第38話
スタジアム外周のコンコースで2本のナガサがけたたましくぶつかり合う。しつこく降り続く弱い雨によって床は濡れており、2人の力強い足捌きによって絶え間なく水飛沫が上がっていた。マツリもいよいよ体のコントロールに慣れてきつつあり、時間を稼ぐように攻撃をいなしていた疫神も徐々に攻めへ転じていく。
マツリは体をかがめてナガサを横凪にする。以前よりも遥かに鋭い。だが疫神はその攻撃を待っていたかのように体を上下に分断。再びマツリの脇腹に向けて蹴りを放つ。しかしマツリはナガサを振り切ってはいなかった。彼女もまた疫神のその行動を待っていたのだ。ナガサの軌道を変え、迫り来る脚を切り飛ばす。濃い煙と驚愕の色が混じった悲鳴が吹き出した。
「クソッ!」
「やるでねが!」
「まだまだ行きますよ!」
マツリは切り離された上半身の下にさらに体勢を低くして潜り込んだ。疫神は咄嗟に頭部を腕で守る防御姿勢をとる。だが彼女の狙いはそこではない。さらに体を前へと進め、疫神から伸びている髪、すなわちスタジアム内の観客と繋がっている糸をいっぺんに切断した。
「何をする!」
「バックヤードで見たのよ。あの様子のおかしな人たち、お前がその糸で何かしてたんでしょ。繋いじゃおけないわ」
マツリの言う通り、糸を切断した直後にスタジアムの多くの人が意識を取り戻していた。何が起こっているのか分かっておらず、にわかにざわめきが強まる。
「バカめ。切ったところで私の糸が入っていることに変わりはない」
「でもお前の狼狽えよう。間違いなく効果はあったわ。記者の観察眼ナメてんじゃないわよ」
「1年目だべ?」
「いま言わなくていいじゃないですか!」
疫神は低い唸り声を上げながら切断された脚を新たな糸で作り出し、上半身と下半身を合流させた。切られた髪からも大量に煙が噴出している。その煙の奥、さらにその奥の仮面の中で、疫神が密やかに笑みを作った。
「女。お前はナマハゲを切っただろう」
「いまさら何だって言うの。そんなのはもう終わったことよ」
「私の糸の力だという事には気づいているんだな?」
「お前ほど馬鹿じゃないの。アタシ」
「それでは、あの時、どうやってお前に糸を植え付けたのか。理解しているか?」
「そんなの……」
はたと思い至る。あの場にあったナモミといえば対峙していたナモミツキくらいのものだ。周囲は爆炎に包まれ、か細い糸を潜ませておくことなど出来るはずもない。糸があるとすれば、それは対峙していたナモミツキの中。そもそも糸によって行動をコントロールされたナモミツキであるというのがナマハゲの見解だった。
しかし、糸を植え込むという行為にはそれ以上の何かがあるのかもしれない。糸を育てるというのも初めは分かっていなかった。それにあの場の状況を疫神が詳細に知っていることも不可解だ。糸によって知覚を共有できるのかもしれない。そしてあの状況下でナマハゲに糸を植え込んだ方法。糸はナモミツキの中にしかなかったとすれば……。
「糸の……植え替え? そのための遠隔操作……」
「やはり、1年目と言ったところか」
客席の多くの人間が一斉に痙攣を起こした。その全てから、静かに、そして素早く糸が飛び出す。糸の強みの一つに、それ自体にはほとんど気配を感じさせないというものがある。だがこの時ばかりは違った。3万か、4万か、それ以上だろうか。あまりにも大量の悪意が迫ってくること自体がナマハゲの直感に触れた。
「避けれ!」
ナマハゲの声と同時に体が動いた。巧みに体を回転させてナガサで切り落としていく。しかしそれではとても捌ききれない物量だ。一気に何十本もの糸がマツリの体に突き刺さり、スルリと体内へ入っていく。
それを許すわけにはいかない。マツリは全身に炎を宿した。その痛みは身をもって知っている。しかも今回は体内へ入った糸をも焼く必要がある上に、ナマハゲによる痛みの肩代わりがほとんど効いていないのだ。筆舌に尽くし難い苦痛を、声を押し殺して耐える。どれほどのダメージを受けているのかを疫神に悟られてはいけない。こうして炎を宿しているうちは糸による攻撃は止んでいるのだから。
「糸の接近に気づいたのか? あとほんの少しで心に届いたんだが」
「残念だったわね。大事に育てた糸が焼かれちゃって」
そう言ってマツリは一旦炎を消した。息が乱れている。同時にナガサを御幣杖に持ち替え、それに炎を宿す。マツリを仕留め損なった数万の糸は彼女の頭の上で円筒を作り出すようにして漂い、攻撃の機会を窺っている。
「考えを変えたよ。もうあの苗床はいらない。また植えなおすのは手間だが、お前のような障害を排除してからゆるりと取り掛かることにしよう」
糸が飛び、疫神も地面を蹴った。同時攻撃だ。一斉に襲い掛かる糸に対して杖を振って炎を浴びせかける。何本かを焼くことが出来たが大半は翻って宙を舞った。その隙をついて疫神のナガサが迫る。切っ先を当てるように立ち回り、決してマツリの間合いに踏み込まない。そこへさらに糸による追撃。マツリは防戦一方だ。
正直なところ、疫神にとって糸の繋がりを絶たれた事は痛手であった。彼の体はまだまだ不完全なものであり、実力は強いナモミツキ程度の範疇に収まっている。押し負ける可能性があるのだ。完全な体を作り出すには今の何倍もの糸を育てなくてはならない。その不足分を補うため、大量の人間から直接ナモミの力を取り込み続けることによって力を増幅させていた。
さらに言えば直接繋がる事によってその人間を思いのままに動かす事もできる。いざという時はそれを盾にすれば、苗床を失うのは癪だが、それでもマツリの行動を大きく制限できると考えていた。そのため、糸を切られた事に対する余裕はブラフに過ぎなかったのだ。彼に残されていたのは、どちらにせよ不利な2つの選択肢だけだった。
1つ目は、糸に命令を飛ばして人間をナモミツキとすること。ひとつの指針「衝動に従え」を与えて足止めさせるのだ。しかしこれは同士討ちの懸念が強かった。他のナモミツキが気に入らなければそこで争いが発生する。マツリに圧力をかけることなく無為に苗床を失ってしまってはたまったものではない。
2つ目は、今やっているように糸の物量で押すこと。苗床から糸を抜いてしまう事になるが、それでもマツリさえ対処してしまえばまた植える事もできる。何より相手は一人であり、そして活動できる時間も残り少ない。糸を植えることができれば勝ち。息の根を止めても勝ち。勝ちきれなくても、糸を減らされても、時間を稼いで日が昇れば良し。この極めて受け身で消極的な作戦をあたかも狙い通りであるかのように見せかけているだけに過ぎないのだ。もしも糸を完全に防ぐ手段があれば、もしも多くの糸を燃やされれば、不完全な体で正面から戦わざるを得ない。そして防ぐ手段は、あるのだ。
「ナマハゲさん、もう一度やります!」
「焦るでねど!」
「焦りじゃありません、アイツは糸に頼り切ってます。それなら糸さえ防げれば……」
マツリの全身を再び炎が包み込む。糸を焼き、そして彼女自身の体を焼いていく。
「アイツを直接叩けます!」
「チッ……」
糸の壁を突き抜けてマツリが疫神に迫る。杖でナガサを防ぎ、炎を振りまき、そして体を浮かせたトリッキーな蹴りを叩き込んだ。そうして体制を崩した疫神に渾身の力で杖を叩き込む。
「ハイシター!」
「ハイシター!」
フルスイングが疫神の腹に食い込む。体がくの字に折れ、何度もコンコースに体を打ちつけながらすっ飛んでいく。マツリは炎を消し、すぐさま追いかけた。たどり着いたのは正面エントランス。暗がりの中、スタジアムの中から漏れる光が2人のシルエットを浮かび上がらせた。疫神はよろめきながら立ち上がり、マツリの背後にある糸を呼び寄せる。しかし当然想定済み。御幣杖を振って退けた。
「何度やっても無駄だ!」
「なぜ……」
再び糸を降らせる。御幣杖から放たれる炎の波がそれを寄せ付けない。だがその様子を見て疫神が気づく。
「なぜ炎を纏い続けない」
「話す義理は無いね」
「いいや……フフ、話せないんだろう」
疫神は距離をとり、糸を降らせる。同じように炎の波が糸の行く手を遮る。だが今度は多くの糸が焼かれているにもかかわらず更なる糸が飛び込んできた。数本がマツリに命中。こうなれば炎を纏わざるを得ない。体内の糸を焼き、すぐに炎を消した。
「やはりそうだ! お前は炎を纏い続けられない!」
「言ってろ!」
マツリが一気に距離を詰める。疫神は円を描くように動き、ひたすら回避行動を続けた。杖の攻撃を完全に避ける事はできないが、それでもナガサの攻撃を受けるよりはずっとマシだった。そうして自分自身に注意を向けさせながら糸を降らす。焼かれる事も厭わない大量の糸が襲い掛かる。御幣杖だけではとても対応できず、再び炎を纏う。体を冷やす暇がない。マツリのダメージはみるみる蓄積していき、次第に動きが鈍くなり始めた。回避行動の合間を縫った疫神の斬撃がマツリに届く。
「ハハハ! 糸はまだまだあるぞ! 燃やしつくせるか! それともお前が燃え尽きるか!」
「マツリ! 一旦離れれ!」
ナマハゲの言うとおりだった。これ以上炎を纏ったまま疫神を追い続けるのは難しかった。距離をとって炎を消す。藁の装束は黒ずんで多くの火種をはらみ、振り続ける弱い雨が皮膚に触れるだけでも鋭い痛みが走る。そして呼吸はひどく乱れて、目が霞んでいる。
「あの糸を、どうにかしなくちゃ」
「だども今は炎を纏えねど、呼吸を整えて体を冷やせ」
「そんな時間は……」
マツリは空を見た。ふわふわと漂う糸の向こうに見える空は明らかに白さを増してきている。歯を食いしばり、疫神に視線を戻した。
「ナマハゲさん、ちょっと無茶します」
「炎は纏うなっていってるべした!」
「いいえ、炎は纏い続けません。ただ、ナマハゲさんに任せなければいけなくなると思います。体、動かせますか?」
「んだな……数秒なら、問題ね」
「十分です」
御幣杖が炎に包まれて消えた。そして再度ナガサが現れる。握るその手には震えがあったが、気合だけで強く握りこむ。
「おや? もうヤケになったのか? それでは糸を防げまい」
「その前に、お前を切る」
「フハッ!」
上空で渦巻く糸がピタリと止まった。多くを焼いたとはいえ、まだ2万ほどあるだろう。
「自分で自分を火葬しろ!」
糸が一斉に降り注ぐ。マツリはわき目も振らずに疫神に向かって走った。炎は纏っていない。薄明かりの中にナガサがきらめく。
「バカめ! 本末転倒だろうが!」
糸がマツリの体に潜り込んだ。さらに1本、10本、100本、1000本、10000本。その全てからマツリに命令が下される。
『諦めろ』
マツリの頭の中に自分自身の声が響く。痛い。苦しい。怖い。熱い。気持ち悪い。なんでアタシが。十分やった。
足取りが緩くなり、そして疫神の目の前で止まる。ナガサを持つ腕がだらりと下がる。ついには両の膝をついてしまった。もう疲れた。諦めたい。そうだ。楽になりたい。
疫神が不敵に笑う。愉快だ、愉快だと笑い声を上げる。そしてゆっくりとナガサを振り上げた。諦めよう。ここまででいい。諦める。これで終わり。諦めろ。諦めろ。諦めろ。
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