第37話


『必ず! 守るから!』


 その声を聞き、灘儀が頭痛と胸の不快感と共に目を覚ますと観客席に腰掛けていた。スタジアム全体が見渡せる高い位置にある席だった。遠くのコンコースでナマハゲと、ナマハゲに似た何かがしのぎを削っている。

 歯を食いしばって腰を上げたところで気がつく。槍が無い。仮面も無い。舌を打って周囲を見渡す。意識があるのか無いのかハッキリしない人ばかりだ。そんな彼らから、見えるか見えないかといった細い糸がナマハゲに似た何かに向かって伸びていた。それによってあれが疫神なのだと察する。苦々しい思いが腹の底から喉元まで上がってきた。


「タツ」

「うお!」


 右側に座っていたのは宮古だった。パーントゥの姿から元に戻っている。まっすぐに遠くを見つめたまま両手を握り締めている。胸からは周囲の人と同じように糸が伸びていた。


「無事でよかった」

「クロ、何があったか教えてくれるか?」

「タツは疫神の糸を植えつけられた。だから泥で覆って祓おうとした。だけど、俺も何かされた。そこまでしか覚えてない」

「そうか……」


 灘儀は目を落とした。自分が情けないばかりに宮古にまで負担をかけたことが許せなかった。幻覚の中で聞いた自分自身の声、それがいまだに頭の中に響き、深く胸に刺さっている。そこで宮古の膝の上に乗っているものが目にとまった。半分に割れたパーントゥの仮面だ。


「クロ、それ!」

「ああ、壊れた」

「くそっ……すまない……!」


 彼の中の自己嫌悪がさらに強まる。これでは宮古がパーントゥになることさえできない。槍も無く、もはや自分にできることなど何も無い。結界も破られ、結局のところ自分は何一つ成すことができなかった。そんな心を読んだかのように宮古が口を開く。


「タツに頼みたい」

「……何をだよ。僕にはもう何も――」

「出来るだろ。神を降ろせるんだよな」

「そのための仮面は壊れてしまっているじゃないか」

「俺に直接降ろせ」


 宮古が自分自身を指した。灘儀は目を丸くする。そしてそれを彼から逸らした。


「そんなこと……」

「出来る」

「お前にも負担が強すぎて……」

「出来る」

「……僕には」

「出来る」


 灘儀が改めて宮古に目をやると、彼もまた灘儀を見ていた。両手を強く握り締めたまま、まっすぐに見ていた。


「正規の手順を踏まないと、本当に危ないんだぞ」

「ナマハゲは直接降りてるんじゃないのか?」

「彼らは特殊……特別なんだ。誰もが彼らみたいにできるわけなない」

「特別な人間じゃなきゃ、無茶しちゃいけないのか?」


 灘儀は眉間にしわを寄せながら、フッと噴き出した。


「クロ、お前こんなに熱いヤツだったっけ」

「お前はいつも自信満々だっただろ、タツ」


 宮古の口もわずかに弧を描いている。灘儀は自分の両頬を叩く。宮古の胸倉に手をやり、彼の胸から出ている糸を絡める。破邪の仮面も槍も持たない彼の手は殆ど無防備に近かったが、糸から放たれる悪意の痛みに耐えながら、絶叫と共に力いっぱいに引き抜いた。糸が触れた部分に紫の痣ができている。


「無茶してやろうじゃないか。神に飲み込まれるなよ」

「なに、見知った奴だ」


 灘儀は痛む手を無理やりに動かして印を組み、唱え言葉を呟く。頭の中に響いていた声は消えていた。見るべきものは目の前にあった。




『必ず! 守るから!』


 遠くから響いたその声を聞いたタマキはいてもたってもいられなかった。頭の中で何度もマツリに謝りながら駐車場を飛び出し、声の元を目指す。バックヤードは驚くほど静かで、彼女の荒い息遣いだけが聞こえていた。そうして関係者で入り口に差し掛かったところで初めて人と出会った。


「ウワー! もうびしょびしょ!」

「だから……傘くらい差せって……言っただろ……」


 ジュンと牧村だ。ジュンの方は体を犬のように震わせて水を払い、牧村の方はただただ呼吸を整えるだけで精一杯といった感じだった。


「あれ、タマキじゃん! おーい!」


 脱水もそこそこにジュンがタマキを見つけ、大きく手を振って駆け寄った。


「ジュンちゃん! どうしてここに?」

「どうしてじゃないよ、もうすぐ私の出番だもん。それより事故があったって聞いたよ? 心配したんだからー!」

「あー、うん。あったよ。それにさっきまでみんなが凄く混乱してたから、ステージ再開はまだかも」

「ふーん。だから誰もいないのか」

「そう。それになんだか変なことが起こってるみたいで」

「変なことって、どんな?」


 タマキの胸が痛んだ。分からない。とにかく大勢の人がおかしくなっていたことは分かる。それがなぜか、今は不気味なほど静かになっている。マツリが変身して、みんなを守ると叫んでいた。全部分かってる。それら全てが分からない。まるで鉄砲水にでも流されているかのように、何か大きな流れにあそばれているかのような感覚だった。タマキの目に涙が貯まっていく。


「わからない……私には全然わかんなくって。マツリちゃんも……」

「そうだ、マツリは? 無事?」

「う、ウウ……」


 タマキは両手で目元を押さえた。涙の堰が崩れた。どうしようもなく喉が詰まり、マトモに声を出すことさえ出来ない。


「必ず、守るって言って。どこか行っちゃって。私、止められなくて」

「守る……マツリが? 何から?」

「わかんない……でも、絶対危ないの。怪我もしてて!」


 ジュンはタマキの両肩に手を乗せた。落ち着かせようと、ぽんぽんと叩く。彼女はタマキ以上に何も把握できていない。だからこそ、その思考はシンプルだった。


「タマキ。やれることをやろう」

「え?」両手を目から離した。

「何が起こってるのか知らないけど、私は歌うことしか出来ない。だから歌う! なんかここ元気ないし。私が元気付けてあげなきゃ!」

「わ……私は……何も……」

「タマキはマツリの側にいるの!」


 タマキが目を上げる。珍しく厳しい目をしたジュンがいた。


「あ、タマキは爆発事故の取材もしなきゃいけないのか……いや! マツリが大変なんでしょ! だったらやっぱり側にいるべき!」

「私がいても……」

「タマキ以外に誰がマツリの隣にいるの! 見てれば分かるよ、マツリの元気の源はタマキなんだって!」


 視線は再び落ちたが、嗚咽は落ち着いてきた。


「あの子ひとりで突っ走っちゃうタイプでしょ? そうさせちゃダメ。危ないことしそうなら尚更。でもきっとタマキがいれば冷静になれるって」


 タマキはまだ黙ったままだ。ジュンはもう一度肩を叩いて牧村に向き直り、声を掛ける。


「コウヘイくん、音源準備しといてね。誰も歌わないんなら今すぐにでも歌っちゃおう!」

「無茶言うなよ、技術さんにも用意があるだろうし」

「じゃあすぐに取り掛かる! 今すぐに元気にしたい子がいるんだから!」

「わかったわかった。俺もできることをやるよ」

「お! その調子その調子!」


 ジュンはもう一度タマキの方を向いた。唇に力を込め、眉をハの字にしながらも、しっかりと目を開けていた。


「私、マツリちゃん探してくる」

「わかった。でもひとりじゃアレだし、コウヘイくんの準備ができるまで私も一緒に探すよ」

「うん、ありがとうジュンちゃん」

「ハハ! 私が歌う必要、1個減っちゃったかなー」

「楽しみにしてるからね!」

「よし! 行こう! コウヘイくん、すぐ戻るからよろしくね!」

「危ないことするんじゃないぞ!」

「おっけおっけー!」


 2人はバックヤードを駆け出した。彼女たちがやれることは、起こっている事態に比べればほんの些細なことに過ぎない。だがそのほんの小さな勇気が、善意が、静寂の底に確かに積み重なった。

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