跳ね除けていたのだ。


 マツリの拳に力が宿った。もはや痛みなど感じない。感じている場合ではない。感じるはずもない。


「オォーオオォ!」


 咆哮。勢いよく腕を振って疫神に向けて猛進する。激しい息遣いが仮面の中で反響していた。


「決めますよ! ナマハゲさん!」

「決めるど! マツリ!」

「みなさん離れて!」


 灘儀の声に合わせてオニ部隊たちが飛び退く。マツリの腕が振り上げられる。その拳には炎を纏っていた。疫神には逃げ場がない。腕を差し出してやめろと叫ぶ。


「ハイシター!」

「ハイシター!」


 手のひらを突き抜け、腕を粉砕し、顔面を直撃。頭部がぐにゃりと歪んで弾け飛ぶ。大量の煙とともに多くの糸が宙を舞い、音もなく床に落ち、風にあそばれた。




 観客席は大騒ぎだ。オニ部隊が集まり、この世のものとは思えない恐ろしげな叫び声が聞こえ、本物のオニのようなものが現れ、さらに謎の爆発が起こったのだから。


「やったんですか、ね?」

「ああ、やったんだべな……」


 ナマハゲ自身も疫神を倒した事など無く、あやふやな返事をするしかなかった。呆然として立ち、ただただ目の前の光景を眺めていた。オニ部隊は早くも混乱を収めるために奔走していた。タフな人たちだ。灘儀と宮古はといえば何やら互いに称え合っているようだ。とはいえ一方的に灘儀が話しているだけのようにも見える。なんだか不思議な関係に思えた。それを見て、そういえば、とマツリは思い立つ。タマキを待たせたままだった。


「ナマハゲさん、タマキを迎えに行きましょう」

「んだな、はえぐ行ってやれ」

「そうじゃなくって。タマキにもナマハゲさんのこと紹介したいんです」

「はぁ? バカけ、何言ってらんだ」

「まぁ、見えないでしょうけど……」

「んだべしゃ。バカ言ってねで変身解け」

「はは、そうですね。いつか機会をみてからでもいいわけですし」


 マツリは仮面の顎に手をかけた。その動きでもかなり痛む。変身を解いたらどんな怪我をしているんだろうと考えると少し怖くなったが、思い切って指に力を込める。


「マツリ」

「なんです?」

「次に何かあったら、おらになるつもりで力込めてみれ」

「いやほんとに何ですか? それ」


 仮面を外す。冬の朝の冷たい空気がマツリの顔を撫でた。ぴりぴりとした痛みがあり、仮面や装束が炎となって消えた。


「へばな」

「へば? ちょっとここに来て新出単語やめてくださいよー」


 返事がない。周囲を見渡したが姿は見えない。左腕の組み紐をじっと見てみても特に何も感じない。


「よっぽど疲れてたのかな。そうだよね……」

「柴灯さん」


 灘儀と宮古だ。二人とも、いや、少なくとも灘儀は清々しい顔をしている。宮古の方も見ようによってはいつもよりも表情が柔らかいように見えた。


「お疲れ様でした。いえ、ありがとうございました」

「いやいやそんな……あイタタ」


 深く頭を下げた灘儀に対して軽く手を振っただけなのだが、それでもチクチクとした痛みが走る。これだけで済んでいるのはパーントゥの泥のおかげなのだろう。


「痛むのか」

「皮膚が真っ赤です。治療は?」

「まだですけど大丈夫、大丈夫です! まずはこの騒ぎが収まらないと手が空かないだろうし」

「いや、それとこれとは――」


 観客席の混乱はしばらく収まりそうにない。オニ部隊をはじめとした警察の人間がどうにか落ち着かせようとしているが、なかなか上手く行かない様子だ。長時間この場所にいる苛立ちや疲労の蓄積もある。このままでは糸など無くても暴動に発展しかねない。


《ちょっとー、マイク入ってなくない? え? 入ってる? うっそ!》


 突然素っ頓狂な声がスタジアムのスピーカーから流れてきた。観客のざわめきの質が変化した。


《えー……あー、あー。ん! トーキョー・クリスマス・ビートに来てくれたみんなー! おっはよーございまーす!》

「なんですか? これは」

「ジュンだ……いつから居たのよあの子」


 観客席の騒ぎは混乱によって完全に上書きされていたが、マツリだけは事態を理解した。そういえばそろそろジュンの出演時間だ。こんな状況でも構わず出てくるのが彼女らしいと思えて笑いが溢れる。


《ずーっとスケジュールが延期になっちゃっててゴメンなさい! でもね、私は雨が降っても雷が鳴っても、爆発事故が起こったって、絶対に歌うから! ……って、あれ? これ言っちゃアレなやつ? 配信乗っちゃった? コウヘイくーん!》


 ついに観客席から笑いが起こりはじめた。灘儀や鹿又まで小さく笑っている。


《なんと! 配信の方はまだ再開してないみたいです! 現地組のみんな、ラッキー! 運営さん、御愁傷様ー! あーごめんごめんこれ絶対ダメだってーSNS載せないでーおねがーい!》

「なんだか面白い人ですね」

「関係者じゃ無くてもヒヤヒヤするわ」

《えーっと、じゃあ配信してないついでにちょっと私物化しちゃうんだけどー、今ね、人を探してるの。マツリーって呼ぶから返事してね。タマキが行くから》

「え?」


 マツリは目を点にした。灘儀と宮古も彼女に視線をやる。妙な恥ずかしさを覚えて目を伏せた。


「柴灯さんのことでしょうか?」

「ええ、まぁ、多分……っていうか絶対。返事しなきゃダメですかね……」

「合理的だ」

「そうだな、通信は妨害されてるんだし」

「あーもう、動かないでって言ったのに!」


 文句を言いながらもついつい頬が緩んでしまう。無事だったこと、守り切れたことの喜びが目の奥に熱を持たせた。


《じゃあみんな、一回静かにね……そうだ、私が探してるマツリっていうのはね、女の子で、背が高くて、それから目つきが怖くって、ヘソマガリで、ガンコモノで――》

「うっせー!」

《とか言うと返事したくなくてもつい反応しちゃうところがカワイイあそこの子でーす! タマキいってらっしゃーい! そして私も! ステージにいくぞー!》

「グオォ……!」

「意外と頭脳派ですね、感心しました」


 観客席は大盛り上がりだ。マツリは体をエントランスの外に向けている。そちらしか向けないのだ。空はだいぶ白くなってきた。間もなく赤みがさすだろう。冬の空気はこれほどまでに清廉だっただろうか。常に感じていたナモミの臭いを全く感じない。


 それが妙なのだ。臭いはないのに、確かにナモミツキの気配を感じた。弱い。しかし間違いない。この気配そのものを感じ慣れている。そしてこの場でナモミツキの気配を発するものといえば……。


「ナマハゲさん、灘儀さん、宮古さん」

「どうしました?」

「疫神がまだ居ます」

「なに!」

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