東京神鬼

第36話


 火種を残す藁の装束。しめ縄のような黒い手足。癖のある長髪。そして2本のツノと太いキバを持つ金属質の仮面。あまりにも力強く、あまりにも厳めしいそれは咆哮の残響が収まるのを待ってタマキに背を向けた。


「タマキ」

「え……あ、はい……」


 マツリに近い声だった。何かが混ざっているような、何か金属製のフィルターを通したような、そんな声だ。


「必ず守るから。ここを離れないで」


 それだけ言って駆け出した。タマキの体にはまだ熱が残っている。その熱にあてられたように、その場にぺたりと尻をついた。



 マツリは体の重さを感じていた。その一方で力をかければかけるほど、今まで以上に力強く動いているような感覚もあった。自転車の重いギアを踏んでいる感覚に近い。


「動かねべ、体」

「大丈夫ですよこれくらい!」


 新しい感覚に体を慣らしながら階段を駆け上がり、疫神の気配を探りながらバックヤードを駆け抜ける。誰ともすれ違わないまま選手通用口からスタジアムのフィールドへ出た。全方向からナモミの気配がする。それぞれはさほど大きくないが、とにかく数が多い。観客席を埋め尽くす繭人間のものだ。見回すとその異様な光景に言葉を失う。天井から覗く空はほんの僅かに白んできていた。


「これを祓って回るなはおどげでねな」

「手間だってことですか?」

「んだ。いぐわがったな」

「慣れですかね。なんとなくニュアンスで」


 最も低い位置にある席へ続く階段を見つけて繭人間に近づく。ナマハゲの目を通しているからだろうか、バックヤードで見た時と違って糸がハッキリと見えた。誰も彼もが微動だにせず大人しく座っている。右手に炎を灯し、御幣杖を出して注意深く疫神を探す。


「おかしいですね、さっき見た時はこれ以上ないくらい強い気配があったんですけど」

「この糸……」ナマハゲが興味を示したのでマツリは繭を凝視した。「持ってる力の割りに気配が弱え。おらたちみたいなのに見つからねようにしてらのかもな」

「疫神らしき奴はこの糸で人間みたいな形を作ってました。それが解けたときにすごい強い匂いがしたんですよ」

「ははぁ……隠禍孔も開いてねのに姿を表した方法、分かってきたど」


 マツリは繭人間から距離をとった。ナマハゲがそうしたがっているのを感じたのだ。


「疫神が疫霊に糸を運ばせているっていうのは合ってた」

「糸でナモミツキを大量に作って、それで隠禍孔を開こうとしているっていう見立てでしたよね」

「んだ。だども、その糸の正体を勘違いしてあったみてだな」

「というと?」

「考えてみれば当たり前の事だな。疫神が手間をかけて他の疫神の理になることをするはずがねんだ。もっと簡単に、単純に、自分だけが顕界に降りられればそれでやった」


 御幣杖に力を込める。悪しきを祓う炎の力が隅々まで行き渡っていく。観客席の前の通路を歩いていき、なるべく多くの繭人間が見渡せる位置で立ち止まった。


「マツリが見た疫神は繭から糸を集めて形を作ってあったんだべ?」

「んだす。あ、そうです」

「単にナモミツキを増やしたいんだばそうする必要ねねが。奴は糸を集めたがってらなだ。それは、この糸が……」


 御幣杖が強い光を放った。それを横凪に振ると、白い炎が繭人間たちをいっぺんに撫でていく。


「疫神の体そのものだなだ!」


 炎に撫でられた繭人間が呻き苦しむ。一様に頭を抱え、そして喉から胸のあたりを押さえている。マツリは手近な人の胸元を探り、そこから一本の糸を引き抜いた。そうするまでもなくそれには火が付き、みるみる燃えていっている。


「自分の体を糸に変えて、それを小分けにして人間に憑いていたんですね!」

「それがナモミの力を使って成長! 糸を伸ばした!」


 マツリはハッキリとナマハゲの意図が分かるようになっていた。通路を駆け、再び御幣杖を振る。


「より一層ナモミを生み出すように心を操作! アタシみたいに!」

「それが表面化したのが繭! すっかり疫神に取り憑かれた、糸を育てるための人間!」


 白い炎の波が次々と観客席を襲う。より速く走り、より強く杖を振った。


「繭に囚われていることすら気づけず! 衝動と疫神の指針に従い続ける!」

「そうなれば人の尊厳もクソもね! 死んだも同然だ!」


 スタジアムは早くも半分が火の海と化した。多くの悲鳴が上がっているが、繭人間は動かず、糸を焼かれた人間は何が起こったのかわからずに周囲を見渡したり頭痛に耐えたりしていた。

 さらに杖を振りかぶったその時。目の前の繭人間たちから中空に向かってゆらゆらと糸が伸びていった。目の前のものだけではない。残った全ての繭人間から糸が伸びていた。頭の繭さえもほどけていき、大量の糸がマツリの前に集まって巨大な玉になっていく。マツリと変わらないほどに大きく、濃密なナモミツキの気配が強烈なプレッシャーとなって周囲に撒き散らされていた。


「ナマハゲさん! あれです!」

「おう! ガッチメガスど!」


 御幣杖を左手に持ち替え、右手に力を込める。弾けんばかりに地面を蹴った。


「ハイシター!」

「ハイシター!」


 燃え盛る拳が直撃。玉が大きく歪む。しかしその火が燃え移ることはなく、かわりに濃紺の煙が吹き出した。玉は形を変え、マツリの拳を握り込む。


「ナマハゲか……まだ消えてなかったのか」


 手を振り払って距離を取る。手応えはあった。しかし効き目は薄かったようだ。いまだ糸は集まり続けている。煙が晴れてくると、相手の姿が見えてきた。


「え……?」

「あいー、たいした腹わり奴だごど」


 煙の中から現れたのは、しめ縄のように逞しい手足を持ち、2本のツノと太いキバを持つ仮面をつけていた。深い紫の煙を漂わせた藁のような糸の装束を身に纏い、癖のある長髪は多くの繭人間と繋がっている。


「どうだ? 面白いだろう」

「何がよ」

「なんだ? 人間の方か? ……ハハァ、いよいよ限界といったところか」

「言ってろ!」


 両手で御幣杖を持って飛びかかる。すると疫神は手のひらをほどくようにして同じような御幣杖を作り出し、それを握りしめた。杖同士が激突する。柄の反対側で打ちつけると疫神も同じ動きをする。先端で突きを繰り出すとやはり同じように動き、双方がそれを回避。だがその動きを予測して繰り出したマツリの蹴りが疫神を捉えた。ふらつく程度だったが確実に効いている。


「マツリ、いい動きするねが」

「あざす! なんとなくナマハゲさんがどうしたいのか分かるんですよ!」


 繭から開放された人たちがざわつき始めた。鬼と鬼が目の前で戦っているのだ。平静を保つことは不可能だろう。


「みんな動かないで! 必ず! 守るから!」


 信じられないほどの大声がスタジアムに響き渡った。全ての人の足がすくみ、動きが止まった。


「随分な自信だな、ナマハゲの女」

「蹴っ飛ばされといて何イキってんのよ」

「ハハ……何も知らないというのは、悪く無い。それに私としても今コイツらを失うのは惜しい。貴重な苗床だ」


 疫神は繭人間と繋がっている髪を愛おしそうに撫でる。


「表に出ろ、ナマハゲの女」

「何言ってんの?」

「なんだと?」

「お前は今、ここで消えるのよ」


 マツリはずんずんと距離を詰め、その右手が燃え上がる。御幣杖にかわってナガサが姿を現した。体からは熱気が立ち上っている。今ここで仕留めるという確固たる決意がその足取りに宿っていた。


「なるほどな」


 疫神の方も杖をほどき、そのままナガサを作り出した。同じようにずんずんと距離を詰める。体からは濃紺の煙が漏れ出し、今ここで仕留めるという余裕が足取りに宿っていた。


 両者が間合いに入る。同時にナガサによる斬撃。刃がぶつかり合って火花と煙が交錯する。斬撃の合間に突きを放ち、蹴りを放ち、再び刃がぶつかる。肩をぶつけ、頭をぶつけ、そして再び刃がぶつかる。いずれも譲らぬ剣戟は永遠に続くかとさえ思えた。


「こんなところか」

「なにを!」


 マツリのナガサがついに疫神の脇腹を捉え、そのまま腹を真っ二つにかっ捌く。確かに上半身と下半身を分断した。だが手応えがない。糸が絡んだナガサは宙を切っていた。その隙をついて分断された下半身から飛んできた蹴りがマツリの脇腹を捉える。全く意図していなかった攻撃はそのままマツリの体を浮かせ、観客席の上段まで吹き飛ばした。

 ナマハゲの力で体が強化されているとはいえ、これは痛恨だった。耐え難い痛みが沼のように脇腹にあり、目の前は暗くなって星が飛んでいる。そこへ切り離した上半身が飛びかかって顔面を殴りつけた。防御が間に合わずに直撃。空き缶のように後方へ転がってスタジアムの外へと追いやられた。


「マツリ!」

「は……」


 声を出すことさえ困難だ。脇腹も、首も、いや全身が、鈍い痛みで覆われている。突っ伏した地面から伝わる冷気が体の中まで冷やしていく。


「こんな痛みを……いつも……」

「マツリ、立つしかねど! 立て!」

「うぐ……」


 どうにか体を起こし、膝を立てた。そんな彼女の前に影が伸びてくる。同じシルエットを持つ疫神だ。上下の体はすっかりくっついており、右手のナガサを左手にぽんぽんと当てながら悠然として立ち止まった。


「一度蹴っ飛ばしたくらいで、何をイキっていたんだ?」

「こ……このっ……!」

「挑発に乗んでね。さっきはその隙を突かれたんだど」


 マツリはふらふらと立ち上がった。ナガサを構え、痛みは無視し、努めて冷静に。それら全てをこなすためにやらなければいけないことがあった。


「オォーオオォ!」


 精一杯に叫んだ。腹は痛んだが、それでも肺の空気が無くなるまで叫び切った。闘志が湧く。痛みを紛らわせる。頭の中がすっと晴れる。そうしてマツリは真っ直ぐに立って疫神と向かい合った。


「なるほど、それにも意味があるのか」


 疫神は感心したように呟くと、マツリと同じように叫んだ。その禍々しい響きは向き合っているものが疫神であるということを改めて彼女に強く認識させた。少しでも気を抜けば膝が笑い、恐怖で胸が押し潰されるかもしれない。


「マツリ、おっかねがるなよ」

「何でもないですよ、こんなの!」


 それは自分自身を奮い立たせるための答えだったのかもしれない。なんにせよ、マツリは依然として真っ直ぐに立って疫神を見据えていた。ナマハゲはその心をしっかりと感じ取り、小さな声で話し出した。


「おし。そんだばいいか、よく聞くんだど」

「なんです?」

「アイツは完全な力を半分も取り戻してねぇ。さっきの攻撃を受けてハッキリした」

「あれで……?」

「まだまだ糸を回収したり伸ばしたりする必要があるんだべな。さっきの様子だと糸は随分はえぐ育つみてぇだ。あったに人もいるがらな。んだがらよ、是が非でも今ここで仕留めねばなんね」

「ええ、元よりそのつもりですよ。絶対に逃しません」

「んだどもよ、大問題がひとつだけあらんだ」


 疫神とマツリの睨み合いが続く。叫ぶことで気力は充実し、痛みも紛らわせた。頭もクールだ。だが体のダメージは悲しいほどに正直で、彼女の呼吸は酷く荒いものになっている。


「苦しそうじゃないか、ナマハゲの女。私はいいんだぞ、また明日来れば相手をしてやろう」

「ふざけんじゃないわよ! 今ここで必ず祓う!」

「そうは言ってもな、気づいていないのか?」


 疫神は空を指した。視線を上げるまでもない。空は徐々に白んできている。これが意味することはひとつだ。


「お前も私も、日が昇れば活動できまい。この顕界ではな。だが私は苗床の中で夜を待つだけのこと」

「……そういうことね」


 ナマハゲと疫神の力が最も拮抗しているのは今この瞬間。時間が経ち、糸の成長を許してしまえばそれだけ不利になる。もしも疫神としての力を取り戻してしまえば、勝てる見込みなど皆無なのだ。


「私としては一刻も早く糸を育てる作業に戻りたいのだが、どうだ? お前も命は惜しいだろう」

「マツリ」


 ナマハゲの声は神妙なものだった。少しだけ言葉に詰まり、しぼり出すようにして続ける。


「逃げてもいいんだど」

「な……何言ってんですか!」

「日の出まで1時間もね。その間にアイツを祓うには相当リスクを取らねばねんだど。おめの体も、心も、持つかどうか」

「そんなこと!」

「逃げたとしても、神々が降臨される可能性はゼロではねべ。疫神の動きは把握してるはずだ。もしかしたら神々が降りてきて、なんとかしてけるかも――」

「ナマハゲさん」


 マツリは穏やかな口調で言葉を遮った。


「見た目と比べて優しすぎますよ」

「なんも……」

「でも、らしくないです。ナマハゲさんは、私のケツを蹴っ飛ばしてくれればいいんです」


 ゆっくりと大きく息を吐いて、それ以上に大きく、一気に吸った。


「顕界で起こってることだべ! 顕界の人間が立ち向かわなくてどうすらんだ! 神になんか祈ってる場合じゃねぇど!」


 背中を丸めて全力で叫ぶ。ナマハゲも、そして疫神も、それをぽかんとした様子で聞いていた。


「ってね」

「いや、ちょっとくらい祈ってもらっていいども」

「あれ? そうです?」

「それにおら、そったに訛ってらが?」

「もっと訛ってるでしょうが!」


 ナマハゲがくすりと笑う。つられるようにマツリも笑いをこぼした。腰を落とし、ナガサを構える。


「そったに根性決まってるなら、やるしかねべしゃ!」

「ええ、何でもやりますよ!」

「言ったな! 覚悟しろよ!」


 疫神は首を傾け、ため息をついた。


「愚かだな。現実を受け入れられないのは、人間も来訪神も同じか」


 面倒だと言わんばかりにゆったりとした動きでマツリと同じように構えた。インディゴ混じりの空がマツリを急き立てる。心臓が高鳴り、体のあちこちが痛む。それでも彼女の呼吸はゆったりと深いものだった。

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